第9話 クララ

わたしがブロア家に来たのは、まだ「クララ」という名前が、ただの音だった頃です。

子爵家の三女は便利で、家の役に立てと言われたら、役に立つのが当たり前。執事やメイドになるのも、驚くほど自然でした。


ブロア家は、優しい家です。

優しさがしみ込んでいて、床板を踏んでも、角にぶつかっても、誰かが怒鳴らない。怒鳴らない家って、最初は逆に落ち着かないんですよ。怒鳴られないと、自分の立つ位置が分からなくなるみたいで。


坊ちゃん――エド様が生まれた日は、屋敷全体が息を潜めていました。

産室の前の廊下は、普段より長く見えました。灯りがいつもより柔らかくて、影が濃い。人の声が小さくて、足音まで遠慮して歩いている。


そして――生まれた。


……泣かなかったんです。


赤ちゃんって泣くものだと、わたしは勝手に決めつけていました。決めつけというより、そういう「常識の布」を羽織っていた。だから産声が上がらない瞬間、廊下の空気が一度、きゅっと固まったのが分かりました。


「……あら?」


誰かがそう言って、でもすぐに誰かが「元気ですよ」と言う。

泣かないことは、ほどけた糸みたいに、すぐに“些細なこと”として片づけられました。


それなのに――

わたしだけ、ずっと手のひらに小さな棘が刺さったままみたいでした。


泣かない赤子。

呼吸はしている。肌の色もいい。医師も笑っている。奥様も泣いている。旦那様も、胸の奥で深く息を吐いている。


それでも、産室の光の中で抱き上げられた赤ちゃんは、声を出さずに目を開けていた。

あの目が、怖かったわけじゃありません。

ただ――静かすぎた。


夜の湖が、月を映して動かないみたいに。

何かを隠しているわけじゃないのに、「底が見えない」感じがしたんです。


そこから先の坊ちゃんは、さらに拍子抜けするくらい手がかからなくて。

夜泣きはほとんどなくて、泣く前に眠ってしまう。空腹を訴えるより先に、奥様か誰かが気づいてしまう。坊ちゃんは、世界が自分の世話を焼いてくれることに慣れすぎているみたいでした。


……いえ、違うかな。

「慣れている」んじゃなくて、「そういう世界だ」と最初から思っているみたいでした。


だから、わたしはよく覗き込みました。

抱っこしている時、布越しに坊ちゃんの体温を確かめるふりをして、目を見た。すると坊ちゃんは泣かない代わりに、見返すんです。ちゃんと。逃げずに。まだ言葉もないのに、「あなたを見ています」と言うみたいに。


それが、可愛くて。

それが、少しだけ怖くて。


旦那様――アンセル様は、忙しい方です。

近衛騎士のトップ。王様の専属騎士。屋敷の中にいる時ですら、背中が外へ向いている。そんな人が赤ちゃんを抱く時だけ、手の力を抜くんです。剣だこのある手で、壊れ物を扱うみたいに。


抱かれた坊ちゃんは泣かない。

でも、アンセル様をじっと見ていました。


あの二人の距離は、ちょうどいい場所に置かれた剣みたいでした。

近すぎない。離れすぎない。触れれば切れるのに、決して怖がらせない位置。


奥様――クリシー様は、別の種類の強さを持っていました。

商家の娘。補佐として時折手伝っている、と笑って言うけれど、帳簿を見ている横顔は訓練場の木剣より鋭い。坊ちゃんを見つめる目は柔らかくて、柔らかいのに、決して揺れない。


