第3話
朝が、やけに静かだった。
目覚ましは鳴った。でも、いつもより音が遠く感じる。布団から出るまでに少し時間がかかって、カーテンを開けると、曇った空が広がっていた。
「今日か」
独り言みたいに呟く。
特別な日なのに、世界は何も変わっていないように見えた。
朝ごはんの味も、靴を履く動作も、全部いつも通り。でも、胸の奥だけが落ち着かなかった。
家を出ると、空気が冷たい。
秋はもう、完全に居座っている。
学校へ向かう電車は、いつもより混んでいた。
参考書を開いている人、目を閉じている人、何もしていないふりをしている人。
誰もが同じ方向を向いているのに、心の中はバラバラなんだろうと思った。
ホームに着いて、校門をくぐる。
「おはよう」
後ろから声がした。
振り向くと、彼女が立っていた。
「おはよう」
それだけのやり取りなのに、少しだけ安心する。
「早いね」
「眠れなかった」
「分かる」
「そっちは?」
「目、覚めすぎた」
「それも分かる」
二人で小さく笑った。
教室に入ると、空気が違った。
いつもより静かで、紙の擦れる音や、椅子を引く音がやけに大きく聞こえる。
隣の席。
「ここに座るのも、慣れたね」
彼女が小さな声で言う。
「長かった」
「短かった」
「どっちだろ」
「両方かな」
机の上に、受験票と筆記用具を並べる。
「忘れ物、ない?」
「たぶん」
「たぶん、は危ない」
「でも、今さらどうしようもない」
「それもそう」
会話はそれだけで止まった。
試験開始五分前。
監督の先生が前に立つ。
「これより試験を始めます」
その声が、やけに現実的だった。
「頑張ろ」
彼女が、小さく言った。
「お互いに」
それが、今朝最後の言葉だった。
問題用紙が配られる。
「始め」
一斉に、鉛筆が動く。
文字を追いながら、頭をフル回転させる。
分かる問題、迷う問題、飛ばす問題。時間だけが、容赦なく進んでいく。
途中、ふと顔を上げると、彼女が見えた。
真剣な横顔。
今まで、何度も隣で見てきたはずなのに、今日は少し違って見えた。
「今、同じ時間を生きてる」
そんな当たり前のことを、妙に強く意識する。
休憩時間。
教室に、少しだけ声が戻る。
「どうだった?」
「微妙」
「同じ」
「数学、難しくなかった?」
「なった」
「だよね」
それ以上、深くは話さない。答え合わせをする人はいない。する意味がないことを、全員が分かっていた。
「次、英語だっけ」
「うん」
「頑張ろ」
「またそれ」
「言いたくなる」
「……ありがと」
短い会話。
午後。
集中力は、もう限界に近い。
手が少し震える。喉が渇く。
「終わってほしい」
「でも、終わったら終わったで、怖い」
休憩中に、彼女がぽつりと言った。
「分かる」
「今日が、境目な気がする」
「何の?」
「今までと、これからの」
それは、言い過ぎじゃなかった。
最後の科目が終わる。
「やめ」
その一言で、すべてが解放された。
教室に、深い息が広がる。
「……終わったね」
彼女が言う。
「終わった」
「長かった」
「短かった」
「またそれ」
二人で、少しだけ笑った。
「今日は、どうする?」
「帰る」
「同じ」
「また、明日からだね」
「うん」
教室を出ると、外はもう夕方だった。
「お疲れさま」
「お疲れ」
それ以上、言葉は続かなかった。
試験は終わった。
でも、何かが始まった感じもしなかった。
ただ、確実に一つの区切りを越えた。
それだけは、はっきり分かった。
一ヶ月という時間は、思っていたより長かった。
試験が終わった直後は、何も考えられなかった。ただ疲れて、少し安心して、また次の模試や日常に戻っていく。
その繰り返しの中で、結果のことは意識的に考えないようにしていた。
考えても、変えられないから。
でも、日付だけは確実に近づいてくる。
結果発表の日。
朝、目が覚めた瞬間に、それだと分かった。
学校は、妙に静かだった。
廊下の足音も、教室のざわめきも、どこか抑えられている。みんな同じだ。分かっているけど、分からないふりをしている。
席に着くと、隣も空いていた。
「まだか」
そう思った直後、教室のドアが開く。
「おはよう」
彼女だった。
「おはよう」
声は、いつも通り。でも、少しだけ硬い。
「今日だね」
「うん」
それ以上は言わなかった。
担任が教室に入ってくる。
「結果、返すぞ」
一言で、空気が変わる。
名前が呼ばれて、前に出て、紙を受け取って、戻る。ただそれだけの動作なのに、やけに時間がかかる。
