コーヒーとジッポライター

辛口カレー社長

コーヒーとジッポライター

「タバコとコーヒーってさ、似てるよね」

 それは、れいが僕の人生に土足で踏み込んできて間もない頃、安っぽい居酒屋のカウンターで放った第一声だった。

 周囲はジョッキがぶつかり合う音や、無遠慮な笑い声で満ちていたけど、彼女の声だけが不思議なほどクリアに、僕の鼓膜を震わせたのを覚えている。その時、彼女の指には既に火のついたラッキーストライクが挟まれていて、僕の手元には酔い覚ましのぬるいブラックコーヒーがあった。

「似てるかな。片方は覚醒を促して、もう片方は鎮静をもたらす。作用としては正反対じゃない?」

 僕はそう答えた。

「成分の話じゃないよ」

 玲は面白くもなさそうに笑って、細い顎を少しだけ上げた。「を作るための装置って意味でさ。時間を燃やして、その灰を積み上げることでしか得られない安らぎがあるの。あんたみたいな健康優良児には、分からないかもしれないけど」

 その時は、「何をハードボイルド小説みたいな台詞を吐いているんだか」と、少し冷ややかな目で見ていた。酔いが回った女性の、ありきたりな感傷だと思ったのだ。でも、揺れる紫煙けむり越しに見える彼女の瞳が、どこか遠い場所、この騒がしい店ではない、もっと静寂に満ちた場所を見つめていることに気づいた時、僕はその横顔から目を離せなくなっていた。

 彼女には不思議と、その紫煙が似合っていた。まるで、体の一部であるかのように。


 あれから二年が経ち、僕たちの関係には「カップル」とか「恋人」とかいう名前がついたけれど、彼女のその習慣だけは変わらなかった。

 十一月の夜風が、窓の隙間から忍び込んでくる季節。

 僕のマンションに来た時、玲の定位置は決まってリビングのソファではなく、狭いベランダだった。

 彼女は重たそうな革のバッグを床に放り出すと、中から赤丸のロゴが入った白い箱、ラッキーストライクを取り出し、テーブルの端にポンと置く。その手つきは儀式めいていて、無駄がない。箱から一本抜き出し、くわえるまでの流れるような動作。

「換気扇の下なら吸っていいよ」

 僕はいつものように声をかける。キッチンの方が暖かいし、僕も近くにいられるからだ。でも、彼女は決まってこう返す。

「ううん。灰が床に落ちると嫌だから」

 それは嘘ではないだろうが、本音の全てでもないことを僕は知っている。

 彼女は、僕という人間が作り上げている清潔で整理整頓された空間に、自分の「汚れ」を持ち込むことを極端に恐れている節があった。あるいは、タバコを吸うその数分間だけは、僕を含めた世界中の誰とも共有できない、彼女だけの聖域が必要なのかもしれない。


 ガラガラ、とサッシが開く音がする。冷気と共に、都市の喧騒がわずかに室内の静寂を侵食する。

 彼女は薄手のカーディガンを羽織り、ベランダの手すりに寄りかかる。そして、ジーンズのポケットから、愛用のオイルライターを取り出した。

 使い古された、真鍮しんちゅう製の地金じがねが見え隠れするジッポライター。

 ――カシャン。

 乾いた金属音が夜気に響く。シュボッという音と共にオレンジ色の炎が立ち上がり、彼女の顔を一瞬だけ照らし出す。その仕草は、往年の海外ドラマのワンシーンを切り取ったかのように絵になっていた。悔しいけれど、見惚れてしまうほどに。

 僕はキッチンに立ち、コーヒーミルのスイッチを入れる。ガーッという豆を挽くけたたましい音が、ベランダの静けさとは対照的に響く。

 彼女はタバコ、僕はコーヒー。

 これは僕たちが時間を共有するための、言葉のいらない約束事だった。


「これ? 前の彼氏にもらったライター」

 付き合い始めて三か月くらい経った頃、あまりにも年季の入ったそのライターについて尋ねた僕に、玲は悪びれる様子もなくそう言った。

 僕はその時、自分の表情筋が強張るのを感じた。

「へぇ、そうなんだ」

 平静を装って返したつもりだったが、声はわずかに上ずっていたかもしれない。

「変かな」と彼女は首を傾げた。

「モノに罪はないでしょ。使いやすいし、オイルも入れたばかりだし」

「いや、変じゃないけど……」

 僕はこの時、「なんて血も涙もない人なんだろう」と驚いた。別れた男の思い出の品を、新しい恋人の前で平然と使い続ける神経。それは無神経さというより、ある種の合理主義、あるいは過去に対する執着のなさの表れに見えた。でも、付き合いが長くなるにつれ、その認識は少しずつ変わっていった。


