第2話

夏休み明けの朝は、どうしてあんなにも静かなんだろう。

駅までの道。

踏切の音。

自転車のブレーキ。


全部、去年と同じはずなのに、胸の奥が違う音を立てている。


君の言葉が、頭から離れない。



逃げないで聞いてほしい。



逃げるつもりなんて、なかった。


ただ、聞いたあとにどうなってしまうのか。⋯⋯それが、怖かった。


校門をくぐると、久しぶりの匂いがした。


ワックスと、埃と、夏の残り香。


靴箱で上履きに履き替える。

その何気ない動作すら、やけに遅く感じる。


廊下を歩きながら、ふと、思い出す。


――初めて隣になった日のこと。


くじ引きで席を決めて、君が小さく「よろしく」って言った。

その声が、なぜか今も耳に残っている。


教室のドアを開ける。


ざわついた声。笑い声。椅子を引く音。


日常は、何事もなかったように進んでいる。

でも、僕だけが違う時間を生きているみたいだった。


隣の席を見る。


――君が、いる。


それだけで、胸がきゅっと締めつけられた。


目が合う。一瞬だけ。


君は、ほんの少しだけ笑った。


その笑顔が今まで見た中一番、弱く見えた。


席に座る。


机の距離は、いつもと同じ。


肘を伸ばせば、触れてしまうほど。


それなのに、ひどく遠い。


チャイムが鳴って、担任が入ってくる。


始業式の話。

進路の話。

文化祭の予定。


頭に入ってこない。


僕の中では、別の映像が 勝手に流れ始めていた。


――雨の日。


君が、傘を忘れて困っていた。


「一緒に帰る?」


そう言った僕に、君は少し驚いた顔をして、でも、頷いた。


二人で歩いた道。


会話は少なかったのに、水たまりに映る空はやけに綺麗で。


あの日、僕は初めて、この時間が続けばいいと思った。


――昼休み。


購買のパンが売り切れて、君が肩を落としていた。


「半分こする?」


そう言って、僕のパンを差し出した。


「いいの?」


「いいよ」


君は笑って、ほんの少しだけパンをちぎった。


その距離が、近すぎて。心臓の音がうるさくて。


君に聞こえてしまうんじゃないかと本気で思った。


――放課後。


誰もいない教室。


窓から差し込む夕焼け。


「今日の空、やばくない?」


君が言って、二人で黙って空を見た。


その沈黙が、なぜか心地よかった。


言葉がなくても、一緒にいられる。


それだけで、十分だと思っていた。


フラッシュバックは、止まらない。ほんとう、些細な瞬間ばかり。

でも、どれも僕たちだった。


それを、全部、失うかもしれない。


そんな考えが、胸の奥からじわじわと広がる。



――ここで、終わってしまうのか。



隣の席で同じ時間。

それが、今日で最後になるのかもしれない。



昼休み。


君は、あまり喋らなかった。


時々、こちらを見ては、視線を逸らす。

その仕草が、胸を締めつける。


「放課後」


君が小さな声で言った。


「話せる?」


「うん」


それだけの会話。


でも、それだけで、世界の色が変わった。


午後の授業。


黒板の文字が滲む。


ペンを持つ手が、汗ばんでいる。


君が何を話すのか、想像してしまう。


もし、もう会えないと言われたら。

もし、気持ちがなかったと言われたら。


もし、全部、僕の勘違いだったら。

考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。全て。


それでも、逃げたくはなかった。


君が、隣の席で話したいと言ったから。



放課後。


人が減っていく教室。


机を引く音。笑い声が、遠ざかってゆく。


最後に、僕たち二人だけが残った。


窓の外は、少し曇っていた。


君はしばらく何も言わなかった。


その沈黙がいつもの数倍、長く感じる。


「ねえ」


君が、ようやく口を開いた。


その声は、震えていた。


「私さ」


そこで、言葉が詰まる。


僕は、何も言えなかった。


ただ、君の次の言葉を待つことしかできなかった。


――ここまで一緒に来たのに。

――ここで終わるなんて嫌だ。


そう思いながらも、どこかで覚悟もしていた。


人は、何も変わらないまま大人にはなれない。


それでも。

それでも、この隣の席で始まった物語が、こんな形で終わるなら。

僕はきっと、この先ずっと、ここに座るたびに君を思い出す。


言えなかった言葉と、選ばなかった未来を。


君は、深く息を吸って、僕を見た。


その目に、涙はなかった。


でも、泣くよりもずっと、苦しそうだった。


「――聞いてほしいことがある」


その瞬間、僕は思った。


ああ、もう戻れない場所まで来てしまったんだ、と。

それでも、聞く。


聞かなければ、何も始まらない。

何も、終われない。



教室の時計の音が、やけに大きく聞こえた。


カチ、カチ、と、一定のリズム。

まるで、残り時間を数えられているみたいだった。


「……ごめん」


最初に口を開いたのは、

君だった。


「急に、こんなこと言って」


「ううん」


首を振る。


「ちゃんと、聞く」


それだけ言うのに、喉が少し痛かった。


君は、机の端を指でなぞりながら、視線を落としたまま話し始めた。


「夏休み、ちょっと距離あったでしょ」


「うん」


「わざと、だった」


その一言で、胸の奥がひりっとした。


「どうして?」


問いかける声は、思っていたより落ち着いていた。


「……怖かったから」


君は、小さく笑った。

でも、その笑いは全然、楽しそうじゃなかった。


「私さ」


「人と仲良くなると、いつも、どこまで踏み込んでいいか分からなくなる」


君は、言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。


「楽しいのに」


「大事なのに」


「失うのが、すごく怖くなる」


その言葉に、胸が締めつけられる。


「だから、自分から少し離れる」


「そうすれば、傷つかないって、思ってた」


「じゃあ、あの電話のときの質問も……?」


「うん」


君は、はっきり頷いた。


「もし、何も言わずにいなくなったら、どうする?って」


「本当は、聞きたかった」


「私がいなくなっても、平気?って」


胸の奥で、何かが崩れた。


「平気なわけない」


思わず、声が出た。


「隣の席だよ?」


「毎日、話して」


「一緒に笑って」


「それで、急にいなくなって、平気な人なんていない」


言い切ったあと、少しだけ息が乱れた。

君は、驚いた顔でこちらを見る。


「そんなふうに、思ってくれてたんだね⋯⋯」


「当たり前だよ」


少し強く言ってしまって、すぐに後悔する。

でも、止められない。


「僕は、君が思ってるより、ずっと……」


言いかけて、

言葉を飲み込む。


――言っていいのか?