自分の番が来る。
封筒は、思ったより薄かった。
席に戻っても、すぐには開けられない。
隣を見ると、彼女も同じだった。
「……今、見る?」
小さな声。
「どうする?」
「一緒に」
それだけで、少しだけ手が落ち着いた。
封を切る音が、やけに大きく聞こえる。
数字が、並んでいる。
良いのか、悪いのか。期待していた通りなのか、そうじゃないのか。判断するまでに、少し時間がかかった。
「……微妙」
思わず漏れた。
「同じ」
彼女も、紙から目を離さないまま言った。
「落ちた?」
「まだ、分からない」
「そうだね」
合否じゃない。今はまだ、途中経過だ。でも、それが一番厄介だった。
昼休み。
二人で屋上に行った。
風が冷たくて、秋がもう深いことを実感する。
「どうだった?」
改めて聞く。
「思ったより、届いてない」
「俺も」
「頑張ったつもりだったけど」
「足りなかった、って感じ」
「うん」
しばらく、何も言わずに空を見る。
「さ」
彼女が口を開く。
「結果見て、一番思ったこと」
「なに」
「まだ、終わってないって」
「……それ、救い?」
「たぶん」
「苦しい方じゃなくて?」
「両方」
正直だった。
「距離、見えたね」
「見えた」
「前より、はっきり」
「遠かった?」
「遠い」
「でも」
「でも?」
「近づけない距離じゃない」
その言葉に、少しだけ救われる。
「同じこと、思ってた」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ」
「じゃあ、もう一回やるしかない」
「だね」
それは決意というより、確認だった。
教室に戻る前、彼女が言った。
「ねえ」
「なに」
「結果、怖かった?」
「怖かった」
「私も」
「でも」
「でも?」
「隣で見れて、よかった」
その一言が、胸に残る。
「一人だったら、もっときつかった」
「……分かる」
「今日くらいはさ」
「うん」
「帰り、少しだけ話そう」
「いいよ」
それだけで、今日が少しだけ軽くなった。
結果は出た。
数字は、現実だった。
でも、隣には、同じ数字を受け止めている人がいる。
それだけで、まだ歩ける気がした。
終わりじゃない。
そう思えたことが、この日の一番の結果だった。
朝、制服を着る手が、少しだけ震えた。
ネクタイを結び直しても、しっくりこない。
鏡に映る自分は、昨日と何も変わっていないはずなのに、今日はもう生徒としての最後の日だった。
家を出ると、空はやけに澄んでいた。寒さは残っているけれど、冬の刺すような感じはなくて、どこか柔らかい。三月の空気だった。
学校までの道を歩きながら、いろんなことを思い出す。
隣の席。
小さな会話。
言えなかった言葉。
受験の不安。
夏祭り。
水族館。
結果を見た日。
全部、ちゃんとここにつながっている気がした。
体育館は、いつもより広く感じた。
椅子が並び、在校生と保護者の声が重なって、ざわざわしている。でも、その中にいても、不思議と落ち着いていた。
席に座る。
隣を見る。
……いた。
何も言わずに、目が合う。
それだけで、少しだけ安心する。
「寒くない?」
小さな声。
「平気」
「ならいい」
それだけの会話。でも、これが最後になるかもしれないと思うと、胸の奥が少しだけ締まった。
式が始まる。
校長の話は、正直あまり頭に入らなかった。「未来」「可能性」「羽ばたく」といった言葉が、遠くで響いている。
それよりも、隣の存在が気になって仕方なかった。
今、この瞬間も、同じ時間を過ごしている。でも、これが終わったら、それぞれ違う場所へ行く。
名前が呼ばれる。
一人ずつ、壇上に上がって、卒業証書を受け取る。
自分の番が近づくにつれて、心臓の音が大きくなる。
証書を受け取った瞬間、不思議と終わったという実感はなかった。
ただ、ここまで来たという感覚だけが、静かに残った。
席に戻ると、彼女が小さく頷いた。
それだけでよかった。
卒業の歌。
みんなが同じ方向を向いて、同じ歌を歌う。声が揃っているのに、歌っていることは人それぞれだ。
途中で、声が詰まりそうになる。
泣きそうだったからじゃない。
全部が、ちゃんと終わってしまう気がしたから。
歌が終わる。
拍手。
式は、あっけないくらいに終わった。
教室に戻る。
最後のホームルーム。
担任が話しながら、途中で少し言葉に詰まる。誰も茶化さない。ただ静かに聞いている。
「これで、みんな卒業だ」
