さようなら、電波塔

神山

第一話


 青函トンネルを切り裂く風切り音が、十年分の時の流れを圧縮するように耳の奥で鳴り響いていた。


 東京から『はやぶさ』に乗り、新青森を過ぎて、そのまま青函トンネルへと潜り込んだ。この経路を選んだのは、ほんのわずかな後ろめたさからだった。十年以上も遠ざかっていた実家へ、空路で一足飛びに降り立つことへの、拭い去れない抵抗感。地上のレールを一つひとつ辿り直すことでしか、この長い断絶は埋められない。そんな気がしていた。


 車窓の外を、旧来の規格である貨物列車が追い越していく。今ではもう、客が乗ることの叶わない車両だ。

 家を飛び出したあの頃、新幹線はまだ新青森までしか通っていなかった。函館から特急『白鳥』の鮮やかな緑色の車両に揺られ、重々しいモーター音とともにトンネルを抜けた瞬間を、昨日のことのように思い出す。本州へ降り立ったあの時は、不安と期待に胸を躍らせていたはずなのに。今ではその欠片すら、どこかに置き忘れてしまった。


 窓の外は濃密な闇と、時折、光に照らされる無機質なコンクリート。かつてのトンネルの音は、何かを壊すような破壊的な響きを伴っていたが、今の新幹線が発するそれは、すべてを消し去るような無機質な音だ。その唸りに耳を傾けていると、封じ込めていた過去が、暗がりの向こうからじりじりと這い寄ってくる。


 膝の上で、自分の手をじっと見つめた。油にまみれ、火傷の痕も残る。指先はささくれ、爪の間には消えない黒ずみが染み付いている。ぼろぼろの手だ。

 逃げるように上京し、すぐに見つけたのが町工場の仕事だった。一番の救いは寮が併設されていたことだ。暮らしの足場と日々の糧を即座に確保できたのは、運が良かったのだと今更ながらに思う。


 そこからは、ただ働いて寝るだけの毎日。慣れない寮暮らしと仕事を身体に叩き込むまでが精一杯で、実家に帰ることなど一度も考えなかった。ときおり届く母からの連絡にも、問題ないとだけ短く返していた。


 そして、昨夜のことだ。いつもの事務的な連絡だと思い、震える端末を耳に押し当てた。受話口から漏れた母の声が、今も耳の奥にこびりついている。


『――響介。父さん、亡くなったわ』


 その声は、驚くほど落ち着いていた。けれども、微かな震えと不自然なほどの間が、平静を装う裏側の深い疲労を物語っていた。

 急死だったという。休みの日に起きてこないので、心配になって様子を見に行ったら、父は布団の中で冷たくなっていた。脳梗塞か何か、母は言葉を尽くして説明していたはずだが、その詳細は記憶の網をすり抜けていった。


 何と言葉を返したのか。絞り出した自分の声が、ひどく掠れて他人のもののように響いたことだけを覚えている。

 衝動的にチケットを買い、気づけば新幹線に乗り込んでいた。会社に欠勤の連絡を入れた記憶はあるが、そこから先の意識は、現実と白昼夢の境界をひどく曖昧に彷徨っていた。


 硬質なモケット生地の座席に深く身を沈める。指先には確かな手触りがあるのに、心だけが空洞になり、そこを冷たい風が吹き抜けている。母の優しさを裏切り、どんなに苦しい時でさえ北の大地を踏もうとしなかった。何かを言われたわけでもないのに、その感覚だけが執拗に胸の奥に澱んでいる。


 速度が少しずつ落ち、周囲の気圧が変わる。光が差し込んできた。


 その瞬間、世界から音が奪われた。新幹線の防音性能のせいだけではない。車窓に広がる広大な雪原が、あらゆる音を吸い込んでいるのだ。あの騒がしい東京とも、唸るようなトンネルの暗がりとも違う、北海道特有のすべてを拒絶するような静寂がそこにあった。

 木古内を過ぎたあたりで、窓ガラスに額を寄せてみる。そこから伝わる芯のような冷たさに、身体が十年前の感覚を呼び覚ます。空気が、匂いが、もう東京のそれではない。


 終着、新函館北斗駅。最新鋭の明るいホームから、階段を降りて在来線の乗り場へ向かう。そこには、俺がかつて知っていた、冷たい鉄の匂いと、アイドリングを続けるディーゼルエンジンの重苦しい振動が待っていた。


 乗り換えた特急『北斗』は、今や希少となった気動車だった。座席に座ると、足元から伝わるエンジンの鈍い震えが、記憶のおりをかき回す。最新鋭の静寂から、古びた機械の咆哮へ。


 ふと、幼い頃の記憶が掠めた。父と母にせがんで、『北斗』の玩具を買ってもらったことがある。本物は煤けたディーゼル車なのに、その玩具は真っさらな電池で滑らかに動いた。力強いエンジンの鼓動などどこにもない、味気ないプラモデルのような動き。それを見て、父ががっくりと肩を落としていたのが、なぜか鮮明に焼き付いている。


 大切なものだったはずだ。それなのに、今ではそれが実家のどこにあるのか、あるいはどこに置き忘れてしまったのかさえ、もう覚えていない。


 改めて座席に深く腰を掛ける。新幹線のそれとは違い、身体を撥ね返すような固さがある。座席の隅、足元にある放熱器から、乾いた熱気が立ちのぼってくる。


 エンジンの冷却水を利用したこの暖房は、新幹線の空調のような均一でクリーンな温度管理とは無縁だ。時折、床下から聞こえる予熱器の低い燃焼音と、軽油が焼けるような微かな匂い。それが、これから極寒の地へ向かうのだという現実を、嫌というほど突きつけてくる。


 重く息を吐き出し、窓にこびりついた結露を指で拭う。その向こうには、ただ容赦のない白銀の世界が流れていた。

 ここから札幌までは四時間近くかかる。雪の影響も考えれば、さらに延びるだろう。凍てついた車窓を見つめながら、俺は何も考えず、白一色の向こうを見つめ続けていた。




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