第8話 虫たちの行列の正体〜きょうか ㊙ 1972・11・7
1
「あっつ。」
文字が、左から右へと流れていく。
伸子のスマホの中で、小さな渦がぐるぐると回っていた。
まるでタイムトンネルの入り口のようだ。
流れる文字は、生き物のように四角い枠の中を泳いでいた。
──まるで、虫たちの行列。
「翻訳してみる?」
長旅を経た伸子は、テレビのリモコンを扱うように翻訳アプリをすいすいと操った。
すると、文字が彼女の指先に応えるように、画面の中で動き出す。
響香も身を乗り出し、スマホを覗き込む。
「象形文字?」
そう思っていたそれは、やはりアラビア文字だった。
翻訳前 (アラビア語)
300 جرام من لحم الدجاج
1 حبة باذنجان
1/4 زهرة (قرنبيط)
1 حبة بطاطا
1.5 كوب من الأرز (يفضل أرز بسمتي)
1 حبة بصل مفرومة
1 حبة طماطم مقطعة شرائح
3 أكواب من مرق الدجاج
ملعقة صغيرة من الكمون
نصف ملعقة صغيرة من القرفة المطحونة
نصف ملعقة صغيرة من الكركم
ملح حسب الرغبة
زيت زيتون أو زيت نباتي
مكسرات محمصة (للتزيين)
بقدونس مفروم (للتزيين)
思わず、ふたりの声が重なる。
「じゃがいも?」
自分たちの揃った大きな声に慌てて口を押さえる。シンクロして。
視線を合わせないようにしながら、こっそり店の人の様子をうかがった。
お互い、顔を寄せた。
翻訳後(日本語)
ジャガイモ 1個
米 1.5カップ
玉ねぎ(みじん切り) 1個
トマト(スライス) 1個
チキンブロス(鶏だし) 3カップ
クミン 小さじ1
シナモンパウダー 小さじ1/2
ターメリック 小さじ1/2
塩 適量
オリーブオイルまたは植物油
ローストナッツ(飾り用)
パセリ(みじん切り・飾り用)
「レシピ?」
「へえ……ほんとだ。謎のレシピ。」
「翻訳アプリって、すごいね。」
伸子が少し照れくさそうに笑う。
「六十過ぎたって、成長するのよ。」
「私なんてインスタだって閲覧専門よ。」
「私もよ。やっとけばよかったって思うわ。」
アラビア文字の余白には、英語の筆記体。
[Jyui Ueno] とある。
伸子はスマホでそのまま検索したりして謎解きをはじめていた。
「上野のじゅういさん……からもらった?
これは、日付……7じゃなくて2。1972年?
ああ、パンダ? パンダのごちそう?」
すると、響香がくすっと笑った。
「上野動物園。それはない。それは絶対にありえないわ。」
伸子はその様子に、逆にあっけにとられる。
響香は今度、しみじみと声を落とした。
「これは、間違いなく父のサインなの。何度見ても懐かしい。」
響香は、一拍ためて、続けた。
「父の名前は『
「じゅういさん?」
「
「一度聞いたら、忘れられない名前ね。」
そこから、響香の父の話が自然とほどけていく。
中東出張。ボールペンをお土産にしたこと。
ホテルの枕元でスーツケースごと盗まれても、ひとことも弱音を吐かなかったこと。
暮らしのちがいを、ぽつりと話すくらいで……あとは黙っていたこと。
伸子は、その後もスマホ片手にレシピのことを聞きながら、じっと耳を傾けていた。
会話は時々、途切れても、ふたりの間には静かなあたたかさが流れている。
「中東って、ドバイとか?」
「ドバイって、最近まで“中東”って意識してなかったのよね。
どこの都市?って感じだった。今では有名だけど。」
「父がアルミサッシを売っていた場所とは、どうしても結びつかないのよ。
父ね、日本のありふれたボールペンを、お土産にたくさん持って行ったの。」
「ボールペン?」と伸子が聞き返す。
「そうそう。今では百均で五本セットになってるようなやつ。
でもね、日本のボールペンは性能がいいって、現地の人にすごく喜ばれたんだって。」
すでに、食事は、デザートも、すっかり終わっていた。
響香は、誇らしげな父の顔を思い浮かべながら、
ファイルとともにだした、きゅんたのボールペンを指で回していた。
