第8話 海
「ダニエルさん、あたし…この業務はまだやったことがなくて」
「やっておくよ。後で教えてあげるから今は少し休んでおいで」
「ダニエルさん、相談したいことがありまして」
「五分だけ待ってくれ、これを終わらせてしまうから」
「予想以上に大人気だな、うちの新人は」
髭を剃り、髪を纏め清潔感を手に入れたダニエルは現在フォレスト・スノウの裏方業務に徹していた。
その背を見守るのはもちろんこの人。
業務内容を口頭で説明しただけであっさり頷いたダニエルを見て、やはり自分の判断は間違っていなかったと満足気にほくそ笑んでいるフォレスト・スノウオーナーと。
「新人だなんてそんな…ここの業界を目指してきた人であの人のことを知らない人なんていませんよ…」
休憩室を出てきたところをとっ捕まった齢十八…正真正銘この職場において一番の新人である彼はオーナーとダニエルの関係値なんて知るはずもなく。
目の前で悪い顔をして笑っているのが自分にとって完全な上役であるにも関わらず何をいってるんだろうこの人と口には出さないが表情で全てを語り、オーナーは面白いからという理由だけで説明もせず放置しているどっちもどっちのでこぼこコンビである。
「そういえばお前もダニエルに憧れた口だったか?」
オーナーからの問いかけに彼は少々誇らしげに答えた。
「もちろんですよ、境遇が似ていたので。貧乏な家に生まれて家族を養うために働きながら猛勉強して複数のホテル経営をするオーナーにまで上り詰めたんですよ。テレビで特集だって組まれてましたし、すごく勇気をもらったんですよね。境遇なんて関係ないんだって」
オーナーもしみじみと同意を示した。
「俺もだ。ずっとあいつの背中を追いかけてたんだよなぁ」
ダニエル・グリーン。
彼という人間を一言で表すとしたら努力の人、それに限る。
穏やかな人格と不屈の魂を兼ね備えた彼の傍には常日頃から多くの人間が集まり、表舞台からの引退を表明したときには皆に惜しまれ、最後まで引き留められていたという。
だからこそ、事情を知らない人間が疑問に思うのは当然のことだ。
彼は何故。
「急に姿を消してしまったのですか?」
事業主として成功を収め、家族にも恵まれ、傍からみれば順風満帆な彼の人生。退職するにはまだあまりにも早すぎる年齢で。一点の曇りもないように見えた。
事情を知っているのは彼の友人であるこのオーナーを含め、ホテルの立ち上げ当初から傍にいた限られたメンバーだけだ。
「色々あってな。あの人は今少しばかり探し物の途中らしい」
背中に注がれる二つの視線。気が付くことなく窓の外を眺めていたダニエル・グリーンの瞳には燃えるようなオレンジ色が映し出されていた。
『お父さん!』
何よりも愛おしかったその声を思い出すことはもうできなくなった。
それは廻りゆく季節の中でゆっくりと、けれど確かに痕跡だけを残して消えていった。
ダニエル。
ダニエル・グリーンとは…訳あって、金を失い、家を失い、残った荷物をバックパックに全て詰め込んで放浪した、そんな過去を持つ。
『おとうさん』
彼には息子がいた。
人懐っこい性格でよく喋る、誰とでも仲良くなってしまうような人を惹きつける魅力を持った男の子だった。病弱で家からあまり出ることはできなかったが、その分ピアノを弾くことが大好きで。ベッドの上で本を読み、時折窓から野鳥や小動物の姿を見て目を輝かせては、数歩先にあるピアノを弾きに行く。
彼の最後の数ヶ月はそれだけの日々で構成されていた。
そう、これはもう過去の話。
眩しいほどの朝日が差し込んでくる病室で大勢の人間に祝福を受けながら産声をあげた彼は、もうこの世界のどこにもいない。
病弱な彼の体は、彼が大人になるまで動き続けてはくれなかった。
「お…とう…さん」
今度は夕日差し込む二人ぼっちの古民家で彼は静かにその目を閉じた。
『じゃあ明日にでも行こうよ、二人でさ』
目を閉じる寸前、聞こえてきた父親の言葉にわずかな微笑みを残して。
穏やかな暮らしだった。
体調を悪化させた息子に付き添うべく信頼できる部下に立場を譲り。治療に全財産を注ぎ込んだ結果…誰の目から見ても幸せな生活だったかと問われれば首を横に振らざるおえないが。
それでも二人は幸せだった。
令嬢としての生活しかしたことのない妻はとっくの昔に出て行ってしまったが、努力だけで上り詰めたダニエルにとっては昔を思い出すどこか懐かしい暮らしで、息子もあれやこれやと強請る性格でもなく、ただ一つだけ自宅から持ってきた大切なピアノを満足そうに眺めていた。
後悔していることがあるとすれば。