――ここで言ったら、全部変わってしまうんじゃないか?


沈黙。


君は、その続きを待っているようだった。


「……ずっと、大事だった」


結局それだけ言った。曖昧で逃げた言い方。

でも、嘘じゃない。


君は、しばらく黙ってから、小さく息を吐いた。


「ね」


「私たちさ」


「このまま、どうなるんだろうね」


その問いは、軽いふりをしていたけど、中身は重かった。


「分からない」


正直に答えた。


「でも」


一度、言葉を切る。


「このまま、何も言わずに終わるのは、嫌だ。本当に」


「終わる?」


君が、少し眉を寄せる。


「……終わる前提、なんだ」


その声に、傷ついた色が混じる。


「違う」


慌てて否定する。


「そうじゃなくて」


「終わるかもしれないって、考えちゃうくらい、大事なんだ」


君は、ゆっくりと僕の方を向いた。


机と机の間。

ほんの数十センチ。


でも、今はその距離がやけに重い。


「私ね」


「君と話す時間が、好きだった」


「隣の席が、安心できた」


「それが、怖くなった」


「壊れたら、どうしようって」


君の声は震えていた。


「壊れないよ」


そう言いたかった。


でも、それは嘘になる気がして、言えなかった。


代わりに、こう言った。


「壊れるかもしれない」


「でも」


「何も言わずに離れる方が、もっと苦しい」


君は、驚いたように目を瞬かせる。


「……ずるいね」


「何が?」


「そんな正論」


少しだけ、笑った。


でも、その目は潤んでいる。


「ねえ」


君が、小さな声で言う。


「もし」


「私が、もう少しだけ弱くなっても」


「隣に、いてくれる?」


その問いに、即答できなかった。


心臓が、強く鳴る。


ここで頷いたら戻れない。

でも、否定したら今ここで終わる。


「……いるよ」


やっと、そう言えた。


「すぐに何かが変わる約束はできないけど」


「でも」


「隣の席にいることだけは、やめない、やめたくない」


君は、何度か瞬きをして、視線を落とした。


そして、小さく頷いた。


「……ありがとう」


その声は、ほとんど消え入りそうだった。


教室の外から、夕方のチャイムが聞こえる。


帰らなきゃいけない時間。


でも、今すぐ立ち上がるのが惜しかった。


この空気を、もう少しだけ覚えていたかった。


隣の席で、ちゃんと話したこと。


ちゃんと、苦しくなったこと。


それでも、終わらなかったこと。


君が、鞄を持ちながら言った。


「……明日も、隣なんだよね」


「うん」


それだけで、胸が少し軽くなる。

完全に解決なんて、していない。


むしろ、余計に複雑になった。


それでも。


――ここで終わってしまう、わけじゃない。


そう思えた。



君がありがとうと言ったあと、教室には、また沈黙が落ちた。

さっきまでの沈黙とは、少し質が違う。


何も言えなかった沈黙ではなく、言いすぎたあとの沈黙。

空気が、少し重い。

それでも、逃げ出したいほどではなかった。


むしろ、この重さごと抱えていたいと思ってしまう自分がいた。


君は、鞄の持ち手を握ったまま、しばらく立ち上がらなかった。


「ねえ」


また、君が言う。


「私さ」


「さっきの話、全部、本当だよ」


「うん」


「でも」


君は、一度、言葉を止める。


その間が、妙に長く感じた。


「それでも、私、自分が何をしたいのか、よく分からない」


正直な声だった。


取り繕っていない。

逃げてもいない。

ただ、迷っている。


その迷いが、痛いほど伝わってきた。


「分からないままでも、いいと思う」


そう答えた。


「少なくとも、今は」


「今?」


「うん」


「今、ここにいる時間まで、否定しなくていい」


君は、少しだけ目を見開いた。


「そんな考え方、ずるいね」


「さっきも言ってた」


「だって」


君は、困ったように笑う。


「それ、楽な逃げ道にもなるじゃん」


その言葉に、胸が少しだけちくりとした。


確かに、そうかもしれない。


「でもさ」


続ける。


「未来の正解を先に決められる人なんて、いない」


「少なくとも、僕はできない」


「だから」


「今の気持ちだけちゃんと覚えていられたらそれでいい」


君は、しばらく黙って考えていた。

机の木目を見つめて、指先でなぞっている。


その姿を見て、なぜか、胸が苦しくなった。


――この人を、困らせているのは、僕なんじゃないか。


「ねえ」


君が、また口を開く。


「もし」


「もし、私がもっと面倒な人間だったら、どうする?」


「もう十分面倒だと思うよ」


冗談めかして言うと、君は小さく笑った。

でも、すぐに真顔に戻る。


「それでも?」


「それでも」


即答だった。

自分でも驚くくらい。


「面倒なところも含めて、君だから」


言った瞬間、顔が熱くなった。


――言ってしまった。


でも、後悔はなかった。


君は、視線を逸らした。


耳が、少し赤い。


「……そういうこと、さらっと言うの、反則」


「ごめん」


「謝らないで」


少し強めの声。


「言われて、嫌じゃないから」


その一言で、緊張が少し緩む。

でも同時に、別の不安が生まれる。


――これ以上、踏み込んでいいのか。

――それとも、ここで止まるべきなのか。


ふと、窓の外を見る。

夕焼けが、少しずつ色を失っていく。

あの日も、こんな空だった。


二人で黙って見ていた放課後。


あのときは何も考えていなかった。


ただ、一緒にいることが自然だった。