北海道の観光大使だという、ちょっととぼけた顔のキャラクターのボールペン。
それは、ふたりのお揃いだった。
まさに、伸子は、
本当は、そのボールペンにまつわる話が山ほどあった。
けれど響香は気づかず、父の話を続けていた。
「向こうの人はね、『神様がご飯を持ってきてくれる』と信じているんだ——。
そんな暮らしのちがいを、父が語っていたことだけ、記憶に残っているのよね。」
響香の胸には、幼き頃の台所の食卓の一コマが、ふっとよみがえった。
「企業戦士で、おおざっぱだけど、時間にはきっちりしていた父が、
たくさん待たされた後、身ぶり手ぶりで商談をしている姿を想像したわ。」
やがて伸子が、スマホの画面を見ながらつぶやく。
「……マグルーバ、っていう料理みたい。」
翻訳された文字を追いながら、ぽつり。
「やっぱり、私、作ってみるわ。」
まるで画面に語りかけるような伸子の声だった。
伸子の脳裏に浮かんだのは、まだ幼かった響香が、
異国から帰ってきた父にもらったレシピの紙に、
小さな手でひらがなを練習している、どこか愛おしい光景。
そのレシピの余白には、今もなお、たどたどしいひらがなが残っている。
文字はぎこちなく、ところどころ大きさもばらばらだが、そこには一生懸命さと純粋な思いが込められていた。
そして、添えられるように「1972・11・7」と、力強い大人の字で日付が記されている。
まるで「この日を忘れないように」と願う、強い意志が刻まれているかのように。
――きっと、響香の父が書いたのだろう。
その一枚の紙から、若き父と幼い響香が囲んだ食卓の情景。
伸子は、逆さまの「よ」に、ふっと微笑む。
幼い響香が、そのメモの余白に、初めてのひらがなをぎこちなく綴る姿が浮かんだ。
香ばしい匂い、湯気の立つ台所、幼い響香の笑い声、そして父のやさしいまなざし。
それは、ずっとその場にひたっていたくなるような、懐かしく、心を包みこむ映像だった。
謎だったメモの正体が明らかになり、胸の中にふっと明かりが灯ったような、すっきりとした気持ちが、伸子に広がっていく。
明日、凛に再会する日。
この料理が、その再会にそっと彩りを添えてくれる。
──そんな予感が、伸子の心にやさしく満ちていった。
2
マグルーバ(Maqluba / Maqlouba)——中東の料理。
響香と伸子の時間が、そっと重なり合うことで。
㊙(まるひ)のレシピは、時代も、国境も越えて、
ゆっくりと、いろいろなものを重ねていった。
「レシピなのね。」
先々週、旅のクライマックスとかんじた自宅の台所にも、同じような文字のメモが貼ってあった。
それは、凛が書いた
「さしすせそ」
母となった娘・未希による下の段の補足。
砂糖・塩・酢・醤油・味噌
伸子の台所の「す」の字もさかさまになっていた。
どれも、伸子にとって宝物のように愛おしかった。
不完全さの中に、やわらかな時間の記憶が宿る。
長旅の話は、二人のはなしのさいごにとってつけたようにこれだけだった。
「ねえ、あっちでは何語しゃべってたの?」
「うーん、名古屋弁……かな?」
「異国で?」
窓の外はすっかり暗く、店に残っていたのは二人だけ。
オレンジ色の照明に照らされ、バイトのスタッフが静かに片付けを始める。
二人は少し照れくさそうに、その空間に取り残されていた。
――二年前の秋。北海道大使きゅんたのボールペンを一本、手渡されたときのこと。
このボールペンから始まった物語が、名古屋、大阪、横浜、そして、海を越え、異国の地まで、伸子を導いていった。
けれども、結局、この日、伸子の旅の話は、これ以上はじまらなかった。
* * *
浴槽の上で孫たちのおもちゃ入れになったメッシュの袋。
そこに描かれた、モニュメントのような二つの手のシルエット。
語れなかった話の入れ物として、湯気の中で待っているような気がした。
第9話へ つづく
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台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO 朧月 澪(おぼろづきみお) @koyumama0926
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