第1話:Tic(チク)

遠くで機関車の汽笛が鳴って、俺は夢から引き剝がされた。

また、だ。


工房のベンチで眠りこけていた。

開いたままの時計の上に、顔の半分を押しつけたまま。


頬には金属の縁がくっきりと残っていた。

まるで時間が、俺の皮膚に刺青でも刻みたがっているみたいに。

――あるいは、まだ完全には“自分のもの”じゃないと、言い聞かせるみたいに。


短い脚の軽い足音が、俺が一人じゃないことを告げた。


スパイク。

茶色のダックスフンド。年老いて、忠実で――錆びることを拒む記憶みたいなやつ。

いつもと同じ勢いで小走りに入ってきて、口には新聞をくわえている。

その仕草を、こいつはいまだに“大事なこと”だと思っている。

まるで毎日が、何か良い知らせを運んでくるかもしれないと信じているみたいに。


「残るべきじゃなかったな……」

俺は呟いた。声は、寝不足で、夢を見すぎた人間のそれだった。


スパイクは首を傾げた。

理解したのか、それともどうでもいいのか。

俺がここにいる限り、それでいい――そんな顔をした。


何日、家に帰っていないのか、もう数えるのをやめていた。


母さんは……たぶんまた、工房のドアの下に手紙を滑り込ませるだろう。

青いインクの約束。

やわらかく包んだ責め言葉。


「夕飯、待ってる。」

「いつまでも隠れていられないよ。」

「お父さんなら許さなかった。」


どれも同じ結びで終わる。

――愛をこめて、いつも。


“いつも”なんて、ただの言葉みたいに。

代償なんて、何もないみたいに。


外では、ヴェルヒラがもう目を覚ましていた。

格子の隙間から蒸気が鳴き、街が呼吸するのに苦しんでいるみたいだった。

中環のどこかで歯車が唸り、休むことなく、慈悲もなく、

誰が取り残されるかなんて一度も問わずに回り続ける。


空は青くない。

記憶を持った煙だ。


ゆっくり体を起こした。

骨が痛む――けれど、心ほどじゃない。


目の前、机の上に“彼女”がいた。


俺の機械。

油で汚れたシートに覆われ、配線、図面、そして秘密にまみれている。


記憶捕獲機。

俺の不可能。

俺の罪。


俺はこれを――

……いや。

まだ声に出して言えない。


ただ、完成させなきゃいけないとだけ分かっていた。

たとえ動かなくても。

たとえ壊れても。

たとえ、その鼓動を見せる相手がもう誰もいなくても。


震える指で近づき、シートを退ける。


オイルランプの揺れる光の下で、金属は――まだ役に立つ夢を見ているみたいに、淡く光った。

中心のバルブは開いたまま。傷口のように露わだ。

内部の部品は宙に吊られ、まるで俺の代わりに息をしている。


「今日こそだ」

俺は低く言った。立ち会う者のいない誓いみたいに。

「今日は、お前が――チク、と鳴る日だ」


スパイクはあくびをした。


街が、もう一度、汽笛のように鳴いた。

そして壁の時計が……ほんの一瞬、止まった。


たった一秒。

けれど、俺が問いかけるには十分だった。


――時間が、たった一度だけ、俺を待ってくれているのかもしれない、と。


そのとき、工房の呼び鈴が鳴った。

真鍮の小さな笛。真夜中の列車の汽笛を真似るように調律されたものだ。


くだらない冗談だと、ずっと思っていた。

それなのに――俺は、笑ってしまった。

「おい、クレス!」

扉の向こうから、しゃがれた声が怒鳴った。

「もう朝の十時だぞ! そろそろ俺の時計、返してくれてもいいんじゃないか?」


「ファイキュル様、申し訳ありません」

俺は歯車の唸りに声を重ねて答えた。

「時計なら昨日の時点で仕上がっております。――いつだって時間どおり。ゴールデン・ギアでは」

そう付け足して、誰もいない空間に向けて芝居がかった一礼をした。


スパイクが、ワンと一度だけ吠えた。

皮肉が分かったみたいに。


汚れた布で手を拭き、青銅の鋲で補強された樫の扉へ向かう。

開けた瞬間、通りの煙が招かれざる客のように流れ込んできた。

石炭の匂い。濡れた革。――そして、外縁のどこかで焼かれたパンの香り。


ファイキュル氏が立っていた。

羊毛のコートに、シュモクザメの彫刻が施された杖。

それから、老いた発明家だけが持てる“穏やかな焦れ”を顔に浮かべている。


