急:種が芽吹くか腐るまで。
救助から一週間、既に佐伯は普段と変わらぬ古物商の仕事を勤しんでいた。買い取り品を丁寧に磨き、陳列棚に戻していく。窓の外では、未だに断続的な雨が降り続いている。
佐伯は拭いていた陶器を棚に戻すと、カウンターに置かれたあの写本へと視線を移す。頁を捲ると、佐伯は眉を潜めつつも、其の不気味な文字列を読み上げた
「……曰く、南方の極地には文明が遺っている。此の星の先住民たる者達は復興を夢見て……」
メディアにて『しらぬい号の奇跡』と呼ばれたあの事故以降、佐伯は確かに、此の不可思議な言語を『理解』していた。遥か古代、此の言葉を用いていた『何か』達が積み上げてきたであろう、長い歴史、哲学、倫理観、社会秩序、そして恐らくは其の全てを網羅する概念の奔流を、肉体が正しく解釈していた。
「……日を追う毎に読めてしまうな。」
最早、母国語と言っても過言では無い程に、佐伯には第二の価値観が形成されつつあった。
其の日、最初の来客は午後の静寂と共に訪れた雨音に混じって、玄関のドアベルが鳴り響く。
入って来たのは、佐伯にとって見覚えの有る顔だった。
「……君は。」
「覚えてますよね。フェリーで……」
佐伯の問いに、少女は応えると、一歩前へと踏み出す。事件の際に、震えていた女子学生の一人、少女は
「見ていてください。」
神月が静かに告げると同時に、店内の空気が一変した。埃の舞う床板から僅かに靴底が離れていく。浮遊は一瞬であり、高さも数センチに過ぎなかった。
だが、異能としか表現出来ぬ其れは、既存の物理法則に対する明白な反逆であった。
「理由は、分かりません。でも……あの時から、世界が軽く成ってしまったんです。」
陽炎の如く揺らめく空気の中で、神月の瞳はあの日の無邪気さとは異なり、危うい程に透き通っていた。
「あの子はどうなんだ?一緒に居た、君の友人は。」
「……声が、聞こえる様に成ったって。壁の向こうやずっと遠くの人の心が、濁流みたいに流れ込んで来るって言って、泣いていました……」
佐伯は少女達に強く同情した。多感な時期に特異な力を強制的に付与された恐怖。冷静さを砂山の如く脆い物へと変えてしまうと佐伯に思わせていた。
数日後、今度はあの老夫妻が訪れた。登山帽を脱いだ老人の顔には、生還を分かち合う喜びよりも、手に負えぬ力を授かってしまった者の当惑が深く刻まれていた。
「奇妙な病に罹ってしまったよ。」
夫婦は皺の刻まれた掌を重ね合わせた。瞬間、白く淡い波紋が空気を震わせていく。風でも光でもない。だが、確かに力と呼ぶ他ない何かが、店内を満たした。
「……普通では無いらしい。我々は、あの船で死ぬべきだったのかもしれん。」
老人の言葉は、懺悔の様でもあり、或いは福音を告げる宣言の様でもあった。
「生き残ったのではなく、生かされているだけに過ぎない、と?」
佐伯は自嘲気味に問い返した。自身の手元に在る写本と、其れを理解出来てしまう異常。そして、自分を訪ねてくる生存者達が一様に、人間という種の殻を内側から食い破り始めているという事実。此れは進化などという生易しい物ではない。
更に数日後。海難事故の際、怒号を上げていた若い船員が現れた。男は
「俺は……視てしまうんです。幾つもの未来が、張り付いて、離れないんだ……」
玖島は店先を通る車の車種や、次に鳴る電話の相手を病的な正確さで予言してみせた。だが、玖島の目の下には深い隈を刻まれ、確実に睡眠時間を削り取られている様子であった。
視たくもない可能性の奔流に晒され続ける苦痛。其れは祝福などではなく、一種の呪いと呼ぶべき変質であった。
「あの光の中で、俺達は何かを植え付けられた。そう思いませんか?」
「……否定は出来ない。だが、我々に起きたのは『拡張』だ、と。そう考えれば、少しは楽に成れるかもしれない。」
佐伯の言葉に、玖島は力なく首を振った。そして去り際、思い出した様に付け加えた。
「……余計な御世話かもしれませんが、荒垣という男が此の店に来ます。『必ず』です。」
――其れが貴方と荒垣という男、最後の会話に成ります。俺には、そう視えました。
玖島が雨の中に消えた後、佐伯は独り、確信していた。あの海難事故は、単なる不幸な遭遇ではない。其れは『超人』或いは『新人類種』と呼ばれる者達を日本で誕生させる為の一つの干渉だったのだと。
――自分達五八人は最初の『受粉』に過ぎないのではないか。
佐伯は、写本を閉じると、窓の外を見遣った。雨足は一段と強まり、視界の先にある瀬戸内の海は、不自然な程に盛り上がっている。
「……此の国だけじゃないのか?」
突如として、佐伯の脳裏に一つの考えが過る。一ヶ所だけな筈が無いと、怪獣特異点という激動の時代と共に育った佐伯の直観が警鐘を鳴らしていた。世界中で同じ様な奇跡という名の変異が、同時多発的に発生しているのではないか。
佐伯は、無意識の内に写本を開いていた。
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