第4話 三日間だけの約束
手術の日の朝、僕は学校を休んだ。
休む理由は「少し体調が悪いから」で通したけれど、悪かったのは体じゃなくて、胸のあたりだった。七時を過ぎても教科書を開く気になれず、リビングの時計の秒針ばかりを目で追っていた。
十時。手術が始まると聞いていた時間を少し過ぎたころ、家にいても何もできないことに耐えられなくなって、ジャケットを掴んで家を出た。
電車を乗り継いで、病院の最寄り駅まで行く。改札を出たところで立ち止まり、その先には進まなかった。
階段を上がった先に、白い建物の輪郭が見える。冬の曇り空の下で、やけに眩しく浮かび上がっている。
この先に行ったところで、顔を合わせられるわけじゃない。面会だってできない。それでも、同じ空気を吸っていたかった。
ベンチに腰を下ろし、ポケットの中でスマホを握りしめる。画面は何度見ても変わらないのに、気づけば数分おきにスリープを解除していた。
――ちゃんと、終わりますように。
終わらせたくないと願っているくせに、そう祈る自分が少し矛盾している気がして、苦笑する。
彼女が望んだ「三日間の終わり」が、どうか彼女自身を守る形で訪れますように。
◇
夕方。薄暗くなり始めた空の下で、スマホが震えた。
表示された文字を見た瞬間、息が止まる。
『春宮澪の母』
指先が汗ばむ。呼吸を一度整えてから、通話ボタンを押した。
「もしもし、片瀬くん?」
澪に少し似た、柔らかい声だった。
「手術、無事に終わりました。いまはまだ眠っています」
「……よかったです」
喉の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。ベンチの背もたれに、力が抜けるようにもたれた。
「先生のお話では、しばらくは様子を見ながら、少しずつ確認していきましょう、とのことでした」
「そう、ですか」
「でもね」
受話器の向こうで、ふっと息を吐く気配がした。
「眠りかけのときに、一度だけ、あなたの名前を呼んだんです」
「……僕の、ですか」
「ええ。小さな声でしたけれど、たしかに“片瀬くん”って」
胸の奥で、静かに火が灯るような感覚がした。
三日間しか一緒にいなかった相手の名前を、麻酔の中で呼ぶくらいには、ちゃんと届いていたのだと分かる。
「三日間、澪と一緒にいてくれて、ありがとうございました」
「いえ……こちらこそ、です」
本当はもっと何か言うべきなのかもしれない。それでも、出てくる言葉はシンプルな感謝だけだった。
通話が切れたあともしばらく、僕はスマホを耳に当てたまま、動けなかった。
忘れるかもしれないと言っていた人が、眠りながら僕の名前を呼んだ。
三日間分の記憶が、どこかでまだ息をしている気がした。
◇
数日後。放課後の病院の中庭は、思ったより静かだった。冬の陽射しは弱く、ベンチの金属はまだ冷たい。
案内された先にある一本の木のそばに、人影がひとつ。
制服姿で、髪が少し短くなった春宮澪が、コートの前を合わせるようにして座っていた。
声をかける前に、彼女のほうから顔を上げる。
「片瀬くん」
名前を呼ばれる。前と同じイントネーションで。
「……覚えてたんだ」
思わず、それが最初の言葉になった。
「全部じゃないかもしれないけどね」
澪は、少し照れたように笑う。
「でも、ココアが好きだったことと、雨の日に傘を半分こしたことと、“三日間”って言葉は、ちゃんと残ってた」
「十分だよ」
「また、それ言うんだ」
病院の中庭には、自販機が一台だけ置いてある。澪が立ち上がり、いつもの癖みたいに振り返った。
「ココアでいい?」
「うん」
ボタンを押す指先が、ほんの少しだけ震えているように見えたのは、気のせいだろうか。
紙コップを受け取り、ベンチに並んで座る。湯気が白く立ち上り、冷えた指先が少しずつほぐれていく。
「ねえ、片瀬くん」
澪が、紙コップを見つめたまま言った。
「手術のこと、少しだけ聞いた?」
「お母さんから、無事に終わったって」
「そっか」
澪は小さくうなずく。
「ちゃんと全部覚えてるわけじゃないの。ところどころ、霧みたいに薄いところがある感じで」
言葉を探しながら続ける。
「でも、怖がってたことだけは、なんとなく分かるんだ。“私、変わっちゃうかもしれないんだ”って」
その「私」を、いま目の前にいる彼女が、少し距離を置いて見つめているように聞こえた。
「だからね」
澪は、ゆっくりとこちらを向く。
「一つだけ、確かめたいことがあるの」
「確かめたいこと?」
「うん」
深呼吸をしてから、言葉を選ぶように、はっきりと言った。
「付き合ってください。三日間だけ」
同じ台詞なのに、前よりずっと震えて聞こえた。
最初に教室で言われたときよりも、声の芯が柔らかい。迷って、それでも選ぼうとしている人の声だった。
「また、三日間?」
「うん。今度の三日間は、“手術のあと”の私が選ぶ三日間にしたいの」
澪は、少し笑う。
「前の三日間に救われたのは、本当だから。だから、その続きを、ちゃんと自分の意思でお願いしたいなって」
なるほど、と胸の奥で何かが腑に落ちる。
あの日の三日間は、「終わり」に備えるための時間だった。なら、これからの三日間は、「続ける」ための時間だ。
僕は、笑ってうなずいた。
「喜んで。……また三日間から、始めよう」
「また、って言い方、ずるいね」
澪の目尻に、にじんだ光が見えた。今度は、それが涙だとすぐに分かる。
「終わらせたいって言ってたの、誰だろうね」
「知らないな」
わざとらしく肩をすくめると、澪がくすっと笑う。
空は雲に覆われているのに、胸の奥では、雨上がりみたいな匂いがした。
三日間で終わるはずだった恋は、たぶん、もう終わらない。
期限を決めても、心は言うことをきいてくれない。
――三日間だけの約束から始まった僕たちの時間は、これからも少しずつ形を変えながら、静かに続いていくのだと思う。
付き合ってください。三日間だけ。 桃神かぐら @Kaguramomokami
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