 ――カシャン……カシャン。

 ベランダから聞こえてくる、ジッポライターの蓋を開け閉めする音。

 彼女が無意識にその音を鳴らす時、その視線は決まって虚空を彷徨っている。紫煙の行方を目で追いながら、あるいは街灯が作る影を見つめながら、彼女はリズムを刻むように金属音を響かせる。

 その音を聞くたび、僕は胸の奥がチクリと痛むのを覚え、少し複雑な気分になるのだ。

 彼女は本当に「モノに罪はない」と思っているだけなのだろうか。あの音は、僕の知らない誰か、彼女の人生のどこかに深く刻まれた男への呼び鈴のように聞こえてしまう。

 ジッポライターの表面についた無数の傷の一つ一つに、僕の知らない物語がある。僕が触れることのできない、彼女の歴史がある。

 僕はドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽きたての粉を入れる。沸騰したお湯を少し冷まし、ゆっくりと注ぐ。粉がふっくらと膨らみ、芳ばしい香りが立ち上る。

 コーヒーは科学だ。豆の量、お湯の温度、抽出時間。全てが計算通りなら、必ず美味しい一杯ができる。

 対して、彼女のタバコはどこか文学的だ。その日の気分、風の強さ、湿気、そして彼女自身の感情によって、紫煙の形も燃える速度も変わる。そして最後には、灰になって消えてしまう。

 ――計算できる僕のコーヒーと、形に残らない彼女のタバコ。

 僕たちは似ているようでいて、決定的に違う。


 ドリップを待ちながら、僕はガラス越しに彼女の背中を見た。携帯灰皿を片手に、昼から夜へとバトンタッチされた街並みをじっと見下ろしている。眼下には首都高速が走り、赤いテールランプの帯が川のように流れている。

 彼女は何を見ているのだろう。ただ景色を見ているだけなのか、それとも、煙の向こうに過去の幻影を重ねているのか。

 その横顔は、やっぱり僕にとってスペシャルで、同時にどうしようもなく遠い存在に思える時がある。触れれば崩れてしまいそうな、硝子細工のような危うさを秘めた横顔。

 僕はタバコを吸わない。嫌煙家というわけではないし、吸う人に対して偏見があるわけでもない。ただ、自分の肺を汚してまで得たいものが想像できなかっただけだ。けれど、彼女と付き合い始めてから、何度か思ったことがある。

 彼女の横に並んで、同じように口から紫煙を吐いてみたい、と。同じ毒を体に入れ、同じ景色を共有し、同じリズムで呼吸ができたら、僕たちはもっと近づけるのではないか。

 あのジッポライターの音に入り込む隙間ができるのではないか。そんな幼稚な嫉妬心が、僕の中にくすぶっていた。


 あれは、半年ほど前のことだ。ひどい雨の降る夜だった。玲は仕事でのトラブルが重なり、ひどく疲弊して僕の部屋に転がり込んできた。言葉少なにシャワーを浴び、髪も乾かさずにベランダに出ようとした彼女を、僕はタオルを持って追いかけた。

 雨音にかき消されそうなほど小さな音で、ジッポが開く音がした。彼女は雨に濡れるのも構わず、手すりに身を乗り出すようにして紫煙を吐いていた。その背中があまりに小さく見えて、僕は思わず声をかけた。