優しい家って、こういう人が中心にいるから回るのだな、と分かりました。


坊ちゃんが大きくなるにつれて、屋敷の中に「静かな足音」が増えました。


夜です。

屋敷が眠って、庭園の噴水だけが息をしている時間。

廊下の角で、ときどき小さな影が動く。


最初は見間違いだと思いました。

眠気が目をおかしくしたんだ、と。


でも二度、三度と続くと、わたしの方が間違いだと言い切れなくなる。

そっと近づくと、影は書庫のほうへ吸い込まれていく。


書庫は立ち入り禁止です。危ないから。

危ないものがあるから――というより、子どもに早いものがあるから。大人が“守るための境界”を作った場所。


……坊ちゃんは、そこに入りたがる。


わたしは見つけてしまった夜がありました。

ランプの灯を小さくして、書庫の扉の前。坊ちゃんが、その小さな体で扉を押している。扉が軋む。屋敷が眠っているのに、扉だけが起きてしまいそうな音。


「坊ちゃん……?」


声をかけると、坊ちゃんは振り返りました。

泣かない。驚かない。

ただ、少しだけ目を丸くして、そのまま――何も言わない。


怒らなければいけないのに、怒れませんでした。

それは坊ちゃんが怖いからじゃなくて、坊ちゃんの“知りたい”が、手のひらに乗って見えてしまったから。


わたしは、扉を閉めました。

坊ちゃんを抱き上げて、部屋へ戻りました。

「危ないから、だめですよぉ」

口ではそう言ったけれど、声は甘くなってしまった。甘くなった声は、子どもに全部伝わるのに。


――この頃からでしょうか。

坊ちゃんは「言葉」を、急に増やし始めました。短い言葉。必要な言葉。挨拶。お礼。

たくさん喋るわけじゃないのに、使う言葉が妙に的確で、相手の顔が柔らかくなる場所に置かれる。


人の輪に入るのが上手い。

中心ではなく、輪がほどけない場所にすっと立つ。

そのくせ、目だけはいつも周りを見ている。


……ほんと、可愛いんですけどね。

可愛いんです。だから余計に、心配になる。


妹君が生まれた日、屋敷はまた息を潜めました。

今度は、息を潜める理由が分かる。守るため。壊さないため。


赤ちゃんの泣き声が上がった時、わたしは泣きそうになりました。

坊ちゃんの時にはなかった音。

屋敷の空気が一気にほどけて、皆の顔がゆるむ。涙と笑いが同時に出る、あの忙しい瞬間。


そして――坊ちゃんが、お兄ちゃんになった。


坊ちゃんは、妹君を抱くのが上手でした。

上手というか、自然でした。

抱っこの仕方はぎこちないのに、妹君が落ち着く。


妹君は坊ちゃんの胸元で息を整えて、指で服を掴んで離さない。

その「離さない」が、日々強くなっていく。


屋敷の人たちは、皆それを暖かく見守りました。

奥様は扉の影から微笑んで、旦那様はわざと視線を外しながら口元だけを緩めて、執事は咳払いで照れを隠して、料理人は「今夜は祝いのパンを」と張り切る。


優しさが、屋敷の隅々まで行き渡っていくのが分かりました。


坊ちゃんは、妹君の世界になっていった。

親より先に視線を向けられ、泣き声より先に呼ばれ、眠る前の最後に掴まれる。


それを見ていると、坊ちゃんが「守る」という言葉を知らなくても、守る形だけが先にできてしまうのだと分かりました。


……そして、事件の日です。


あの日、わたしは洗濯物の取り込みに呼ばれました。

ほんの少しのつもりでした。ほんの少し。

「すぐ戻りますからぁ」と言った自分の口を、あとで殴りたくなりました。


庭園へ戻ると、噴水のそばに坊ちゃんが座り込んでいて、腕の中に妹君を抱いていました。


その光景が、あまりにも静かで。

静かすぎて、逆に血の気が引いた。


「坊ちゃーん!」


声が裏返ったと思います。

わたしの中の天然が、きれいさっぱり消えました。あれは天然が消える音でした。自分でも初めて聞きました。


