第4話 三日間だけの約束

 手術の日の朝、僕は学校を休んだ。


 休む理由は「少し体調が悪いから」で通したけれど、悪かったのは体じゃなくて、胸のあたりだった。七時を過ぎても教科書を開く気になれず、リビングの時計の秒針ばかりを目で追っていた。


 十時。手術が始まると聞いていた時間を少し過ぎたころ、家にいても何もできないことに耐えられなくなって、ジャケットを掴んで家を出た。


 電車を乗り継いで、病院の最寄り駅まで行く。改札を出たところで立ち止まり、その先には進まなかった。


 階段を上がった先に、白い建物の輪郭が見える。冬の曇り空の下で、やけに眩しく浮かび上がっている。


 この先に行ったところで、顔を合わせられるわけじゃない。面会だってできない。それでも、同じ空気を吸っていたかった。


 ベンチに腰を下ろし、ポケットの中でスマホを握りしめる。画面は何度見ても変わらないのに、気づけば数分おきにスリープを解除していた。


 ――ちゃんと、終わりますように。


 終わらせたくないと願っているくせに、そう祈る自分が少し矛盾している気がして、苦笑する。


 彼女が望んだ「三日間の終わり」が、どうか彼女自身を守る形で訪れますように。



 夕方。薄暗くなり始めた空の下で、スマホが震えた。


 表示された文字を見た瞬間、息が止まる。


 『春宮澪の母』


 指先が汗ばむ。呼吸を一度整えてから、通話ボタンを押した。


「もしもし、片瀬くん?」


 澪に少し似た、柔らかい声だった。


「手術、無事に終わりました。いまはまだ眠っています」


「……よかったです」


 喉の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。ベンチの背もたれに、力が抜けるようにもたれた。


「先生のお話では、しばらくは様子を見ながら、少しずつ確認していきましょう、とのことでした」


「そう、ですか」


「でもね」


 受話器の向こうで、ふっと息を吐く気配がした。


「眠りかけのときに、一度だけ、あなたの名前を呼んだんです」


「……僕の、ですか」


「ええ。小さな声でしたけれど、たしかに“片瀬くん”って」


 胸の奥で、静かに火が灯るような感覚がした。


 三日間しか一緒にいなかった相手の名前を、麻酔の中で呼ぶくらいには、ちゃんと届いていたのだと分かる。


「三日間、澪と一緒にいてくれて、ありがとうございました」


「いえ……こちらこそ、です」


 本当はもっと何か言うべきなのかもしれない。それでも、出てくる言葉はシンプルな感謝だけだった。


 通話が切れたあともしばらく、僕はスマホを耳に当てたまま、動けなかった。


 忘れるかもしれないと言っていた人が、眠りながら僕の名前を呼んだ。


 三日間分の記憶が、どこかでまだ息をしている気がした。



 数日後。放課後の病院の中庭は、思ったより静かだった。冬の陽射しは弱く、ベンチの金属はまだ冷たい。


 案内された先にある一本の木のそばに、人影がひとつ。


 制服姿で、髪が少し短くなった春宮澪が、コートの前を合わせるようにして座っていた。


 声をかける前に、彼女のほうから顔を上げる。


「片瀬くん」


 名前を呼ばれる。前と同じイントネーションで。


「……覚えてたんだ」


 思わず、それが最初の言葉になった。


「全部じゃないかもしれないけどね」


 澪は、少し照れたように笑う。


「でも、ココアが好きだったことと、雨の日に傘を半分こしたことと、“三日間”って言葉は、ちゃんと残ってた」


「十分だよ」


「また、それ言うんだ」


 病院の中庭には、自販機が一台だけ置いてある。澪が立ち上がり、いつもの癖みたいに振り返った。


「ココアでいい?」


「うん」


 ボタンを押す指先が、ほんの少しだけ震えているように見えたのは、気のせいだろうか。


 紙コップを受け取り、ベンチに並んで座る。湯気が白く立ち上り、冷えた指先が少しずつほぐれていく。


「ねえ、片瀬くん」


 澪が、紙コップを見つめたまま言った。


「手術のこと、少しだけ聞いた?」


「お母さんから、無事に終わったって」


「そっか」


 澪は小さくうなずく。


「ちゃんと全部覚えてるわけじゃないの。ところどころ、霧みたいに薄いところがある感じで」


 言葉を探しながら続ける。


「でも、怖がってたことだけは、なんとなく分かるんだ。“私、変わっちゃうかもしれないんだ”って」


 その「私」を、いま目の前にいる彼女が、少し距離を置いて見つめているように聞こえた。


「だからね」


 澪は、ゆっくりとこちらを向く。


「一つだけ、確かめたいことがあるの」


「確かめたいこと?」


「うん」


 深呼吸をしてから、言葉を選ぶように、はっきりと言った。


「付き合ってください。三日間だけ」


 同じ台詞なのに、前よりずっと震えて聞こえた。


 最初に教室で言われたときよりも、声の芯が柔らかい。迷って、それでも選ぼうとしている人の声だった。


「また、三日間?」


「うん。今度の三日間は、“手術のあと”の私が選ぶ三日間にしたいの」


 澪は、少し笑う。


「前の三日間に救われたのは、本当だから。だから、その続きを、ちゃんと自分の意思でお願いしたいなって」


 なるほど、と胸の奥で何かが腑に落ちる。


 あの日の三日間は、「終わり」に備えるための時間だった。なら、これからの三日間は、「続ける」ための時間だ。


 僕は、笑ってうなずいた。


「喜んで。……また三日間から、始めよう」


「また、って言い方、ずるいね」


 澪の目尻に、にじんだ光が見えた。今度は、それが涙だとすぐに分かる。


「終わらせたいって言ってたの、誰だろうね」


「知らないな」


 わざとらしく肩をすくめると、澪がくすっと笑う。


 空は雲に覆われているのに、胸の奥では、雨上がりみたいな匂いがした。


 三日間で終わるはずだった恋は、たぶん、もう終わらない。


 期限を決めても、心は言うことをきいてくれない。


 ――三日間だけの約束から始まった僕たちの時間は、これからも少しずつ形を変えながら、静かに続いていくのだと思う。

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付き合ってください。三日間だけ。 桃神かぐら @Kaguramomokami

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