中華鍋症候群か2,800円のフライパンか
たけりゅぬ
中華鍋症候群か2,800円のフライパンか
2,800円のフライパンを買った。
特別な機能は何もない。どこにでも売っている、ただの焦げ付きにくいフライパンだ。
使ってみると、料理がうまくいく。
卵も、パンケーキも、余計な気を遣わなくていい。火加減に神経を尖らせなくても、道具が勝手に失敗を遠ざけてくれる。
結果として、台所に立つ回数が増えた。
「やる気が出た」というより、「やる気を必要としなくなった」という感覚に近い。
生活が楽になるというのは、こういうことなのだと思った。
劇的な達成感や成長ではなく、日々の摩擦が少し減ること。
無理なく続けられること。
そして、その良さを誰かに説明しなくても済むこと。
フライパンを洗いながら、台所の隅に置かれたままの中華鍋が目に入った。
買ってすぐ、焼き入れをした。
クズ野菜を炒め、油をなじませ、コンロからもうもうと煙を上げた。
手順はすべて調べて、その通りにやった。
やり終えたとき、確かに少し楽しかった。
それで満足してしまったのだ。
中華料理を作った回数は、片手で足りる。
思い出せるのは、一度きりのチャーハンだけだった。
以前、友人が中華鍋の話を熱心にしていたことがある。
焼き入れの温度、油の種類、煙の具合。どれも具体的で、よく覚えている。
話がひと段落したところで、私は何を作ったのか聞いてみた。
「チャーハンを一回だけだよ」
「……それな」
それ以上、言葉は続かなかった。
中華鍋は、本来は料理をするための道具だ。
けれどいつの間にか、料理そのものよりも「正しく扱えたかどうか」や「その工程を経験したかどうか」を示すもののようになっていた。
どれだけ作ったかより、知っているかどうか。
やったことがあるかどうか。
工程を語れることが、目的より前に出てしまう。
料理のためというより、「語る」ための通過点のようになっている。
作るための道具が、語るための装置に近づいていく。
生活の中で役に立つかどうかより、話題として共有できるかどうかが先に立つ。
そういう状態を、ここでは中華鍋症候群と呼んでみる。
中華鍋症候群は、特別な人の話ではない。
ちゃんとしていたい。遅れていないと思われたい。分かっている側でいたい。
そんな気持ちの延長線上に、ごく自然に入り込んでくる。
その気持ち自体が悪いわけではない。
ただ、それが先に立ちすぎると、生活は少しずつ後ろにずれていく。
一方で、2,800円のフライパンは語れない。
特別な手入れもいらないし、それを使っているからといって、何者かになれるわけでもない。
ただ、失敗しにくい。
ただ、続けやすい。
ただ、今日の生活が少しだけ楽になる。
この「ただ」の積み重ねが、案外大事なのだと思う。
語られない。
評価もされない。
それでも、残る。
最近、こうした「語れなさ」を選ぶ態度を、少しずつ見かけるようになった。
派手ではないが、確かに役に立つものだけをそばに置く。
そして、使い切ったら静かに手放す。
誰かに説明できなくても困らない。
共有されなくても支障はない。
生活が少し楽になるかどうか。
判断基準は、それで十分だ。
中華鍋症候群から距離を取るとは、流行や文化を否定することではない。
それらを生活の中心に置かない、という選択をすることだと思う。
2,800円のフライパンは、その選択を、今日も台所で静かに肯定してくれている。
中華鍋症候群か2,800円のフライパンか たけりゅぬ @hikirunjp
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