妹君は濡れていない。

冷えていない。

傷もない。


それを確かめて、ようやく足が地面を思い出しました。


坊ちゃんの頬は少し白かった。

目がいつもより大きく見えた。

泣いてはいない。泣けないのではなく、泣くという道を通らずに、別の道で立っている顔。


「……だいじょうぶ」


坊ちゃんはそう言ったけれど、その言葉が“全部を言い終えていない”のは、わたしにも分かりました。

子どもが「大丈夫」を言う時、大丈夫なことって少ないんですよ。ほんとに。


わたしは坊ちゃんの背中をさすりました。

呼吸が浅くないか確かめたかった。

胸が上下するのを、手のひらで数えたかった。


そして、その時――妹君が、坊ちゃんの胸元に手を当てたまま離さなかったんです。


普通、赤ちゃんって、触ってもすぐ飽きる。

でも妹君は、そこを押さえて、目を丸くして、妙に嬉しそうに笑った。

まるで、見えない鈴の音を聞いたみたいに。


坊ちゃんが、その手をそっと包んで離した。

離した瞬間、妹君が少しだけ不満そうに眉を寄せた。


……意味が分からないのに、胸の奥が冷えました。

理由は言葉にならない。

ただ、扉の前に立たされた気がしたんです。知らない扉。開けたら戻れない扉。


その後日談は、屋敷の温かさで出来ています。


わたしは奥様に報告しました。

怒られる覚悟で。叱られる覚悟で。首が飛ぶ覚悟まではしませんでしたけど、心臓が縮むくらいはしました。


奥様は、わたしの話を最後まで聞いて――叱りませんでした。

まず、妹君を抱いて額に口づけて、次に坊ちゃんの頬に手を当てました。


「怖かったわね」


そう言って、坊ちゃんを抱きしめた。

坊ちゃんは固まって、でも逃げなかった。

あの子は、抱きしめられるのが下手です。抱きしめるのは上手なのに。


旦那様にも伝わりました。

旦那様は声を荒げませんでした。

ただ、噴水の縁を見て、庭園の石の濡れ具合を見て、短く言いました。


「柵をつけろ」


それは叱責ではなく、対策でした。

責めるより先に守る。ブロア家の正義は、そういう形をしている。


そして、旦那様は坊ちゃんに言いました。


「無茶はするな。守るための力が先に壊れたら意味がない」


坊ちゃんは頷きました。

妹君は坊ちゃんの指を掴みました。

奥様はその二人を見て、目元を少しだけ細めました。


使用人たちも、皆、何も言わずに空気を整えました。

噂話は飛ばない。責めも飛ばない。

ただ、庭園の端に新しい柵が増えて、噴水の周りの床がよく拭かれるようになって、妹君のそばにいる人の数が少し増えた。


坊ちゃんは、相変わらず妹君を抱きました。

妹君は、相変わらず坊ちゃんを掴みました。

屋敷は、相変わらず優しい顔で回りました。


それでも――


わたしは夜になると、ときどき思い出してしまいます。

書庫の扉の重さ。噴水の縁の濡れた石。坊ちゃんの白い頬。妹君の「見つけたみたいな笑い」。


屋敷は守ってくれる。

でも、守りきれないものが、この世界にはあるのかもしれない。


だからわたしは、もう少しだけ目を配ります。

天然でいる時間を、ほんの少し削って。

坊ちゃんが夜に動けば、わたしも起きる。妹君が指を伸ばせば、わたしも先に手を伸ばす。


――わたしにできるのは、それくらいです。


でも、思うんです。

坊ちゃんが泣かなかったのは、泣けなかったからじゃなくて、泣く前に「やる」子だったからかもしれないって。


泣く代わりに、抱く。

叫ぶ代わりに、掴む。

助けを呼ぶ代わりに、守る。


それがいつか、坊ちゃん自身を苦しめないといい。

そんな願いを、わたしは心の奥の棚にそっと置きました。書庫の一番下の段、手の届く場所に。


……願いは、いつでも取り出せるように。

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