第5話ピロリンの音とともに (2枚目の謎のメモ)
響香の庭は、伸子の帰国によって、ふたたび明るさに満ちていった。
思い出のストリートアルバムが、久しぶりに耳もとでそっと再生されたみたいに。
音と色が、じんわりと庭に戻ってきた。
ようやく切った一輪のバラ、ポンポネッラをテーブルの上に飾る。
響香のキッチンからの視界に、コロンとしたローズピンクの蕾がゆっくりと――
たしかに、ひろがっていく。
台所仕事のわずかな隙間時間に、その姿を写真に収めようと、スマホを探した。
探した果てに、さっき着ていた庭用のジャンバーから、スマホを取り出す。
響香は、スマホの画面をじっと見つめる。
気づけばまた、伸子のLINEページを開いていた。
伸子の台所に飾られている薔薇――アンジェラの写真。
光り輝くキッチンのステンレス。
ふんわりとしたピンクのグラデーションの花びら。
薔薇アンジェラわずかに、見える中央の芯。
黄色い雄蕊たちの存在が、そのピンクの深さを語っていた。
旅の最中、とうとうコメントをよこさなかった伸子から、
二年ぶりに届いたメッセージ。
「色々見てきたけど、一番すてきなのは、ここだわ。」
北広嶋の自宅のキッチンの輝くステンレスと、庭のバラ・アンジェラの写真の下に添えられていた。
「伸子さんたら、チルチルミチルの青い鳥のようなことを言うのね。」
――幸せの青い鳥は、我が家にあると。
伸子の宝の写真とコメントを読み返すうちに、
響香の思考は、伸子のことでいっぱいになった。
結局、写真も撮らずに、スマホを人差しで下から上へと動かしているときだった。
これを「スクロール」という動作だと、つい最近覚えたばかり。
その最中――
「ピロリン。」
不意に鳴ったその音は、実家からのLINE通知だった。
「例の、謎の……」
添えられていたのは、幼い子どもの書いた、たどたどしいひらがな。
その下に、ミミズ、芋虫、そして長いしっぽの虫の絵。
何段にもわたって列をなし、ずるずる、もぞもぞ……と。
線は、ボールペンで描かれたような跡。
ときおり、くねりながら、紙の上を這い回っている。
行列の最後には、アルファベットの筆記体。
くるりと巻かれた線が、象形文字のようにも見えた。
そして、最後の最後には――
1972・11・7。
まるで虫の行進。
右から左へ、ずるずる、しゅるしゅると。
その数字へと、じわじわ降りていく。
「これが、例の謎の……」
そうつぶやいた、そのとき。
手が、すべった。
「あつっ。」
よりによって、その“虫行列の写メ”を、伸子に転送してしまった。
あわてて、虫たちを人差し指で連打する。
「送信取り消しって……長押し、って……」
押せば押すほど、うまくいかない。
「あ、あ、あ……」
ミミズ、芋虫、そして長い長いしっぽの虫たち。
いっぺんに送り出されていった。
先日送った「バラを抱えた女の子のスタンプ」も、画面に残ったまま。
響香は、それをまた、意味もなく連打した。
その瞬間。
画面に小さく、「既読」の文字が灯る。
「……また、やっちゃった。」
でも、その「既読」の光に、ふっと口角がゆるんだ。
響香は、椅子に腰掛け、伸子に電話をかける。
電話を切ると、キッチンの鍋から「ぐつぐつ」といい音がした。
玉ねぎの甘い香りが広がり、響香はスマホをそっと抱きしめる。
2 伸子
伸子は、湯気が頬にふれて、思わず、笑みがこぼれた。
キッチンの台に置いたスマートスピーカーから流れてきたのは、
まぎれもなく、電話口で響いていた――懐かしい響香の声だった。
キッチンに飾ったアンジェラのバラの写真をLINEで送ると、
二人の時間が再び動き出したのだ。
先週の響香の声で、伸子は帰国したことがようやく実感できた。
「名古屋旅行の話だって、詳しく聞いてないのに。
次の旅行に行っちゃうんだもの。」
あのときの声が、何度も頭の中でリフレインする。
名古屋への初めての一人旅から、もう二年。
北海道で生まれ育ち、就職し、結婚し、子どもを産み育てた伸子にとって、
どの風景も、見たことのないものばかりだった。
「こんな私がいたのかしら。」
秋の空の下、部屋の隅によせたばかりの空っぽのスーツケースを見つめる。
旅の記憶を、ひとつずつ思い返した。
