第3話エルコンフィールドの手前で

第3話エルコンフィールドの手前で


アジアの鎌が空を切った。



それらの軌跡は、偶然ではない。


今も昔も、毎朝キッチンの前で広げる地元紙が、それを告げてくれる。


北海道の球場の歴史もまた、台所横の戸棚に積まれる新聞の束に、必ず刻まれている。


――響香は、そんな日常の中に、知らぬうちに芽吹くドラマを思った。




そもそも響香はこの地に住みはじめた頃、


雪深い大地の野球は全国区では無理だと感じていた。


「日和ハムって、テレビ中継されてたことあったっけ?」


「後楽園遊園地に行ったけど、野球場といえば……やっぱり神宮でしょ?」



響香の幼い頃の記憶は、新聞紙の文字によって少しずつ塗りかえられていった。



札張(さっぱり)ドームが開業したのは、響香のひとり娘が小学校入学の頃――約二十五年前のこと。

そのとき、北海道に日和ハムが本拠地を移した。





地元紙『北海道新聞』(通称・道新)は、次の新球場「エルコンフィールド」の構想を計画段階から見守り、数年にわたって報じ続けてきた。



新球場は、かつて強豪の陰に隠れがちだったチームの夢を含め、

長い年月をかけて育てられた“小さな夢の束”だった。



“奇想天外”と笑われた夢は、やがて住民の思いと結びつき、

土の中で静かに膨らむ種となった。



小さな芽が顔を出しても、嵐に折れ、陽を浴びられぬこともある。

それでも不確かさごと抱えて育つ――その営みこそ、夢のかたちだと響香は思った。




札張で進められていた新球場計画は、結局、反対の風に押されてしおれた。

その最中、隣接する北広嶋市が、新芽のように手を伸ばした。


記事を読んだとき、響香は“市民の寄付でつくられた広島市民球場”のことを思い出した。



北広嶋でも、はじめはほんの数人の住民の発案にすぎなかった。

けれどやがて春の芽吹きのように広がり、

誘致の動きは町全体の息吹へと育っていった。


――熱の源は、そこにあったのかもしれない。



やがて、人口五万の北広嶋市に大型クレーンのシルエットが現れた。

無機質な鉄骨は、まだ色のない未来のようにそびえていた。



響香は、伸子と北広嶋の駅前の喫茶店で花人クラブの会報を仕上げた。

その後、伸子に案内されて、車と二台連ねて現場へ行った。



寄せて停めた車の前で、ふたりで仰いだクレーンが、秋空をゆっくりと横切っていった。




――そして、おととし。2023年3月。

北海道ボールパーグFビレッジ(エルコンフィールド)が生まれた。



プレオープンから七週間ほど経った春の日、響香は初めてエルコンを訪れた。


「世界に誇る」という言葉は、けっして大げさではなかった。




誕生した球場には、温泉もホテルもある。


スタンドには、チームの歴代の名選手たちの大きな肖像画が掲げられている。




なかでもひときわ目を引くのが、大谷翔平とダルビッシュ有。


観客席を見つめるそのまなざしは、静かで、力強い。


彼らを導いた十人の選手とともに、肖像は球場の内壁にふさわしく描かれている。




この球場に立てば、世界中の人々が彼らの瞳を見つめたあの日のことを思い出すかもしれない。




エルコンの工事は約三年にわたり、2023年3月14日にプレオープンを迎えた。




そして、わずか一週間後の3月21日――。


日本代表はアメリカ・マイアミで行われたWBC決勝で、世界一の栄冠をつかんだ。




劇的な展開は、日本野球に関わるすべての人にとって、長年の悲願がかなった瞬間だった。




あの日、世界のどこかで初めて「日本という野球好きの国がある」と知った子どもがいたかもしれない。


初めて日本の漫画を手に取った子も。


地図を開いて「にほん」「にっぽん」「ジャパン」が小さな島国だと知って驚いた子もいたに違いない。




何気なくボールを転がしていた子が、その日から“夢という芽”を見はじめたのかもしれない。







八回、マウンドにはダルビッシュ有。


そして最終回、一点差を守る大役を任されたのは、大谷翔平だった。




二アウト、走者なし、フルカウント。


そこから放たれた鋭いスライダー。




それは、アジアの鎌となって、打者トラウトのバットを空へと振り抜かせた。




稲穂を刈るように、バットは大陸の空を切った。




一瞬の風が、観る者すべてをひとつにした。




この球場は、彼らの活躍を“予言”していたのだろうか。


――いや、むしろ“導いて”いたのかもしれない。



ようやくコロナのトンネルを抜けた――。

人々の表情が、そう語っているようだった。



けれども、皆が会話を弾ませるその光景を、響香はどこか遠いものに感じた。


できあがったエルコンフィールドに伸子の姿はなかった。



2、3輪の水仙の花さえも、直視すると、響香は、なにかが、こみあげてきそうだった。




伸子が案内してくれると思っていたこのガーデン。


「この庭でボランティアをするの」と意気込んでいた、あのときの伸子の表情が、ふと浮かぶ。


伸子は、いったいどこにいったのだろうか?



あの水仙のつぼみって、本当に葉っぱみたい。


葉とつぼみがまだ一体になっていて、どっちが花で、どっちが葉か、わからないくらい。


静かに混ざり合ってる。


風に揺れていると、つぼみも葉っぱのふりをしているように見える。



「まだだよ、まだ咲かないよ」って。


その形もその色も、――まるで、身を守ってるみたい。


だからこそ、花が開くときのふいの明るさが、たまらなく美しい。



それがまだ「ない」ことで、咲いていた二、三輪の水仙の花さえ、まぶしすぎた。



響香は、空を見上げた。


季節はまた巡っている。



――2023年の春、その日、水仙の写真は、結局だれにも見せなかった。


二度の春と一度の秋が、かけぬけた。


そして、突然、

響香のスマホの水仙の写真に

色と香りが宿った。


第3話につづく。


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