第3話 三日間だけの勇気
三日目の放課後は、最初から雨上がりだった。
昼まで降っていた細かい雨は、六時間目が終わるころには止んで、窓ガラスに残った水滴だけが、遅れて光っている。
チャイムが鳴る少し前から、心臓だけが落ち着かなかった。
「片瀬くん」
ホームルームが終わると同時に、春宮が立ち上がる。声は昨日と同じなのに、歩幅は少し小さく見えた。
「今日も、いい?」
「うん。もちろん」
言いながら、喉の奥が重くなる。三日目、という言葉が、頭のどこかでずっと点滅していた。
昇降口を抜けると、雨はもう上がっていた。アスファルトには水たまりが残っていて、夕焼けをにじませている。
「今日は、駅までまっすぐ行ってもいい?」
春宮が、少し真面目な声で言う。
「いいよ」
「ありがとう」
コンビニも、公園も、そのまま通り過ぎた。駅前の自販機の前だけで足を止める。
「ココアでもいい?」
「うん」
落ちてきた紙コップを受け取る。指先がじんわり温まる。
「三日連続ココアって、飽きるかな」
「飽きたら、また別のにすればいいよ」
「……“また”があるならね」
小さく笑った、その言い方が少しだけ苦く響いた。
◇
ホームの端のベンチに並んで座る。向こうのビルの窓が、オレンジから青へゆっくり色を変えていく。
接近表示板が「あと十分」と告げたころ、春宮が湯気を見つめたまま口を開いた。
「そろそろ、聞きたいこと、あるでしょ」
「……あるよ」
飲み込んできた質問が、やっと形になる。
「どうして三日間だけなのか。どうして僕なのか。どうして、そんなに“終わり”を気にするのか」
自分で数えてみて、思ったより多いと気づいた。
春宮は、小さくうなずく。
「『必要なときまで待ってほしい』って言ったよね。たぶん、今日がその“必要なとき”」
そこで、一度だけ深く息を吸った。
「明日、手術を受けるの」
言葉は、驚くほど静かに耳に落ちた。
「……手術?」
「うん。脳みその、ちょっと厄介なところ」
春宮は自分のこめかみを、指先でとん、と叩く。
「ちゃんと手術すれば、助かる可能性のほうが高いって。だから“死んじゃうかも”って意味じゃないんだよ。ただ──」
視線が、紙コップの表面に落ちる。
「うまくいっても、“今日までの私”でいられるかどうかは分からないんだって。性格が変わるかもしれないし、記憶が少し抜けるかもしれないし。何も変わらないかもしれないけど」
落ち着いた声なのに、その奥にある怖さだけは隠しきれていなかった。
「その“かもしれない”が、一番怖かった」
僕はココアを握る手に力を込める。温度はさっきと同じなのに、指先だけが急に冷えたように感じた。
「それで……三日間?」
「うん」
春宮は、少しだけ笑う。
「“今日までの私”として、ちゃんと恋してみたかったんだ。放課後に寄り道して、ココア飲んで、一緒に傘に入って……そういうのを、“好きな人とやった”って言えるように」
胸の奥がきゅっと鳴る。
「……僕で、よかったの?」
結局、出てきたのはそれだけだった。
春宮は、ほんの少し目を丸くしてから、くすっと笑う。
「片瀬くんじゃなきゃ、困るよ」
「なんで」
「ちゃんと驚いてくれるし、ちゃんと迷ってくれるし。ちゃんと、私のこと考えてくれそうだから」
それから、少しだけ俯いた。
「私、わがままだから。“覚えててほしい”って思っちゃうんだ」
「覚えてて、って?」
「もし、私のほうが忘れちゃっても。今の私が何を怖がってて、何を大事にしてて、三日間で何を選んだのか」
顔を上げた春宮の目には、涙の代わりに、強くて小さく震える光があった。
「誰か一人くらいは、ちゃんと覚えていてほしいなって。勝手だけどね」
そんなの、とてもずるいお願いだと思う。けれど、それを「ずるい」と責めたい気持ちは、一ミリもなかった。
「だから、恨まないでほしいって言ったんだ。三日間が終わったあと、私のほうが先に“終わり”を選ぶことになるかもしれないから」
終わりは、事情じゃなくて、怖さの形として彼女の中にあった。
それでも。
「……三日間で、よかったよ」
言葉は、すぐに出た。
「三日間で、好きになるには十分すぎるくらいだよ」
春宮の目が、少しだけ見開かれる。
「……それ、ずるいね」
「かも」
自分でもそう思う。でも、嘘をつくほうがずるい。
「春宮が忘れても、僕が覚えてる。それじゃ、ダメ?」
今度は、まっすぐにそう言った。
春宮は、しばらく黙っていた。ホームに風が吹き込んできて、ベンチの下の水たまりが揺れる。
「……助かるなあ、そういうの」
ようやくこぼれた声は、泣いているみたいで、笑っているみたいだった。
「ねえ、片瀬くん」
「うん」
「明日、手術が終わったら……母が、たぶん連絡すると思う。“終わったよ”って。それだけかもしれないけど」
そこで、ふっと笑う。
「連絡、受け取ってあげて」
「もちろん」
短く答える。その一言の中に、「何度でも」という言葉を丸ごと押し込んだ。
接近表示板の数字がゼロに変わる。次の電車までの時間が、空白みたいに広がる。
「そろそろ、帰らなきゃね」
春宮が立ち上がり、紙コップをゴミ箱に捨てる。それから、もう一度だけ振り返った。
「三日間だけの彼氏でいてくれて、ありがとう」
「まだ、三日目の途中だけど」
「そうだね」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「じゃあ、最後まで、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
改札の向こうへと消えていく後ろ姿を、見えなくなるまで目で追いかける。
胸の奥で鳴っているざわめきに、僕はやっと名前をつけた。
これはきっと、恋だ。
怖さと一緒に手渡された、それでも大事に抱えていたい三日間分の勇気だった。
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