終:訣別、或いは結蔑。

 天気は変わらず雨であった。激雨と数時間の晴れ間を繰り返す日々に、誰もが明かりを消し忘れたまま、大事な事を忘れていた。

 そして玖島の予言通り、荒垣は店を訪れた。荒垣は佐伯の前に腰を下ろすと、灰皿を求める事も無く、ただ一言、冷徹な宣告を口にした。


「荒垣さん……」

「ちょいと釘を刺しにな。」


 佐伯は写本を閉じずにカウンター越しの荒垣を見据えていた。変わらず飄々とした雰囲気を漂わせているが、其の貌には喫茶店で見せた蜘蛛の如く狡猾で深い笑みが浮かんでいる。


「相変わらず、此処は埃と古臭い歴史の匂いが染み付いてんな。」

「……本題をお願いします。貴方は……全てを知ってるんでしょう?」


 佐伯の声は、湿り気を帯びた空気の中で鋭く響いた。荒垣は視線を逸らさず、指先でカウンターの卓を叩く。


「俺が大学で専攻してた事は覚えてるか?」

「さあ……もう二十年も前の事ですし、色々と手広く学んでいたとしか。」

「だろうな。神学、美術史、民俗学……まあ外殻を幾ら並べても本質には届かねぇ。」


 荒垣は懐からライターを取り出し、火を点けずに指先で弄ぶ。佐伯には何故か其れがあやとりの様にも見えた。指の間を踊る銀色の塊の先には糸を引く奏者、やはり蜘蛛のイメージを佐伯に強く連想させていた。


「佐伯、お前はエレナ・ブラヴァツキーを知ってるか?」

「近代オカルトの母ですよね……人によっては『SF作家の一人』なんて捻くれた呼び方をする人も居ますが。」

「其れウチの教授じゃねぇか。懐かしいな。」


 荒垣は遠い目をし、大学時代の輪郭をなぞる様に言葉を継いでいく。しかし、其の言い方には熱が無い。


――あの偏屈なジジィの教えにも、幾つか真実が混じっていた。宇宙人やら古代人やらは『実在』する。


 荒垣の瞳が、無機質な写本の記号へと注がれる。そして写本を指すと、「。」と短く吐き捨てた。


「……今年の瀬戸内海、其処が『第六根源人種』の発芽の地と成る事を、俺のは随分前から掴んでいたのさ。」


 佐伯は背筋に氷を這わされた様な戦慄を覚えた。光に包まれた記憶が発端と成り、悲鳴や衝突、救出、そして以降の苦難。決まっていた流れに自分は乗せられたに過ぎないと知った虚無感は、佐伯の精神を古紙の如く、容易く、無残に引き千切っていった。


「……荒垣さん。貴方は其れを知っていた上で、俺をしらぬい号に乗せたんですか?」

「何も言わずに二十年来の縁を切るのはフェアじゃねぇと思っただけさ。其れにお前は昔から目付きが鋭かった。遅かれ早かれ、此方の理屈に辿り着いた筈だ。」


 佐伯は拳を握りながら立ち上がる。カウンターが境界線と成って、先輩後輩という友人関係を決定的に分断していた。


「お前は古物商のままで在れ。其の写本を読み解き、真実を広め様などとは思うな。」

「……其れだけなんですか?」

「言ったろ?だけだって。もう逢う事も無いだろうさ。」


 荒垣は音も立てずに腕を伸ばすと、佐伯に背を向けて店を去ろうとしていた。其の背から雨に冷えた物ではない強烈な死の冷気が漂い、佐伯は思わず呼吸を忘れた。


「……荒垣さん!!」


 佐伯の呼び掛けに、荒垣は「達者でな、佐伯。」と激を付ける様に返したが、激しく叩きつける雨音に搔き消され届く事はなかった。

 そして荒垣の姿は土砂降りの向こう側へ、重苦しい暗黒くらやみと一体化する様に消えていった。


 数時間が経った後。佐伯は窓を叩く音が止んでいる事に気付く。雨が止んだのだ。

 だが、空を見上げても陽光は微塵も射さない。雲は依然として黒く、重く、世界の蓋と成ったまま停滞している。


「……俺の派閥、という事は組織なのか?なら荒垣さんの役割は……交渉人、或いは掃除人か……」


 佐伯は、去って行った男の背に感じた死の冷気を思い出し、身震いした。恐らく大学時代から裏側の世界と繋がっていたのだろう。自分は再び生かされただけに過ぎない。


「……神話は他人に分かり易く起こった事象を伝える為の手段の一つ……」


 佐伯は力無く笑うと、静かに写本を閉じる。最初は未知へと挑む娯楽の延長のつもりだった。

 今や自身の生命を左右する劇薬へと成り果てた其れを、手放すという選択肢は佐伯には無かった。写本に刻まれた価値観を棄てる事は、佐伯には出来なかったのだ。


「寝る時間……間違えたな……」


 佐伯の何もかも忘れて眠ってしまいたいという欲求を否定するのは、虚無感でも喪失感でもない。単に充分な睡眠時間を維持出来ているというだけの極めて人間らしい生理的な覚醒であった。



********



 高松の港を見下ろす高台。 其処には独り佇む荒垣の姿が在った。濡れたコートの襟を立て、火を点けていない煙草を咥えたまま、眼下の海を凝視している。


「あの男、消さないので――」


 背後に現れたのは首が無い頭部と肩が一体化した異形の人型。赤き肉体に白い皮膜が絡み付いている。否、付いていた。

 荒垣が指先のライターを一度弾いた瞬間、目に見えぬ『糸』が異形と水滴を裁断した。


「言葉には、気を付けろ蛞蝓野郎。俺はまた一つ、表の繋がりが消えちまった所なんだよ。」


 切り刻まれた肉塊が音も無く地面に散る。荒垣は表情を一切変えず、残骸を紫煙で包み処理した。


「見せてもらおうか。此の灰色の世界がどう塗り替わるのかをな。」


 荒垣は見えぬ夜空を仰ぐ。雨は止んだが、星光は届かない。海面は静かに、だが粘り気を持って盛り上がり、新たな神話の形を象り始めていた。

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ハイ色のPrologue 蒼花河馬寸 @tatibanayuuki

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