その一言が、やけに重かった。
解散。
「またね」と言う人もいれば、「元気で」と言う人もいる。
どれも、同じ意味に聞こえた。
校舎の外。
人の波はまだ続いていた。
写真を撮る声、笑い声、泣き声。全部が混ざって、春の空気に溶けている。
その中で、僕はずっと落ち着かなかった。
このまま別れたら、たぶん一生、後悔する。
「……ちょっと」
声をかけると、君は驚いたように振り返った。
「どうしたの?」
「少し、話せる?」
一瞬だけ迷う表情。それから、小さく頷いた。
「うん」
校舎の裏。人の少ない場所。
三年間で、何度も通ったのに、今日だけは違って見えた。
「ここ、覚えてる?」
「覚えてる」
「文化祭の準備で、逃げてきたとき」
「逃げてない。休憩」
「そういうことにしとく」
少し笑った。でも、すぐに沈黙が落ちる。
風が吹いて、君の髪が揺れた。
「……呼び止めてごめん」
「いいよ」
「言わなきゃいけないことがあって」
「うん」
君は何も言わず、待っていた。
「俺さ」
言葉が、思ったより重かった。
「最初から、君のこと、特別だった」
君の表情が、少しだけ変わる。
「隣の席になった日」
「うん」
「ただそれだけなのに、やけに落ち着いた」
「そんなこと、あったね」
「毎日、どうでもいい話して」
「した」
「テストの愚痴とか」
「夏の暑さとか」
「進路の不安とか」
一つずつ、確かめるみたいに言葉を並べる。
「夏祭りも」
「水族館も」
「風邪ひいた日も」
「全部」
喉が詰まりそうになって、少し間を空けた。
「……俺、ずっと怖かった」
「何が?」
「名前を呼ぶのが」
君は、少しだけ目を見開いた。
「呼んだら、壊れそうで」
「壊れる?」
「今の関係が」
「隣にいられる日常が」
「受験とか、進路とか、全部」
「変わっちゃいそうで」
君は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。
「過去の話、していい?」
「うん」
「俺、前に一回」
「……誰かに、ちゃんと向き合えなかったことがある」
「怖くて、言えなくて」
「結局、何も言わないまま、終わった」
「それが、ずっと残ってた」
視線を落とす。
「だから、君の前でも」
「踏み出せなかった」
「好きって言うことも」
「名前を呼ぶことも」
沈黙。
春の音だけが、遠くで鳴っている。
「でも」
顔を上げる。
「今日で終わるなら」
「せめて、これだけは言いたかった」
「君と過ごした時間は全部、本当だった。逃げじゃない、代わりでもない」
「ちゃんと、大事だった」
声が、少し震えた。
「……ありがとう」
君は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり口を開く。
「ね」
「うん」
「私も」
「同じだった」
胸が、強く打たれる。
「名前、呼ばれないままでも、伝わってたよ?ちゃんと隣にいたから⋯⋯」
それは、責める声じゃなかった。
むしろ、優しすぎた。
「呼ばなくていいの?」
君が、そう聞いた。
一瞬、世界が止まった気がした。
呼べば、変わるかもしれない。
呼ばなければ、このまま終わる。
でも――。
「……呼ばない」
「どうして?」
「これは俺の弱さだから。でもこの弱さも含めて、君との時間だった」
君は、少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
「うん」
遠くで、誰かが君を呼ぶ声がした。
「行かなきゃ」
「うん」
一歩、離れる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
それ以上、何も言わなかった。
君は振り返らず、校舎の向こうへ消えていった。
卒業式の日、僕は最後まで、君の名前を呼ばなかった。
それから何年も経って、大人になった今でも、春や夏が来るたびに思い出す。
隣の席。
何気ない会話。
言えなかった名前。
――あの時、名前を呼んでいたら、僕たちは少しでも違う未来を生きていたのだろうか。
答えは、今も出ない。
でも、それでもいい。
あの時間が、確かに存在したことだけは、誰にも否定できないから。
拝啓、隣の席の君へ。
ありがとう。
敬具。
拝啓、隣の席の君へ ちょむくま @TakinsaCI
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