第7話   メモリーの庭へ

第7話 メモリーの庭へ


1 KILLER STREET のメッシュの袋


木々の下を大回りして広い駐車場に出ると、すぐそこに伸子の軽自動車が止まっていた。


運転席に座った伸子が、助手席側のドアを開けた。

「ありがとう」


エンジンをかけると、アコースティックギターのメロディーが流れはじめた。


「この曲、一緒にコンサートで聴いた曲ね」


「もう、十年くらい前かしら?」


「もっと前だったわ。でもね、お風呂場でね、私の大事なサザンのツアーバッグが、凛のおもちゃ入れになってたの。もう、ショックよ。響香さんとお揃いだったのに」


メッシュ素材のバッグには、「2005、みんなが好きです サザンオールスターズ」とプリントされていた。


風通しがよく、お風呂場には向いていた。


けれど――響香のうちのは、底に小さなカビを見つけていた。


「うちもよ」――そうは言わず、響香はただ一言、

「……あのコンサートの感動は、忘れない」とだけ言って、流れる音楽の中に、また伸子といた。


2005年。あの夜のことは、今もよく覚えている。


伸子に誘われて行ったあのライブは、まるで巨大な同窓会に迷い込んだようだった。


心が弾んだ。笑い合った。そして、歌った。


あの時のバッグが、お互い孫たちの風呂道具入れになっているのが、なんだかおかしくも、切なく感じた。


歌詞のない、過去の余白を思わせるメロディーの曲は終わった。

曲名「KILLER STREET」。


住宅街の奥に、メモリーが静かに佇んでいるのを見つけた。


「なつかしい」


ここで過ごした時間のひとつひとつが、庭の空気に溶け込み、光となり、また二人の心にそっと降りていく。


メモリーの秋の庭は、今年も想像を超えて美しい。


ガレージには山葡萄の実が絡まり、紫と白のマーブル模様が、ひそやかに光をまとって揺れている。


もし、そのひと粒ひと粒を数えたなら、億の数にもなるだろう──まるで小さな宝石たち。


秋バラは、春の美しささえ凌ぐ勢いだ。


春の薔薇が、季節の初めの息吹を吸い込んで生まれた命の証ならば、

秋の薔薇は、終わりゆく年のすべての命の息を吐き出し、その花に託しているように見える。


この空気。この匂い。


響香は、伸子とこの庭を歩く幸せを、一歩一歩、噛みしめていた。


そして、オーナーの手によって丁寧に敷かれたレンガのひとつひとつを、見逃したくなかった。


──この庭をともに歩くのは、やはり伸子でなくてはならない。


見晴台にあるこの庭園は、春の雪解けとともに芽吹き、一日として休むことなく命のループを巡って、この季節へとたどりついた。


その時間のすべてに包まれるように咲く秋バラが、また心を奪ってゆく。


レンガの温もり、水の音。

キボウシの葉とともに、すべてが静かに心を満たす。

空気の香りが違う。


ワンシーズンで伸びた葡萄の蔓は、すでに硬そうな茶褐色に変わり、どこか愛おしい。


それを籠に編もうと考えた誰かの気持ちが、今ならよくわかる。


この秋も、インフルエンザの流行でマスクの着用が推奨されていたが、

今日はあえて、それを外して歩いた。


秋の空気を、秋の匂いを、まっすぐに感じたかった。


思えば、前回――二年前のこと。


すれ違う車の中でも、皆が必ずマスクをつけていた。


メモリーの階段前には「閉店中」の看板が立っていて、飲食はできなかった。


そのとき響香は、昭和レトロの素敵な店内の話を、伸子に伝えた。


コロナ禍の出口が見えていたとしても、あのころはまさにトンネルの中だった。


光が射していても、それが本当に外の光なのか、確信できなかった。


見えている出口さえ、幻のように思えた。


あれから季節が巡り、庭の木々は葉を落とし、また芽吹きを繰り返した。


思えば、本当に長い、長いトンネルだった。


今では、戸棚の奥にしまわれた、全国民に配られた“アベノマスク”が、

まるで参加賞の記念品のように、

裏扉の飾りになってしまった。過ぎた時間の証のように。


あのとき、マスクをつけながらでも、メモリーの秋の緑を、生涯一度と思えるほどに味わった。


けれど今日、響香ははっきりと感じていた。


あのときよりも、さらに美しい。


この秋は、あの記憶を超えている。


「コロナ禍が明けたら、ふたりで、その初日に上りたい」


――そう思った、昨年の秋。


去年の「開店中」の知らせは、誰にも伝えられず、

インスタの画面を、そっと閉じた。


そして今年。


もう無理だとあきらめかけた、あの夏を、

すっかり忘れてしまうほどの、今。


わたしたちは、看板の先の階段を、ゆっくり――上がる。


五年のトンネルを越えたその先で、初めて感じる光。


秋の、駆け込み乗車。


それは、時を止めた。


2 「トンネルの先」


──トンネルを抜けた先に広がる景色といえば、

私はいまも、日豊本線を思い出す。


あれは、中学一年生の夏休みのことだった。