スーツケースをひきずりながら家の玄関に向かう途中、
伸子は「変わらぬもの」を探していた。
出国前から構想を聞いていたエルコンフィールドの新駅は、
さすがにまだできておらず、
伸子は、なじみの北広嶋駅で降りた。
けれども、北広嶋の駅前の人の流れも、建物も、すっかり変わっていた。
新たな商業施設の開業準備が着々と進んでいて、工事関係者とも多くすれ違った。
まるで、自分だけがまだ異邦人のように感じられた。
なつかしいものは、なんらなかった。
夫が造作してくれた四段の階段をのぼり、引き戸の玄関を開けた瞬間――
それが、この二年という旅の、静かなクライマックスだった。
窓を開けると、心配していたバラのアンジェラが咲いていた。
台所の食器はきれいに整えられ、二年前とほぼ同じ場所に置かれている。
新しく買われた計量カップさえも、伸子の心をやわらかく温めてくれた。
そして、台所の壁に貼られた「さしすせそ」の貼り紙。
きっと孫の凛が、一人で料理する夫のために、未希にうながされて書いたメモなのだろう。
そんな想像をすると、この台所を何度も抱きしめたくなった。
それは決して大袈裟ではなかった。
──長年の日常が戻った中で、不意に伸子のスマホが震えた。
夕飯の支度どき。
椅子にかけていた作業服のポケットの中だった。
――そのとき。
台所の片隅で、ピロリンと音が鳴った。
それは、新しい物語のはじまりを告げるような、
どこか懐かしい響きだった夕暮れの台所。
椅子にかけていた作業服のポケットの中で、スマホが小さく震えた。
取り出すと、LINEの通知。
送り主は、響香だった。
「子どもが書いた手紙……?」
画面に映ったメモの上部には、まだ形を探すようなひらがなとアルファベットが並んでいる。
きょう か ㊙
KY O KA
―意味になりきらない文字たち。
不思議な模様の絵、その下には、筆記体の英語のサイン。
そして最後に、見慣れた数字の列。
㊙︎と、ともに数字は、大人の字だった。
インクが滲み、どれもが、揺れる文字。
それでも、数字は、日付だとかんじた。
1977・11・7
「……1977年?」
胸の奥で、なにかが、かすかに鳴った。
伸子は小さく呟いた。
「――たしか大通りの喫茶店でバイトをはじめたころ。」
親指と人差し指で画面を広げ、文字列を追う。
その瞬間、息をのむ。
「これ、きっとアラビア文字だわ。」
数字の上に、柔らかな曲線を描く文字が幾重に波打っていた。
砂漠の夜、月光を受けて揺れる織物のように。
右から左へと流れる文字たちは、意味を拒みながら、古い秘密だけをひそやかに伝えてくる。
意味はわからない。
けれど、匂い、音、温度――
記憶の奥に沈んでいた感覚が、一瞬で浮かび上がる。
伸子はスマホをそっとテーブルに置き、包丁を握り直した。
日常のただ中で、時間の層が静かに重なっていく。
しばらくして、再びスマホが震えた。
響香の声。
少し慌てているけれど、どこか柔らかい。
「もしもし……さっきの写真、何だった?」
「伸子さん、ごめんなさい!
実家とやりとりしてる途中で、間違って送っちゃって。」
「弟の携帯に残ってたメモの写真だったみたい。」
伸子は、ほっと笑った。
「そういうことだったのね。」
「忙しい時間に、本当にごめんね。」
「全然大丈夫よ。」
「そろそろ次の幹事会、日程も決めなきゃね。」
「そうね。早く会いたいわ。」
「私も!」
通話が切れる。
伸子は台所に立ったまま、くすりと笑った。
あの声の余韻が、目の前にふわりと残っている。
誤送信のメモの写真。
波打つ曲線が、
あの頃の喫茶店の記憶と静かに重なった。
カーペンターズが流れる店内。
留学生にコーヒーを運んでいた日々。
伸子は久しぶりに、あの頃と同じようにドリップでコーヒーを淹れる。
湯気の向こうに、過ぎ去った時間の香りがにじみ、
アラビア文字の曲線が浮かぶたび、
遠い砂漠と月光の泉が、まるでここにあるかのように蘇る。
コーヒーの香りの奥で、
——
小さくベルが鳴った。
——あの喫茶店の扉の音に、そっと似ていた。
第6話へ つづく
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