「……一本、くれる?」

 玲は驚いたように振り返った。濡れた髪が頬に張り付いている。

「吸うの?」

「吸ってみる」

 彼女は怪訝そうな顔をしたが、拒絶はしなかった。箱から一本取り出し、僕の口元に差し出す。

「火、つけるよ」

 ――シュボッ。

 近づいてくる炎と、彼女の顔。オイルの匂いが鼻をつく。僕は見よう見まねで、その白い筒の端を強く吸い込んだ。瞬間、喉が焼けつくように痛み、僕は盛大に咳き込んだ。

「ごふっ! げほっ、ごほっ!」

 生理的な反応で、ボロボロと情けないほど涙がこぼれ落ちた。煙たくて、苦くて、目が開けられない。

 涙目で咳をする僕を見て、玲は腹を抱えて笑い出した。さっきまでの鬱々とした空気が嘘のように、ケラケラと声を上げて。

「中学生かよ! だっさ!」

 ひとしきり笑ったあと、彼女は僕の手からタバコを取り上げ、自分の口にくわえ直した。そして、少し真面目な顔になって言った。

「タバコなんて、吸わない方がいいよ」

 その声色は優しかったけれど、どこか拒絶の色を含んでいた。

「どうして?」と、咳き込みながら僕は聞いた。

「一度味を覚えたら、やめるのは大変だから」

 彼女はそう言って、深く紫煙を吸い込んだ。

「それに、あんたにはコーヒーの香りの方が似合ってる。私の隣は、タバコ臭くない方がいいの」

 それは僕を気遣う言葉だったのか、それとも自分の領域に踏み込まれるのを拒む言葉だったのか、分からない。でも、僕は悟った。彼女の孤独な聖域に、僕が土足で踏み込むことはできないのだと。あの涙は煙のせいだけではなく、その事実に対する無力感の表れだったのかもしれない。

 結局、僕は喫煙者にはなれなかった。彼女と同じ景色を見るためのチケットは、僕の喉には合わなかったのだ。

 それ以来、僕は大人しくコーヒーを入れる係に徹している。

 彼女がタバコで時間を燃やしている間、僕はコーヒーで時間を抽出する。それが僕たちのバランスなのだと言い聞かせて。

 コーヒーが落ち切った。

 黒い液体を二つのマグカップに注ぐ。僕のはブラック、彼女のには少しだけ砂糖を入れる。彼女は「苦いのは人生だけで十分」とうそぶくことがあるからだ。

 湯気の立つマグカップを両手に持ち、僕はベランダへのサッシを足で軽く押し開けた。

「お待たせ」

「ん、ありがと」

 玲は振り返らず、声だけで答えた。灰皿には既に一本の吸い殻が押し付けられている。いつもなら二本目を点けるタイミングだが、今日はまだ新しいタバコに手を伸ばしていない。

 僕は彼女の隣に並び、手すりにマグカップを置いた。夜風は冷たいが、コーヒーの熱が指先から伝わってきて心地よい。

 玲は大きく伸びをして、首をぐるりと回した。コキッ、と乾いた音がする。

「肩、凝ってるね」

「うん。最近、デスクワーク続きでさ。目がシバシバする」

 彼女はため息混じりに言い、手すりに頬杖をついた。「人間もさ、機械みたいにパーツ交換できればいいのにね。肩とか首とか、丸ごと新品に取り換えられたら楽なのに」

「あとでマッサージでもしてあげようか?」

「本当? 気が利くじゃない?」

「気が利く? 前からだよ」

「まぁ、そうか」

 彼女はくすりと笑い、ようやく僕の方を見た。


 街の灯りが彼女の瞳に反射して揺れている。その表情は穏やかだった。先ほどまで感じていた、何かを思い詰めているような空気は消えている。タバコ一本分の時間が、彼女の中に深く沈んで溜まっていた泥を少しだけ浄化したのかもしれない。

 彼女の手元には、あのジッポライターがあった。真鍮しんちゅうの角が摩耗し、鈍い光を放っている。何度もオイルを補充し、発火石フリントを交換し、芯を調整して使い続けてきた物。メンテナンスをすれば、道具は長く使える。人間関係と同じだ。でも、どうしても消えない傷もある。