「神々よ、ここは油の匂いがひどいな」

鼻をしかめて言う。

「何週間、換気してないんだ?」


「換気? 天才の腐りかけた芳香を逃がせと? 冗談じゃない」

俺はそう返し、濃紺の布に包んだ時計を手渡した。


彼はそれを、遺物でも受け取るように丁寧に扱った。


鎖付きの懐中時計。

古びた銅の胴体に、彫刻された青いガラス。

ふたを開くと、柔らかく一定のチクタクが沈黙に満ちた。


ファイキュルは何も言わずに頷いた。

目だけで笑う。


それからいつものように、挨拶もなく去っていった。

独り言みたいに式を呟き、歩くたび杖で地面を――コツ、コツと叩きながら。


俺はしばらく扉口に立ち、彼が朝の蒸気に溶けていくのを見送った。

止まらない街の反響の中へ、あっという間に消えていく。


そして俺は、また工房に戻った。

未完成の時計、冷えた珈琲、そして――終わらない座席。


スパイクは椅子に飛び乗って、ため息をつき、裁くような目で俺を見る。


「落ち着け、相棒」

俺は言った。

「まだ今日を無駄にする時間はたっぷりある」


ベンチを机の下に押し込んだ、その瞬間だった。


扉が、柔らかく錆びた軋みを立てて開く。

続いて、敷居の上に吊るされた銅の鈴が、ちりん、と鳴った。


他の誰にとっては無害な音だろう。

だが俺にとっては――警告だった。

誰かが、俺の世界に足を踏み入れる。


「お前は本当に救いようがないな、クレスサー・ヴァグ……」

皮肉と自信を混ぜた声が言った。

「まるで時間が、お前だけには効かないみたいじゃないか」


「評議会でも指折りの連中が、わざわざこの忘れられた隅まで来るんだぜ。

お前に、金属の内臓を直してもらうためにな」


振り向くまでもなかった。誰の声かは分かる。


何年も無駄な議論を重ね、同じ毒を笑い合い、

言えない秘密を抱えてきた――俺にとって一番馴染みのある声。


エルマー・パイスク。


反応するより早く、背後から首に腕が回った。

陽気な熊みたいな抱擁で引き寄せられ、もう片方の手で容赦なく髪をくしゃくしゃにされる。


「見ろよこの髪! 夢の中まで脂だらけじゃねぇか!」

彼は笑った。鼻にかかったその笑い声は、いつも古いエンジンがかかる音に似ている。


「……俺を青銅のペット扱いするの、やめてくれないか?」

俺は腕を押しのけながら唸った。


「おいおい、そんなに不機嫌になるな。こっちは会いたかったんだぜ。

蒸気の聖域に隠れてる間、どれだけ見てねぇと思ってる? 二年? 三年?」


「七か月と……二週間。たぶん」

俺は反射で答えた。

日付の記憶だけは、時計より正確に働く。


「はいはい、“精密男”さん」

エルマーは肩をすくめた。

「針と鼓動のリズムで生きてるの、忘れてたよ」


彼はストーブの前の古い肘掛け椅子にどさりと座り、

まるで街そのものが、彼が落ち着いて息をするのを待ってくれるみたいに足を組んだ。


白い粉塵が跳ねた長いコート。

中環の資料庫から来たのか――あるいは、意味より歴史の方が多い廃墟を嗅ぎ回ってきたのか。


スパイクが彼のところへ小走りに行き、ブーツを舐めた。


「おっ、いい子じゃないか。少なくともお前は俺を恋しがってくれたんだな」

彼はしゃがんで、耳の後ろを掻いてやる。


俺は腕を組み、ベンチにもたれた。


エルマーの存在は、調整の狂ったバルブみたいだった。

不快で――それでも無視できない。


「用があるのか。それとも空気を騒音と無駄口で満たしに来ただけか」


「両方だ、親友」

彼は目を輝かせて笑った。

「だが何より……見たんだ。――いや、“会った”と言うべきか」


「誰に?」


彼は片眉を上げて俺を見た。


「イレイン・スカル」


「……ヴェルヒラに戻ってきた」


その名は、胸の内に落ちた緩んだナットみたいだった。

忘れたと思っていた部品。錆びついたはずの記憶。

――自分が“今の自分”になる前から、聞いていない言葉。


俺は何も言えなかった。

言う必要もなかった。


エルマーは俺を知りすぎている。


彼は満足そうに微笑んだ。

まるで、古い時計に火を入れたみたいに。

本来、二度と動いてはいけなかったはずの時計に。


俺の親友――エルマー・パイスクは、少なくとも書類の上では、軍用飛行船の操縦士だった。