今は、一言一言が選択みたいだ。


「ねえ」


君が、小さな声で言う。


「私たち、変わっちゃったのかな」


その質問は、胸の奥深くに刺さった。


「……変わったと思う」


正直に答える。


「でも」


「悪い変わり方じゃない」


「前より、ちゃんと考えるようになった」


「ちゃんと、傷つくようになった」


君は、苦笑した。


「それ、大人になるってこと?」


「たぶん」


「嫌だな」


「分かる」


二人で少しだけ笑った。

その笑いが消えたあと、また静かになる。


でも、最初の沈黙とは違う。


少しだけ、温度がある。


「今日さ」


君が言う。


「ここで話せてよかった」


「私、夏休みの間、ずっと考えてた」


「このまま、何も言わずに 距離ができたら、どうなるんだろうって」


「きっと、普通に笑って、普通に卒業して」


「でも、どこかでずっと後悔するんだろうなって」


その言葉に、胸が締めつけられる。

それは僕も同じだったから。


「僕も」


そう言った。


「たぶん、何年経っても、この隣の席を思い出す」


「言えなかった言葉とか」


「選ばなかった未来とか」


「そういうの、全部ひっくるめて」


君は静かに頷いた。


「……ね」


「終わらせないで」


その一言が、落ちた。


強くはない。泣き声でもない。


でも、確かに願いだった。


「終わらせない」


はっきり言った。


「少なくとも、今は」


「今を、ちゃんと生きよう」


君は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。


「……うん」


それだけ。


でも、その「うん」は、今までで一番、重かったと思う。



二人で教室を出る。


廊下は、もうほとんど人がいない。


並んで歩く距離。


肩が触れそうで、触れない。


その微妙な距離が、今の僕たちそのものだった。


昇降口で、靴を履き替える。


「また明日」


君が言う。


「うん、また明日」


それだけなのに、心の中で何度も繰り返した。


――また明日。


それが、当たり前じゃないと知ってしまったから。



外に出ると、空はもう暗くなり始めていた。


帰り道、一人で歩きながら、胸がじんわりと痛む。


終わらなかった。


でも解決もしていない。


それでも、確かに一歩、前に進んだ。


隣の席で、ちゃんと話した。


それだけで、今日は十分だったんだ。



次の日から、僕たちはまた隣の席に座った。


誰かに説明するほどの変化はなかったし、クラスの誰かが気づくようなこともなかった。朝の「おはよう」も、ノートを見せ合うのも、帰りに「また明日」と言うのも、全部、今まで通りだった。ただ、同じことをしているはずなのに、心の使い方だけが変わってしまった。


黒板を写しながら、横目で君を見る。ペンを持つ指、前髪を耳にかける癖、考え事をするときに少しだけ眉を寄せるところ。今まで何度も見てきたはずの仕草が、やけに鮮明だった。


失うかもしれないと思った瞬間から、人はこんなにも丁寧に世界を見るようになるのか、と自分でも驚いた。



昼休み、購買に行くかどうかで少し迷って、結局二人で教室に残った。


君は弁当箱を開けながら、何でもない話をした。テレビの話、先生の癖、テストの範囲。


内容はどうでもいいのに、声を聞いているだけで安心する自分がいた。



放課後、部活に行く日と行かない日があって、その違いすら、以前より意識するようになった。


今日は一緒に帰れない。今日は少し話せた。そんな小さな出来事が、心の中で必要以上に大きくなる。


帰り道、一人で歩くと、自然と君のことを考えてしまう。


あの時、もう少し踏み込んだ言葉を言うべきだったんじゃないか。


逆に、あれ以上言わなくてよかったのか。答えのない問いが、頭の中をぐるぐる回る。



夜、机に向かっていても集中できず、窓の外を見る。


夏の名残がまだ空気に残っていて、風は生ぬるい。


スマホを見ると、君からのメッセージはない。ないことに、理由をつけてしまう自分が嫌だった。忙しいだけだ、疲れているだけだ。そうやって納得しようとするほど、本当は不安なんだと分かってしまう。



それでも、翌朝、教室に行けば君はそこにいる。隣の席で、普通に笑う。


その姿を見るたびに、胸の奥が少しだけ痛む。


ここまで来たのに、まだ何も始まっていない気がする。なのに、もう戻れない場所にいる気もする。



ある日、授業中にプリントを落とした君が、小さく舌打ちをした。


その一瞬の表情に、なぜか心が揺れた。


完璧じゃないところ、弱いところ、そういう部分を知ってしまったからこそ、目が離せなくなっている自分がいた。


君は、以前より少しだけ黙る時間が増えた気がする。


考え事をしているのか、何かを決めようとしているのか、僕には分からない。分からないまま、隣にいる。

それが、こんなにも不安で、同時に大切だとは思わなかった。



ある放課後、帰り際に君がふと立ち止まった。


「今日さ、ちょっと寄り道しない?」


理由は聞かなかった。聞くのが怖かったのかもしれない。ただ頷いて、一緒に歩いた。


コンビニで飲み物を買って、公園のベンチに座る。


夕方の空は、もうすっかり秋の色に近づいていた。


君は缶を両手で包みながら、しばらく黙っていた。その沈黙が、あの日の教室を思い出させる。


「ねえ。私たち、ちゃんと前に進んでると思う?」


その問いに、すぐ答えられなかった。進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのか。正直、どれも当てはまる気がした。


