第8話
中国横断自動車道を走る車がヒイゴ池に差し掛かった時、僕は生まれた。
母は助手席に乗っており、ヒイゴ池湿地を横目で流し見ながら父に尋ねた。
「ヨースケは何処にいるだろうか」
「そうだなあ」
父さんは運転席でじっと前を見つめながら答えた。
「金持ちの家に生まれたよ」
「金持ちの家に生まれた」
言葉が結合し、集合する。母さんは父さんの言葉を繰り返して言うと、また尋ねた。
「それってどこ?」
「どこだろう」
父さんの気の無い返事がして、車内は静まりかえってしまった。会話は結実した。後部座席のチャイルドシートの上で、二人の姉さんが眠る中、車体を揺らして車は淀みなく進む。
母さんは僕を、妊娠していなかった。生まれて来たのは娘二人だった。もちろんそれに過不足はない。母さんは満ち足りていて幸せだった。しかし<息子を産む>と言う計画はいつもぼんやりと頭の中にあったのに、その後、色々な条件が合わずどうにも踏ん切りがつかなくなって、結局僕は生まれなかったのだ。
母さんはその話を父さんにしていたのだ。
そして僕は、母さんと父さんの会話の中で結実として人格を形成し、この時生まれ落ちたとも言えるだろう。
だから僕はヒイゴ池湿地で生まれた。
僕は生まれつき体の無い子供だった。
冬の風が吹いて窓ガラスを轟々と叩く。車は落合インターチェンジに入り、国道313号線に向けて走って行く。
母さんはその後、父さんにそれ以上言及しなかった。生まれたばかりの僕はころころと母さんのたなごころから転がり出て、車窓からふわふわ浮き出し、トンネルの中で漂いながら、車の上に陣取って点々と続く明かりを面白く眺めていた。
車は目的地のばあちゃんの家につき、姉さんたちが目を覚まして、歓声をあげながら車から降りて行く。
家族はその家で昼ごはんを食べ、去って行った。ばあちゃんが見送る。
公園で遊んでから自宅に帰って、開け放したままの玄関のドアを閉めにやって来た母さんはふと曇天の空を見上げた。
何かぐちゃぐちゃしたものの像が結ばれかけたが、彼女はそれを一瞥すると忙しそうにドアを閉めてしまった。
僕は玄関先に浮きながら何となくそれを見つめていた。何処にもおらず、あるいは、どこにもいないことによって、ここに偏在している。
<ヨースケ>と言う名前(漢字で書くと洋輔だったが、母さんは「よ」を伸ばしていつも僕をヨースケと呼んだ)を与えられるはずだった実現しない計画。
受精という物理現象の手前で霧散した、純粋な可能性としての<息子>。
それが僕だ。
父さんは僕を金持ちの家へ生まれたと言う。それは違う。僕は転生などしていない。
なぜならこれは全て母さんの思考だからだ。僕が存在すると思考しているのも母さんなら、僕が思考していると考えているのもまた母さん、私である。
空が暮れなずみ、黄昏の中夕飯の匂いが家の窓から立ち昇る。今夜はハヤシライスだなと思った。
夕暮れが去り、空に星が瞬き始める。空気がきりりと冷え始め、都会の明るさにけぶる空に一等星と惑星が目立って見えた。
僕は立ち尽くしたまま、その空を見上げていた。
令和8年のビッグバン アガタ @agtagt
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