弟と二人きりで、博多から鹿児島へ向かう列車のなか。


引っ越して間もない太宰府の駅までの道のりを、ようやく覚えはじめたころだった。


列車は西へ、南へ、父の故郷へと揺れていく。


おばあちゃんの待つ、鹿児島の知覧までの旅。


長いトンネルをくぐるたび、次に見える景色を想像した。


山々の風景も、きっとはじめてだったはずなのに──

記憶に残っているのは景色の続きではなく、

トンネルの先の光が、すぐに闇に吸い込まれていく、その繰り返しだった。


ひんやりとした空気の匂い、列車の揺れ、トンネルの壁に反響する音。


すべてが光と闇の間に溶けていく。


ようやく着いた駅の風景。


「おおきゅうなっちょったね」


小さなおばあちゃんが笑った。


眼鏡の奥に揺れる、やさしい目。


3 そしてメモリーの庭で


あのおばあちゃんの目だけは、今も胸に残っている。


今、ふと見つめたこの景色も、

いつか、あのときのように思い返す気がした。


日豊本線の緑と、この北の秋の緑。


なんの関わりもない――それさえも、愛おしかった。


言葉にすることさえ、もったいなく思えて、黙って体中のまなざしで見つめた。


体ごと緑に溶けていくようだった。


北国の、この秋に揺れる緑。


大きなキボウシの葉に、色づいた小さな葉がひらりと舞い落ちる。


薄ピンクの薔薇のスパイシーな香りが、そっと鼻先をかすめ、

空の鳥たちのささやきさえも、遠い記憶の光へと溶けていく。


風に揺れる葉の一枚一枚が、トンネルの先の光を思い出させる。


五年という時のトンネルを抜け、記憶は今ここにある緑と溶け合っていく。


──あの光も闇も、今、ここに息づいている。


4 再会の席にて


メモリーの店内の席についても、心は静かに躍っていた。

再会のよろこびと、庭の美しさ。


「私、伸子さんとここで食べたかったんだ」


響香がそう言うと、伸子は笑って返した。


「響香さん、これで三度目だよね。前の二回は、B型の人だったでしょ?」


「『いいよ、ゆっくり庭でも見てって』って言って、座って待ってる人と来たんだよね」


――二年前の私のボヤキ、よく覚えてるんだ。


(そう、二度ともB型の人と来たって、ぼやいたっけ)


(A型の私は、誘うのも断るのも苦手なのに……)


(『どこでもいいから』『庭でも見てて』って言われて、

どうしてこっちが謝る展開になるのかしら)


……でも今は、そんなことを思い出す時間さえ、もったいない。


ただ、伸子とこの庭を楽しみたい。


正方形のお弁当箱には、秋の食材が競うように彩られている。


蒸したかぼちゃ、にんじんの和え物、揚げなす、紅色の大根の酢漬け。


幹事会とはいっても、二人きり。


知り合ったころの花人クラブの集まりを口実にして会っているけれど、

ほんとうは、口実なんていらないふたりだった。


「この前、変なメモ送っちゃったでしょ。あれ、私、印刷したの」


響香はカバンからファイルを取り出しながら、早口で続けた。


「旅行の話聞いて、それから幹事会の仕事して、

それで時間が余ったら、見てくれる?」


普段はのんびり話す響香が、今日は早口で言葉を重ねる。


伸子は、その様子を微笑ましく見守った。


話したいことが山ほどあるとき、

絶対に話したいことを“前ふり”にするのは、お互い様。


今日は、響香の話だけを聞けばいい。


――そう思った、その瞬間。


次の料理が運ばれてくる。


ふたりは思わず、声をそろえて、


「わあ、美味しそう!」


窓に映る庭の美しさに心を奪われながら、

伸子はふと、遠くの空を見上げた。


胸の奥に、かすかな寂しさが広がる。


響香とやっと会えた喜びと、

これまでの出来事が、静かに交差していた。


「私も、実は気になってたの」


伸子は、そっと言った。


「あれ、アラビア文字でしょ?」


響香は、少し気まずそうに笑い、


「虫の行列の絵かと思ったんだけど……これなの」


『伸子と響香の幹事』と手書きされた花柄のクリアファイルから、

コピーした紙を取り出し、左端にそっと置いた。


弟の昔の携帯に保存されていた、メモの写真だった。


《きようか》《KYOKA》


何列も並ぶアラビア文字。

その下には、筆記体で《ueno jui》。

さらに、《1972・11・7》。


ひらがなとアルファベットは、たどたどしい子どもの文字だった。


見れば見るほど、気になるメモ。


話したいことは山ほどあるのに、

どこからほどいていけばいいのか、わからない。


話題は、いつものように一本の糸ではなく、

いくつもの糸を紡ぐように、広がっていく。


「今、翻訳してみる?」


響香は、笑ってうなずいた。


スマホの小さな画面の中で、

文字たちが、光を放ちはじめる。


――旅の話は、まだ、はじまらない。

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