「分からないけど」


そう前置きしてから、言葉を選ぶ。


「でも、逃げてはいないと思う」


君はそれを聞いて、少しだけ安心したように笑った。その笑顔を見て、胸が締めつけられる。守りたいと思うほど、守れない未来が頭をよぎる。


ベンチから立ち上がるとき、君が少しふらついて、思わず手を伸ばした。


触れた指先は一瞬で離れたけれど、その感触だけが、いつまでも残った。


何でもないふりをして歩き出す君の背中を見ながら、僕は思った。こんな些細な出来事を、これから先も何度も思い出すんだろう、と。



家に帰ってから、布団に横になっても眠れなかった。


天井を見つめながら、今までのことが次々と浮かぶ。初めて話した日のこと、雨の帰り道、笑った顔、困った顔。フラッシュバックのように、順番もなく流れていく。


ここで終わってしまうのか。そんな考えが、また頭をもたげる。


終わりを意識するたびに、今が愛おしくなってしまうのは、きっと弱さだ。それでも、この弱さごと、君の隣にいたかった。



翌日も、その次の日も、いつも通りの日常は続く。


テストがあって、行事があって、時間は容赦なく進んでいく。



その流れの中で、僕たちはまだ、同じ席に座っている。それだけで、奇跡みたいだと思ってしまう自分がいる。


でも、心のどこかで分かっている。


この穏やかさは、ずっとは続かない。何かを選ばなければならない日が、確実に近づいている。


君も、僕も、それを感じながら、何も言わずに隣にいる。


その沈黙が、優しさなのか、臆病さなのか、まだ判断できなかった。


ただ一つ確かなのは、今この時間が、後になって取り返しのつかないものになるという予感だけだった。


もし、この物語がここで終わるなら、きっと僕は、この日々を一生引きずる。


それでも終わっていないから、まだ隣にいられるから、今日も何も言わずに、君の横に座る。


それが、今の僕にできる、精一杯だった。




秋が深くなるにつれて、学校の空気は少しずつ変わっていった。


朝のホームルームで配られるプリントが増え、掲示板には進路説明会の案内が貼られるようになった。


まだ本気で受験を意識している生徒は少なかったけれど、「その時期が近づいている」という気配だけは、確実に校舎の中に広がっていた。


僕と君は、相変わらず隣の席だった。


何かが劇的に変わるわけでもなく、距離が急に縮まることもなかった。


ただ、以前よりも無言の時間が自然になった。


話さなくても気まずくないし、話せばちゃんと笑える。そんな関係が、いつの間にか出来上がっていた。


小テストの点数を見せ合ったり、課題の締切を確認し合ったり、教科書を忘れたら黙って貸したりする。そういう些細なやり取りが、毎日の中に溶け込んでいく。


冬が来る頃には、部活を引退する先輩たちが増え、放課後の校舎は少し静かになった。


君は相変わらず勉強が得意で、ノートはいつも綺麗だった。


僕はそれを横から見て、「すげえな」と素直に思いながら、同時に少し焦るようになった。



「進路、どうするの?」


ある日の昼休み、君が何気なく聞いてきた。


「まだ決めてない」


「だと思った」


「君は?」


「なんとなく、かな」


その「なんとなく」が、前よりなにかすごいような意味を持っている気がした。


でも、深くは聞かなかった。お互いに、まだ踏み込まない方がいい領域があると分かっていた。



年が明けると、高校二年の終わりが見えてきた。


学年末テストがあり、三年生は受験モードに入る、という話を先生が何度もするようになる。


教室の雰囲気も、少しずつ落ち着かなくなっていった。


そして、クラス替えの話が出た。


「次、同じクラスかな」


君が言ったのは、放課後の廊下だった。


「どうだろ」


「離れたら嫌?」


「……嫌、かも」


正直に答えると、君は少しだけ驚いた顔をしてから、何も言わずに笑った。その反応が、なんだか安心できた。



春休みは、あっという間に過ぎた。


宿題と、たまに送られてくる短いメッセージ。それだけのやり取りでも、不思議と不安にはならなかった。離れていても、完全に切れない関係になっている気がした。



新学期。


体育館での始業式は、やけに長く感じた。


校長の話も、進路指導の説明も、正直あまり頭に入ってこない。意識は、ただ一つのことに向いていた。


クラス発表。


廊下に貼り出された紙の前に、人が集まる。名前を探す指が、自然と速くなる。自分の名前を見つけて、その横にクラス番号を確認する。


次に、君の名前を探した。


――同じクラスだった。


それだけで、胸の奥が少し緩む。


教室に入ると、まだ机の配置は仮のままだった。新しい担任が自己紹介をして、出席番号順に席を決めると言う。紙を配られ、番号が書かれている。


自分の番号を見る。


そして、隣の番号を確認する。


顔を上げると、君がいた。


一瞬、目が合った。


君は、ほんの一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。


「また隣だね」


「だね」


それだけの会話だった。でも、その一言で、妙に安心した。


奇跡、なんて言葉を使うほど大げさじゃない。でも、偶然にしては出来すぎていると思った。高校三年。受験生。これから、忙しくなる時期だ。


新しい教室、新しい空気。それでも、隣の席だけは変わらなかった。


授業が始まると、先生の話は一気に現実的になる。


受験、進学、模試、志望校。言葉の重さが、去年とは違う。教室の中の全員が、少しだけ前のめりになっている感じがした。


君は、以前よりもノートを取る速度が速くなった。質問も増えた。


真剣さが、はっきりと伝わってくる。その横で、僕も自然と姿勢を正すようになる。


放課後、一緒に帰る回数は減った。


それぞれにやることが増えたからだ。それでも、朝の「おはよう」と、帰りの「また明日」だけは欠かさなかった。


それが、今の僕たちの日常だった。


特別じゃない。劇的でもない。ただ、同じ時間を、同じ場所で過ごしている。それだけのことが、以前よりも大切に感じられるようになっていた。


高校三年生になった。


受験生になった。


それでも、隣の席は、変わらなかった。


このまま、何事もなく進めばいい。そう思いながら、同時に、何かが変わる予感も消えなかった。でも今は、その予感に名前をつけないでおく。


今日も、君は隣にいる。


それだけで、十分だった。



三年生の春は、思っていたよりも静かに始まった。


校庭の桜は、入学式の頃にはもう散り始めていて、花びらが廊下の隅に集まっている。


新入生たちは少し浮き足立っていて、こちらを見ては小さく頭を下げてくる。自分たちが、もう「先輩」になったことを、そのたびに思い知らされた。


教室は、去年と同じようで、どこか違った。


机や椅子は変わらないのに、空気だけが少し張りつめている。受験生、という言葉が、冗談じゃなくなったからだと思う。



僕は、朝のホームルームが始まる前に、いつものように席についた。


鞄を足元に置いて、机の上を整える。その横で、君も同じ動きをしていた。特別な会話はない。


先生が言う。


「今年は勝負の年だぞ」


その言葉に、教室のあちこちで小さなため息が漏れた。君はノートを開きながら、真剣な顔をしている。去年よりも、明らかに集中しているのが分かった。


授業が終わるたびに、次の予定の話が出る。模試の日程、進路面談、放課後講習。春なのに、気分はもう夏に向かって走り始めているようだった。



昼休みは、以前よりも短く感じた。


弁当を食べながら、問題集を開く人が増えたからだ。


君もその一人で、箸を動かしながら、数学のページをめくっている。


「すごいな」と言うと、「今やらないと後が怖い」と返ってきた。その言葉が、妙に現実的だった。



放課後は、それぞれの時間が増えた。


君は自習室に行くことが多く、僕は図書室や空いている教室で勉強する。


以前みたいに、毎日一緒に帰ることはなくなった。


それでも、帰り際に廊下ですれ違うと、「お疲れ」と声をかけ合う。その一言があるだけで、一日がきちんと終わる気がした。



ある日、春の風が強い午後、窓が少しだけ開いていて、カーテンが揺れていた。


授業中、君がペンを落として、机の下に手を伸ばす。


僕も同時に拾おうとして、指が一瞬触れた。


お互いに何も言わず、すぐに手を引っ込めた。誰にも見られていないはずなのに、心臓の音がやけに大きく聞こえた。


「集中しないとだめだね」


小声で君が言って、少し笑った。


「だね」


それだけで、その出来事は終わった。でも、春という季節は、そういう些細なことを、必要以上に意識させる。



進路面談が始まると、教室の雰囲気はさらに引き締まった。


志望校を書いた紙を提出し、先生と一対一で話す。


廊下で順番を待ちながら、君と目が合うことがあった。


「緊張する?」


そう聞くと、


「まあね」


と答えた。その声は落ち着いていたけれど、手元の紙を何度も折り直しているのを見て、君も同じなんだと思った。



面談が終わった日、珍しく一緒に帰った。校門を出ると、夕方の空気が少し暖かい。桜はもうほとんど残っていなくて、代わりに新しい葉が目立つ。


「三年生になったんだね」


君が言った。


「なったね」


「実感、ある?」


「まだ、あんまり」


「私も」


二人で少し笑った。実感がないまま、時間だけが進んでいく。その感じが、今の春そのものだった。


途中の公園で、少しだけ立ち止まった。ベンチには誰もいない。


君は空を見上げて、「春って、短いよね」と言った。


理由を聞くでもなく、その言葉を受け止める。確かに、春はいつも、気づかないうちに終わってしまう。



学校に戻ると、また日常が続く。


小テスト、課題、模試の結果。君は結果が出るたびに、淡々と受け止めていた。


喜びすぎず、落ち込みすぎず。ただ前を見る。その姿勢が、以前よりも大人びて見えた。


それでも、朝の教室で「おはよう」と言う声は変わらない。


隣の席で、消しゴムを貸すのも、ノートを見せるのも、今まで通りだった。変わったのは、時間の重さだけだ。


春は、まだ余裕があるふりをしている。でも、その奥で、確実に終わりに向かって進んでいる。僕たちは、そのことを分かっていながら、口には出さなかった。



今日も、同じ教室、同じ席。


窓から入る風は、少しだけ暖かい。君は問題集に目を落とし、僕は黒板を見る。何も特別なことは起きない。それが、今の春だった。


この春が、いつまで続くのかは分からない。でも、少なくとも今は、まだ隣にいる。受験生になっても、季節が変わっても、それだけは変わっていなかった。


春は、静かに進んでいく。気づかないふりをしながら、僕たちは、その中にいた。



「最近さ、時間早くない?」


昼休み、君が弁当の蓋を閉めながら言った。


「分かる。もう四月終わりだし」


「ついこの前、クラス替えだったのにね」


「ほんとだよ」


そんな会話をしながら、僕たちはいつも通り隣の席にいた。特別な話題じゃない。

ただの雑談。


「模試、どうだった?」


「数学が微妙」


「やっぱ?」


「やっぱ、って何」


「顔に出てた」


君は少しだけ睨んでから、ため息をついた。


「ねえ、正直さ」


「うん」


「受験、怖くない?」


一瞬、箸が止まる。


「怖いよ」


「だよね」


「君は?」


「怖い」


即答だった。


「でも、怖いって言い続けても、日付は勝手に進むじゃん」


「まあね」


「だから、やるしかないって思ってる」


その言い方が、やけに現実的で、高三なんだなと思った。



放課後、自習室に行く前、廊下で少し話す。


「今日も残る?」


「うん、二時間くらい」


「真面目だな」


「そっちもでしょ」


「まあ、形だけ」


「形だけでここまで来れたら苦労しないよ」


そう言いながら、君は笑った。その笑い方が、前より少しだけ疲れている気がして、何も言えなくなる。


「じゃ、先行くね」


「うん、また明日」


別れるのは一瞬。でも、その一瞬が増えた。



ある日、授業が早く終わった。


「今日、ちょっと時間ある?」


君がそう聞いてきたのは、珍しかった。


「あるけど」


「じゃあ、帰り一緒で」


理由は聞かなかった。聞かなくてもいい気がした。


校門を出て、いつもの道を歩く。


「暑くなってきたね」


「もう夏だよ、これ」


「制服きつい」


「それは年中じゃん」


「失礼」


君はそう言いながらも、少し笑った。


「ねえ」


「なに?」


「夏になったらさ、もっと忙しくなるよね」


「うん、たぶん」


「模試も増えるし」


「講習もあるし」


「……あんまり話せなくなるかな」


その言葉は、独り言みたいだった。


「ゼロにはならないでしょ」


「そうだけど」


君は少し間を置いてから言った。


「今みたいに、隣で話す時間が減るの、ちょっと嫌だなって思って」


胸の奥が、少しだけ熱くなる。


「僕も」


そう言うと、君は驚いた顔をしてから、照れたように視線を逸らした。


「……そっか」


それだけで、会話は止まった。でも、空気は悪くなかった。



別の日。


模試の結果が返ってきた日。


「どうだった?」


「まあまあ」


「その言い方は信用できない」


「ほんとだって」


「じゃあ見せて」


「やだ」


「なんで」


「プライド」


そんなやり取りをしながら、答案用紙を取り合う。


小さな攻防戦みたいな時間。周りから見たら、ただの友達だ。でも、この距離感が、今の僕たちにはちょうどよかった。


「ねえ」


「ん?」


「もしさ」


「また、もし〜?」


「今回は軽いやつ」


「どうぞ」


「同じ大学行けたら、どうする?」


一瞬、言葉に詰まる。


「どうするって」


「一緒に学食行く?」


「行くでしょ」


「席、隣?」


「そこまで一緒じゃなくていい」


「えー」


君は不満そうな声を出した。


「冗談」


「冗談?」


「……半分くらい」


その曖昧さが、今の関係そのものだった。


六月に入ると、教室は一気に蒸し暑くなった。


「エアコン、まだ?」


「まだ」


「地獄」


「毎年これだよ」


そんな会話をしながら、うちわで風を送る。君がノートを押さえて、「風、強すぎ」と言うから、少し弱める。そんなやり取りすら、前より多くなった。


「ねえ、夏ってさ」


「うん」


「一瞬で終わるよね」


「毎年言ってる」


「でもほんとに」


「受験の夏だし」


「それもあるけど」


君は少し考えてから言った。


「この席で迎える夏、最後かもしれないし」


その言葉に、返事が遅れた。


「……そうだね」


否定できなかった。


チャイムが鳴る。


「次、移動教室だっけ」


「そう」


「一緒に行く?」


「うん」


そんな当たり前の会話をしながら、教室を出る。歩きながら話す内容は、テストのこと、先生のこと、進路のこと。どれも現実的で、逃げ場がない話ばかりだ。


それでも、話している間は、少しだけ楽だった。


「時間、早いね」


君がまた言う。


「早い」


「もうすぐ夏だよ」


「だね」


「なんかさ」


「うん」


「気づいたら、全部終わってそうで怖い」


その言葉は、冗談じゃなかった。


「まだ夏だよ」


「そうだけど」


「ちゃんと、今をやっていこう」


そう言うと、君は少しだけ安心したように頷いた。


「……うん」


春が終わりかけている。


会話の中で、日常は続いている。


特別な約束はない。大きな変化もない。ただ、話して、笑って、隣に座っている。それだけで、時間は容赦なく進んでいく。


気づけば、もう夏の匂いがしていた。




夏休みに入って一週間が過ぎた頃、君がぽつりと言った。


「宿題、終わった」


「早」


「そっちは?」


「昨日」


「じゃあさ」


君は一瞬だけ言葉を探してから、なるべく平然を装うみたいに続けた。


「夏祭り、行かない?」


心臓が、少しだけ跳ねた。


「今年の?」


「うん。駅前の」


「あれ、混むよ」


「分かってる」


「暑いし」


「分かってる」


「人多いし」


「全部分かってる」


そこで君は、少しだけ笑った。


「それでも、行きたいなって思って」


「……いいよ」


即答だった。


「ほんと?」


「うん」


「じゃあ、決まりね」


その声が、少しだけ明るくなったのを、僕は見逃さなかった。



当日。


集合場所は、駅前のコンビニだった。


少し早く着きすぎて、僕は入口の横で待っていた。浴衣の人が通るたび、落ち着かなくなる。


「お待たせ」


振り向くと、君が立っていた。


「……その」


「なに」


「浴衣、珍しいな」


「たまにはいいでしょ」


紺色の浴衣に、白い模様。髪もいつもより少しだけまとめていて、言葉がうまく出てこなかった。


「変?」


「いや」


「ならいい」


君はそう言って、少しだけ距離を詰めた。


「じゃ、行こ」


「うん」


並んで歩き出す。人の流れに混じりながら、自然と歩幅を合わせる。


「思ったより人多いね」


「毎年こんなもん」


「受験生なのにね」


「今日は例外」


「そう言って、また来年も言ってそう」


「来年は、もう来れないかも」


その言葉に、足が一瞬止まりそうになる。


「……そうだね」


高校最後の夏。分かっていたけど、改めて言われると、少し重かった。



屋台の通りに入ると、空気が一気に変わった。


「何食べる?」


「りんご飴」


「即答」


「昔から好き」


「子どもだな」


「うるさい」


りんご飴を買って、二人で歩く。


「一口いる?」


「いいの?」


「どうぞ」


少し迷ってから、かじる。


「甘い」


「でしょ」


「歯、持ってかれそう」


「それが醍醐味」


そんなくだらない会話をしながら、焼きそば、たこ焼き、かき氷。どれも半分こだった。


「食べすぎじゃない?」


「夏祭りの日くらいいい」


「太るよ」


「今は気にしない」


君はそう言って、笑った。でも、その笑顔の奥に、少しだけ影があった。


「ねえ」


「なに?」


「夏休み、早いね」


「またそれ」


「気づいたら終わってそう」


「受験生の夏だし」


「それもあるけど」


君は、手に持ったかき氷を見つめながら言った。


「こうやって一緒にいる時間もさ、減ってくんだろうなって思って」


「……うん」


「別に、離れたいわけじゃないよ?違うんだk度ね」


「分かってる」


「でも、同じ時間を過ごすの、前より難しくなる」


その言葉は、静かだったけど、確かに胸に刺さった。


「だから今日、誘った」


「……そっか」


「迷ったけど」


「誘ってくれて、よかった」


そう言うと、君は少しだけ安心したように息を吐いた。



花火が上がる少し前、河川敷に移動する。


人が多くて、はぐれないように、自然と距離が近くなる。


「見えるかな」


「たぶん」


「場所、微妙?」


「でも、音は聞こえる」


「それで十分かも」


空が少しずつ暗くなっていく。


「ねえ」


「うん」


「もしさ」


「また『もし』?」


「今回は真面目」


「どうぞ」


「来年の夏、ここに来たら」


「うん」


「今日のこと、思い出すかな」


「思い出すと思う」


「どんなふうに?」


少し考えてから答えた。


「楽しかったな、って」


「それだけ?」


「切なかったな、も入る」


君は小さく笑った。


「やっぱり」


そのとき、最初の花火が上がった。


ドン、という音。夜空に広がる光。


「綺麗」


「だね」


花火を見上げながら、言葉が少なくなる。


「ねえ」


「なに?」


「この時間、止まればいいのに」


「止まらないよ」


「分かってる」


「でも、そう思うくらいには、大事なんだ」


花火の光が、君の横顔を照らす。


「僕も」


その一言だけで、十分だった。


次々に上がる花火。大きな音に、胸の奥が震える。


「来年は、どうなってるかな」


「それぞれ、違う場所かも」


「でも」


「でも?」


「今日のことは、ちゃんと覚えてたい」


「忘れないよ」


「ほんと?」


「たぶん、一生」


花火が、最後の大きな光を放つ。


拍手が起きて、人が動き出す。


「帰ろっか」


「うん」


並んで歩きながら、さっきより少しだけ静かになっていった。




秋に入ったはずなのに、体の奥は熱っぽかった。


天井を見つめながら、ぼんやりと時間をやり過ごす。


時計の針が進んでいるのは分かるのに、感覚だけが取り残されているみたいだった。


喉は痛く、頭は重い。風邪だと分かっていても、受験生のこの時期に寝込むのは、どこか罪悪感があった。


スマホを手に取る。


未読が一件。


――今日、学校来てないけど、大丈夫?


短い文。心配しているのが、変に伝わってきて、すぐに返事ができなかった。


指を動かそうとしたところで、画面を閉じる。何て返せばいいのか分からなかった。


「ちょっと休むだけ」


そう言い訳するみたいに呟いて、目を閉じた。


次に意識が浮かび上がったのは、玄関のチャイムの音だった。


一度、二度。夢の中かと思っていたら、また鳴る。


「……?」


階下から母の声が聞こえて、ドアの開く音がした。誰かと話している声。聞き覚えのある、少し高めの声。


心臓が、変な跳ね方をする。


しばらくして、階段を上る足音。


コン、コン。


遠慮がちなノック。


「……入るよ?」


返事をする前に、ドアが少しだけ開いた。


「寝てた?」


その声を聞いた瞬間、頭の重さよりも先に、胸の奥がざわついた。


「……なんで、ここに」


「連絡なかったから」


申し訳なさそうに笑って、彼女は部屋に入ってきた。


「お母さんに聞いたら、熱って」


「学校は?」


「終わった」


「受験生なのに」


「今日は例外」


そう言って、持ってきた袋をベッドの横に置く。


スポーツドリンク、ゼリー、のど飴。どれも、今の状態をちゃんと分かっている選び方だった。


「大丈夫?」


「まあ……」


「そのまあは信用できない」


彼女は椅子を引いて、ベッドの横に座る。


「顔、赤い」


「熱あるから当たり前でしょ」


少しだけ叱るみたいな口調。でも、目は優しかった。


「学校、静かだったよ」


「そう」


「隣、空いてた」


その一言で、教室の風景が浮かぶ。


「変な感じ」


「……悪い」


「責めてない」


彼女はすぐにそう言って、続けた。


「話す相手いないと、時間長い」


「それ、分かる」


「でしょ」


「今、俺もそれ思ってた」


「病人の特権?」


「たぶん」


二人で小さく笑った。


外から、秋の風の音が聞こえる。


「秋だね」


「急だな」


「夏、終わるの早すぎ」


「受験のせいかな」


「それもある」


彼女は、少しだけ間を置いてから言った。


「でもさ」


「うん」


「ちゃんと進んでるんだよね、全部」


「勝手に」


「止まってくれない」


「止まらない」


その言葉が、静かに部屋に落ちた。


「無理、してない?」


「してない」


「嘘」


「……ちょっとは」


「やっぱり」


彼女はため息をついた。


「頑張るのはいいけどさ」


「うん」


「倒れるまでやるのは、違う」


「分かってる」


「分かってる人は、こうならない」


正論だった。返せる言葉がなくて、天井を見る。


「いなくならないで」


その声は、小さかった。


「……いなくならない」


「本当?」


「本当」


「約束できる?」


「できない」


「正直だね」


「でも、戻る」


「ちゃんと?」


「ちゃんと」


彼女は、ようやく少し安心したように息を吐いた。


「来てよかった」


「どうして?」


「学校だと、ちゃんと話せないから」


「確かに」


「時間、いつも足りない」


「今日は余ってる」


「病人だから」


「それでも」


沈黙が落ちる。


でも、気まずさはなかった。


「ねえ」


「なに」


「こういう時間、減るよね」


「……うん」


「秋だし」


「冬も来るし」


「卒業も来る」


一つ一つ、現実を並べるみたいな言い方だった。


「でも」


彼女は少しだけ視線を上げる。


「今は、ここにいる」


「うん」


「それでいい」


それ以上、何も言わなかった。


「そろそろ帰るね」


「ありがとう」


「ちゃんと寝て」


「はい」


「返事は?」


「……はい」


「よろしい」


そう言って立ち上がる。


ドアのところで、少しだけ振り返った。


「また来てもいい?」


「いつでも」


「じゃあ」


ドアが閉まる。


足音が遠ざかって、部屋はまた静かになる。


でも、さっきまで確かにあった温度が、まだ残っていた。


布団に潜り込みながら、思う。


秋は、静かで、優しいふりをして、確実に先へ進ませる。




風邪が治ったあと、体が少しだけ軽くなった気がした。


秋休みは短くて、気づけばもう半分が過ぎている。


受験生にとっては、休みというより家で勉強する期間みたいなものだったけれど、それでも学校がないだけで、空気は少し違った。


そんな中で、彼女が言った。


「明日、空いてる?」


スマホ越しの短い一文。


「午後なら」


そう返すと、少し間があって、次が来た。


「じゃあ、出かけよ」


理由は書かれていなかった。場所も。


それでも、断る理由はなかった。