もちろん、隣国アルカニアとは何年も前に和平を結んでいる。

いまや外交上は廃墟で、再建も遅い帝国。

だから現実のエルマーは、戦争のない操縦士――行き先のない男だった。


七つの風の条約が結ばれてから、彼のような者たちは空を消された。

切り裂くべき戦線も、護衛すべき輸送隊もない。

残ったのは、炎の雲の中で咆哮するゼップリンの記憶だけ。


そして――“観光”が現れた。


核の評議会が編み出した、見事な発明。

古い飛行船を、空に浮かぶ贅沢へ変える。

ただし――それを買えるのは、金持ちだけ。


金に染めた懐中時計を持ち、雲の上で紅茶を嗜む核の連中。


「ゴールデン・ギア……」

エルマーは工房の壁時計を見上げ、呟いた。

「親父さんが残した名声で、いまだに太い客が来るんだろ?」


俺は肩をすくめ、床に落ちていたナットを拾った。


「ああ。たまにな」

布で手を拭く。

「俺は……時計のチクとタクが好きなんだよ」


「俺が好きなのは何だと思う?」

エルマーは香り付きの小さな蒸気パイプに火を入れながら言った。

「エンジンが上がるときの――シューーーって音」

「飛行船が港から離れるときの金属のきしみ」

「そして……静けさだ。上に行けば行くほど、世界が遠くなる」

「――問題でさえ、そこまで登ってこれないほどにな」

俺たちは黙ったままだった。

スパイクが隅から、ふん、と鼻を鳴らす。

ランプの炎がちらついた。まるで“今”そのものが、確かめるのをためらっているみたいに。


「……会ったのか?」

ようやく俺は訊いた。

彼女の名が舌の上で重いことを、悟られないように。


「遠くからな」

エルマーは言った。

「輸送用の飛行船から降りてくるのが見えた。大きな荷物はなし。帽子だけ」

「前と同じさ。……でも、違った」


「誰にも分からないようなことを、生きてきたんだろうな」

「……そういう“違い”だった」


俺は何も言わずに頷いた。


そして――まるで街が、俺たちが言いすぎたと知っているみたいに、

工房の壁時計が、乾いた音でカチリ、と鳴った。


エルマーが俺を見る。

俺もエルマーを見る。


それ以上、言葉は出なかった。


ヴェルヒラでは時々、沈黙こそが――

時間を測るいちばん正確な方法になる。


「……なぁ、クレス」

エルマーが空気を破った。

「久しぶりに来たんだ。バーに行かないか?」

「もしかしたら、あいつらもいるだろ」


悪党みたいな笑み。

いつも疲れを隠そうとして、結局隠しきれない笑み。


俺は鼻で笑ってしまった。


「馬鹿か。あいつらがいないわけない」

「あのバーが閉まったら、入口で飲み続けて――錆びるまで居座るぞ」


俺は小さく唸りながら立ち上がった。

骨がきしむ。

ベンチが呻いた。


ハンガーから擦り切れたコートを掴み、掌でぱん、と叩いて埃を払う。


「“いやだ”って言っても、お前は聞かないんだろ……」

俺は諦めたようにコートを羽織りながら言った。

「……分かった。行く」


「そうこなくちゃ!」

エルマーが子どもみたいな勢いで叫び、扉の枠を拳で叩いた。


俺は青銅の衣紋掛けへ向かう。

硬いブリムの帽子を取り、正確に頭に載せた。

それから、燻したゴーグル。


必要だからじゃない。

――ときどき人は、世界を“少しだけ現実じゃなく見せるフィルター”越しに見たいだけだ。


スパイクが隅からこちらを見ていた。耳を立てて。

まるで銅と皮でできた小さな歩哨みたいに。


「工房を頼む、スパイク」

「許可なく“記憶”を入れるなよ」


犬は小さく鼻を鳴らした。

動物が知ってはいけないはずのことを、知っているみたいに。


俺たちは外へ出た。


通りは蒸気と煤の吐息で迎えた。

正午の霧の中、ガス灯が疲れた蛍みたいにちかちかと瞬く。


遠くで列車の音が鳴り、

それがヴェルヒラの正確な脈を刻んだ。


チク。タク。


そして俺たちは二人――

またしても、リズムの外側にいた。

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ヴェルヒラ物語 時計がカチリと鳴るまで ジェーシー・ベガ @Jcvega

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