仕事ばかりにかまけていたせいで息子の持病が悪化していたことに気が付けなかったのではないかということ。息子は人よりも早く死ぬ定めだった、そう医者に告げられても後悔の念が消えることはない。
加えて息子の治療費にかつての財産、今の収入全てを注ぎ込んだ結果、息子がとても大切にしていたピアノを手放すしかなくなってしまったこと。
結局、無一文となったダニエルには息子に簡素な墓を建ててやることが出来ず、彼自身は家を売り払い身一つで彷徨うしか選択肢がなかった。
家は失ったが、行く当てはあった。
この放浪生活から脱するために手助けをしてくれる人間がいるとかそういう理由ではなく。ただ自分の中で決めたこの内陸部では果たせない目指すべき場所があった。
北、西、南、東。
方角はどこでも良い。この陸地の最果てにさえたどり着くことが出来れば。
だからダニエルは東を選んだ。
息子の墓参りをしていたとき、昇って来た太陽に向かって足を進め続けると決めた。
まだ舗装されていない道の上を勢いよく車が走り抜けていく。
乗っているのはまず間違いなく金持ちで決まりだろう。
時代が駒を進めようとする狭間である現在。
どこに行っても貧富の差は激しい。
余るほどの金を手にしているものは、車やバイクなど、文明の利器を全て手にし。新しく作られたベッドタウンにこぞって引っ越す。
一方で庶民の移動手段といえば、一台のバスに人を詰め込めるだけ詰め込むか、前の時代の名残から馬を走らせる…それすらないダニエルのようなものは徒歩というのがこの世の常識だ。
ちなみに大陸を横断できるほどの汽車という長距離移動機械は、最近開通されたのだと以前立ち寄った洋食屋のテレビで知った。
だから。
一体どれほどの時間、旅をしているのか。
いつの日かダニエルは数えるのを辞めた。
秋が山を染め。雪は降り積もり、溶け、花が咲き、痛いほどの太陽の光が燦々と降り注ぐ。
移り変わる季節だけが時が進んでいるという指標になりえた。
そして。季節は廻り、再び息子がいなくなった暑い時期がやって来た時、ようやくダニエルはその場所にたどり着いた。
それを見た瞬間、「うわぁ」と思わず感嘆の声を漏らす。
目が釘付けになって離せなくなる。
―じゃあ明日にでも行こうよ、二人でさ
息子と最後に交わした約束。
当然のように果たされることはなく、ダニエルもそれを見たのは初めてだった。
まともな移動手段が生まれ始めたのは最近のことだ。内陸部に住む者にとっては一生お目にかかることなく存在だけ知っている、そんな人間も多い。
遠くから見れば美しいだけだったそれは、近づいていくほどに何故だか恐怖心が生まれた。
それほどまでに圧倒的。
自然の前での人間というものの小ささを突きつけられるような感覚
太陽に煌めく水面。一定のリズムで聞こえる波音。先の見えない青。
「これが海…」
言葉では言い表せない強大なものがダニエルの目の前には広がっていた。
珍しくあの子が行ってみたいんだと駄々をこねていた場所。
最後に明日一緒に行こうと言った約束の場所。
そう、ダニエルがその足で目指し続けた場所は広大な大海原だった。
果たせなかった約束のためになんて無駄なことだとは分かっているけれど。一番に見せてあげたかった子はもういないけれど。
こんな場所だったんだよと、せめてお墓の前での土産話にしたくて。
目に焼き付けるように眺めた。
もし君が隣に座ってくれていたらどんな反応をするんだろう。
大きな目が零れるほど見開いて驚くのか、無邪気に喜んで笑うのか。
だが、たらればな空想に耽ろうとしたダニエルはそこで愕然とした。
―あれ
心臓が嫌な音をたてている。
「……」
その事実が受け入れきれず、胸元を強く掴んで叫び出しそうになる。
―何故
―何故僕は
『…君の声が思い出せないんだろう』
―君の言葉は確かにここにあるのに。
―君の声を…どうしても思い出すことができない。
一度気が付いてしまえばもうダメだった。
力を込め過ぎたせいでシャツの形は変わらないまま元に戻らないでいる。
風化していく君の記憶。
その事実が痛いほど胸に突き刺さる。
『お父さん』
君が呼んでくれたその名前は、君の声を失って、言葉としてしか存在していない。
嫌だ。
忘れたくない。
忘れたくないよ。
心から願うのに、この祈りが届くことはないんだろう、だって。
ここまで君のことを想ったって、僕は君の顔すら思い出すことができないのだから。
目の前に広がる夕焼けがただただ目に刺さって痛かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます