第10話
庭園は、昼の顔がいちばん柔らかい。
噴水の音が角を削って、葉の影が石畳に薄い模様を落とす。光は甘く、風は軽い。屋敷の中にいるはずなのに、ここだけ外に近い気がした。
僕は芝に座っていた。
隣には当然のようにクロエがいる。
茶髪が陽を拾って跳ねる。母譲りの色で、見ているだけで温度が上がる。僕の銀髪は父譲りで、同じ光を浴びてもどこか冷たい。まるで季節が違う。
「エド、見て!」
クロエが指差した先で、水滴が噴水の縁から跳ねて、虹みたいに光った。
クロエはその光に拍手しそうな勢いで喜ぶ。世界が喜びを受け取るのを前提に動いている。ずるいくらい明るい。
「……水だぞ」
「分かってる! でも、きれい!」
分かっているのに感動できるのは才能だと思う。
僕は感動する前に仕組みを探してしまう。嫌な癖だ。
クロエは僕の手を取って、指を一本ずつ触った。
指先。付け根。掌。丁寧に、宝石でも確かめるみたいに。
「ここ、あったかい」
ぽつり。
僕の背中に、薄い冷たさが走った。
あの時――噴水で滑って、僕が必死に引き寄せた瞬間。あの感覚をクロエは覚えている。
「気のせいだ」
僕がそう言うと、クロエは頬を膨らませた。
泣かない。怒鳴らない。代わりに顔で抗議する。ブラコンの圧は涙より強い。
「気のせいじゃないもん。クロエ、分かるもん」
理由を聞くのは怖かった。
怖いから、僕はいつもの逃げ方をする。
クロエの額を指で軽く押す。
「今は、のんびりする時間だろ」
「うん! のんびり!」
のんびりの定義も違う。
クロエは“誰かと一緒にいる”こと自体がのんびりらしい。つまり僕は今日も、のんびり装置だ。
僕が深く息を吸って吐くと、胸の奥が静かに満ちる。
空気の中にある“何か”が、当たり前のように戻ってくる。戻ってくるから、こぼさない。こぼせば呼吸が浅くなって、めまいが来て、最悪気絶する。五歳の前にその格好悪さは回避したい。
その時、影が落ちた。
庭の光がほんの少し締まる。
空気が、訓練場の匂いに近づく。
父――アンセルだ。
銀髪。刈り上げ。細く鍛えられた身体。
近衛騎士の頂点。王の専属騎士。王の親友。肩書きは重いのに、庭に立つ父は静かだった。静かだからこそ、背中に圧がくる。
「ここにいたか」
父の声は低く、噴水の音の上を真っ直ぐ通ってくる。
僕は立ち上がる。クロエも立ち上がろうとして、途中で僕の袖を掴んだまま止まる。立ちたいのに離したくない。欲張りだ。
父はクロエを一瞥して、ほんの少しだけ口元を緩めた。
父の笑いは分かりにくい。でも確かにある。
「エド」
呼ばれると、胸の奥が勝手に正面を向く。
「そろそろ、剣を学ぶか」
提案の形をしている。
でも父の中ではもう決まっている言い方だ。決まっているのに、僕の返事を待つ。その待ち方が父の優しさだ。
僕は頷く。
「うん」
短い返事。
でも胸の中では長い。父の背中に近づきたい。守れるようになりたい。言葉にしないほうが混ざらない。
クロエがすぐに割り込んだ。
「クロエも! クロエもやりたい!」
父は即答しなかった。
視線が一瞬だけ、クロエの手足を測る。小さな指。柔らかい足首。転べば泣かないのに、転んだら危ない骨。
「まだだ」
短い。
クロエの頬がまた膨らむ。
「えー! なんで!」
「剣は遊びじゃない」
父の声は変わらない。変わらないのが、余計に強い。
クロエは僕の袖を握り直した。
嫉妬と寂しさが混ざった握り方だ。
「……エドはいいのに」
小さな声。
その小ささが、余計に刺さる。
僕はクロエの手を包んで、指を軽く撫でた。
「見てろ」
その一言で、クロエの顔がぱっと晴れる。
単純で助かる。単純で怖い。僕の言葉がこの子の天気になってしまう。
父が静かに言った。
「ついて来い」
訓練場へ向かう道は、庭園の香りから遠ざかる。
土。汗。木の繊維。
音が角ばり、影が濃くなる。屋敷の裏側は屋敷の筋肉だ。
そこで待っていたのが、アイク副隊長だった。
背が高く、肩幅が広い。立っているだけで安定して見える。父ほどの鋭さはないが、その代わり温度がある。近づくと、怖さより先に安心が来そうな温度。
「お前がエドか」
声が通る。
その声は、すぐに少しだけ柔らかくなる。子どもに合わせて角を落とす。意識しているのが分かる。
「今日から俺が教える近衛騎士副隊長のアイクだ。隊長はもちろんだがお前の父上――アンセル様だ」
父が短く頷く。
隊長は父。副隊長がアイク。ここにあるのは、役割分担だ。父は忙しい。国に呼ばれる。王に付き添う。騎士をまとめる。僕に付きっきりになれないことくらい、五歳の僕でも分かる。
アイクは僕の目線に合わせるように、少し膝を曲げた。
「怖いか?」
僕は首を振る。
アイクは笑った。
笑い方が、やけに優しい。
「そうか。……じゃあ、ちゃんと怖がれ。剣は危ない」
矛盾しているのに正しい。
危ないと分かった上で握るから、剣は剣になる。
そのとき、クロエがアイクの後ろから顔を覗かせた。
「ねぇねぇ! クロエもやりたい!」
懲りない。めげない。
明るさと社交性が、訓練場の硬い空気を少しだけ丸くする。
アイクはクロエを見て、ほんの少し困った顔をした。
困っているのに、突き放さない困り方。そういう大人は信用できる。
「嬢ちゃんは、まだだ」
父と同じ答え。
クロエが頬を膨らませると、アイクは一瞬だけ視線を遠くへ流した。
訓練場の壁よりもっと先。過去のどこかを撫でるみたいな目。
「……昔、よく似たことを言われたことがある」
それだけを言って、アイクはすぐに笑いに戻った。
言葉は短い。でも短い言葉ほど、奥に何かを隠す。
「お前は見学だ。見て覚えろ。……案外、それが一番強い」
クロエは一瞬だけ考える顔をして、それからにこっと笑った。
「見る! クロエ、見るの得意!」
得意なのは分かる。
目が忙しい。僕の手元、足元、アイクの声。全部を拾おうとしている。拾うだけで場の空気が明るくなるのは、ある意味才能だ。
アイクが僕の頭に手を置いた。
乱暴じゃない。重くない。温度だけがある。
「エド。俺はお前を甘やかさない。だが放り出さない」
言い切る声だった。
その言い方が、妙に家族っぽい。
僕は木剣を握った。
重い。
でも持てる。
アイクが構えを直す。足、腰、肩、呼吸。
父の視線が背中に刺さる。重い。けれど嫌じゃない。
クロエは訓練場の端に座り、僕を見ている。
茶髪が光を拾って、目がきらきらする。
そして時々、僕の腕を見る。
――あの温度を、覚えている。
僕は魔力を漏らさないように意識する。
滲みを抑える。呼吸を浅くしない。最適な使い方。
剣と魔法を同じ身体で並べるのは難しい。難しいから、やる。
クロエが小さく呟いた。
「エド、かっこいい」
その一言が、訓練場の匂いを少しだけ甘くした。
守るべきものの温度が、背中を押す。
五歳の前。
僕は剣を握り、クロエは僕を見て、父は静かに見守っている。
世界はまだ柔らかい顔をしているのに、
その奥で、硬いものが動き始めている気がした。
救済の勇者は、また目を覚ます ―ひび割れた魂の転生譚― 神宮絵馬 @mantohihi
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