 前の彼氏からもらったという事実は、このライターが存在する限り消えない。カシャンという音が鳴るたびに、過去がエコーのように響く。

 僕はコーヒーを一口啜った。苦味が口の中に広がり、意識が鮮明になる。

 ――タバコとコーヒー。

 体にとっては最悪な組み合わせだ。血管を収縮させ、胃を荒らす。でも、彼女は言うだろう。「だからこそ、生きている実感がするんじゃない?」と。

 僕は決心した。

 ずっと考えていたことだ。言うなら今しかない。

 この冷たい夜風と、コーヒーの湯気と、残り香の混じったこの空間で。


「あのさ」

 僕は努めて軽い調子で切り出した。

「ん?」

 彼女がマグカップに口をつけながら、上目遣いに僕を見る。

「今度、誕生日に新しいジッポライター、プレゼントするよ」

 一瞬、時が止まった気がした。遠くで電車の走る音がゴォォォ……と響いている。

 玲はカップを口から離し、きょとんとした顔で僕を見た。細められた目が大きく開かれる。

「え?」

「いや、だから……」

 僕は少し慌てて言葉を継ぐ。

「そのライター、もうだいぶガタがきてるみたいだし。蓋の噛み合わせも悪いだろ? 音が鈍くなってる気がしてさ」

 それは半分嘘で、半分本当だった。一番の理由は、やっぱり嫉妬だ。

 僕がプレゼントしたもので、彼女に火をつけてほしかった。彼女のその「一人の時間」に、僕の痕跡を残したかった。

 玲はまじまじと僕の顔を見つめた後、視線を自分の手元に落とした。

 ――古びたジッポライター。

 彼女の指が、その傷だらけの表面を愛おしそうに、あるいは確かめるように撫でる。

 断られるかもしれない、と思った。「これはこれで気に入ってるから」と言われるかもしれない。「余計なお世話だよ」と笑われるかもしれない。

 心臓が早鐘を打つ。

 ――嫌ならいいけど。

 その言葉が喉元までせり上がってくる。

 彼女は長い間、沈黙していた。

 やがて、ふっと息を吐き出すと、彼女は顔を上げた。その表情は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。

「これ、ちょうど捨てようと思ってたところ」

 予想外の言葉に、今度は僕が目を丸くする番だった。

「え……捨てるって、それを?」

「うん。もう寿命かなって思ってたの。オイルの減りも早いし、火つきも悪いし」

 彼女はライターを親指で弾き、カチンと蓋を開けた。しかし、火をつけようと発火石フリントを擦っても、火花が散るだけで、炎は上がらなかった。

 彼女は苦笑いを浮かべた。

「ほらね。肝心な時に火がつかないんじゃ、意味ないし」

 それは単なる偶然のオイル切れだったのかもしれない。でも、僕にはそれが、彼女なりの「さよなら」の合図のように思えた。

 彼女はライターの蓋を閉じると、それをジーンズのポケットに深く突っ込んだ。まるで、もう二度と取り出さないかのように。

「どんなのがいい?」と彼女は聞いた。

「あんまり派手なのは嫌だよ」

「分かってる。シンプルで、手に馴染むやつにするよ」

「シルバーがいいな。使い込むと味が出るやつ」

「うん、探しておく」

 彼女は残っていたコーヒーを飲み干すと、「うん、美味しい」と笑顔で言った。

「中に入ろう。風邪ひいちゃう」

「そうだね」

 彼女はベランダのドアを開け、暖かいリビングへと戻っていく。

 いつもは二本吸うのに、今日は一本で満足したようだ。あるいは、火のつかなくなったライターが、彼女に潮時を教えたのかもしれない。

 僕は最後にもう一度、夜の街を見た。

 タバコの紫煙はもう完全に消えていて、そこには澄んだ冬の空気だけがあった。

 新しいライターで火を灯す彼女の横顔を、僕はこれから何度見るのだろう。

 禁煙を勧めるのは、まだ先になりそうだ。


 リビングから「ねぇ、マッサージしてくれるんでしょ?」と呼ぶ声がした。

「はいはい、今行くよ」

 僕は空になったマグカップを手に、部屋の中へと入った。温かいコーヒーの香りが、部屋の中に満ちていた。それはタバコの残り香と混ざり合い、奇妙だけれど、悪くない匂いを作り出していた。

 ――タバコとコーヒー。

 やっぱり似ているのかもしれない。

 どちらも、苦くて、温かくて、誰かと一緒にいる時間を少しだけ豊かにしてくれるものだから。

 サッシを閉めると、外の音は遠ざかった。

 僕たちの新しい時間が、ここからまた始まる。


(了)

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コーヒーとジッポライター 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou

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