当日、待ち合わせは駅前。


彼女は先に来ていて、ベンチに座りながらスマホを見ていた。


「おはよ」


「おはよう。体、大丈夫?」


「もう平気」


「無理してない?」


「してないって言ったら?」


「半分くらい信じる」


そんなやり取りをしながら、電車に乗る。


「で、どこ行くの?」


「水族館」


「急だな」


「嫌だった?」


「嫌じゃない」


「よかった」


それだけで、彼女は少し満足そうだった。


電車の窓から見える景色が、少しずつ街から離れていく。


「水族館って、久しぶり」


「小学生ぶりかも」


「意外」


「最後に行ったの、家族でだったし」


「今日は違うね」


「……そうだね」


その言葉の意味を、二人ともちゃんと分かっていた。


水族館の中は、思ったより静かだった。


平日の昼間。人も少なくて、照明は落ち着いている。


「なんか、音が少ないね」


「水の音くらい」


「落ち着く」


「勉強には向かないけど」


「今日は勉強しない日」


「受験生の自覚ある?」


「今日はない」


彼女はそう言って、ガラスの向こうを指差した。


「見て、クラゲ」


ゆっくりと漂う透明な影。


「ずっと浮いてるだけで、生きてるの不思議」


「何も考えてなさそう」


「それ、羨ましい?」


「少し」


二人で並んで、しばらく黙って眺める。


「時間、ゆっくりだね」


「ここだけ、別世界みたい」


「外、秋なのに」


「中は、季節ない」


その言葉が、なぜか胸に残った。


「ペンギン、見に行こ」


「歩くの早くない?」


「逃げないから」


「人混み避けたいだけでしょ」


「バレた?」


ペンギンの水槽の前で、彼女がしゃがむ。


「こっち見てる」


「餌の時間じゃないのに」


「目、合った気する」


「気のせい」


「冷たいな」


でも、そのやり取りが楽しかった。


「ねえ」


「なに」


「こうやって出かけるの、久しぶりだね」


「夏祭り以来か」


「そう」


「秋になった」


「早い」


「ほんとに」


少しだけ、声が落ちた。


イルカショーは見なかった。


「時間、決められてるの嫌」


「分かる」


「今日は、流れでいたい」


そのまま、通路を歩く。


「進路、どう?」


突然だったけど、避けられない話題だった。


「まだ、迷ってる」


「私も」


「同じ?」


「似てるだけ」


「でも、違う道かも」


「うん」


その「うん」は、軽くなかった。


「それ、怖くない?」


「怖い」


即答だった。


「でも、避けられない」


「そうだね」


ガラスに映る二人の影が、少し歪んで見えた。


出口近くのベンチに座る。


「歩き疲れた」


「体力ない」


「病み上がり」


「言い訳」


飲み物を買って、並んで飲む。


「今日さ」


「うん」


「来てよかった?」


「うん」


「即答だね」


「迷う理由ない」


彼女は少しだけ安心した顔をした。


「実はさ」


「なに」


「この秋休み、今日しか空いてなかった」


「そうなの?」


「うん」


「じゃあ……」


「今日が、最後」


その言葉は、淡々としていた。


「最後の休み?」


「最後の二人で出かける日、かも」


否定しようと思ったけど、できなかった。


「……そっか」


「でも、嫌な意味じゃないよ」


「分かってる」


「ちゃんと、区切り」


「区切り、ね」


水族館の出口から、外の光が差し込む。


秋の空気が、一気に戻ってきた。


帰り道。


「水族館、どうだった?」


「静かで、よかった」


「派手じゃないけど」


「今日には合ってた」


「そうだね」


電車の中、二人ともあまり話さなかった。


「ねえ」


「なに」


「今日のこと」


「うん」


「忘れないと思う」


「私も」


「たぶん、思い出す」


「いつ?」


「受験終わったあと」


「それか、もっと先」


「どっちもありそう」


電車が揺れる。


「ありがとう」


「なにが」


「一緒に来てくれて」


「誘ったの、そっち」


「それでも」


改札で立ち止まる。


「じゃあ」


「うん」


少しだけ、間があった。


「また、学校で」


「また」


それ以上、何も言わなかった。


背中を見送りながら、思う。


今日という日は、特別じゃないふりをして、特別だった。


秋休みは終わる。

日常は戻る。


でも、水の中みたいなこの一日は、しばらく、心の奥で揺れ続ける気がしていた。

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