第2話 三日間だけの恋ごっこ
二日目の放課後も、チャイムが鳴る前から、心臓だけが先に帰り支度を始めていた。
授業の内容は、ほとんど入ってこない。黒板を写すふりをしながら、視線は勝手に斜め前――春宮の後ろ姿を追いかける。
姿勢は相変わらずきれいで、ノートの端には付箋がいくつも並んでいる。ペン先が、たまに小さく震える。そのたびに、僕は慌てて自分のノートに目を落とした。
チャイムが鳴る。先生が教室を出ていき、ざわめきが広がる。
「片瀬くん」
横から、小さな気配が寄ってきた。
昨日と同じ声。ほとんど同じ高さ。
「今日も……いい?」
「もちろん」
今度は、迷わず答えられた。それが少しおかしくて、笑いそうになる。
二人で教室を出る。廊下を歩く足音が、自然とそろっているのが分かって、妙にくすぐったい。
「ねえ、今日も寄り道していい?」
「コンビニ?」
「ううん。今日は、公園」
通学路から一本入ったところに、小さな公園がある。いつもは通り過ぎるだけの場所だ。
ベンチに座ると、金属の冷たさが制服越しに伝わってくる。春宮が紙コップを差し出した。
「今日も、ココアでいい?」
「全然」
昨日と同じ甘い匂いが、鼻の奥にひろがる。
「本当はさ、こういうのって“彼氏”が買うのかもしれないけど」
春宮が、カップのふちを指でなぞりながら笑う。
「三日間だけだし、私のわがままで始めたことだから。最初くらいは自分でって思って」
「じゃあ、二日目からは僕の番だね」
「ふふ。じゃあ、明日はお願いしようかな」
「明日」という言葉が、やけに耳に残る。
三日しかないはずなのに、その一つをこうして約束できるのが、不思議なくらい嬉しかった。
「こうやってさ」
春宮が空を見上げる。
「放課後に寄り道して、温かいの飲んで、どうでもいい話をするの、ずっとやってみたかったんだ」
「ずっと?」
「うん。なんか、漫画とかドラマみたいでしょ」
そう言って、春宮はこちらを向く。
「片瀬くんは? こういうの、したことある?」
「ないよ」
即答だった。考えるまでもない。
「そもそも放課後に誰かと寄り道するって経験自体、ほぼ初めてかも」
「じゃあ、同じ初心者だね」
春宮が、少し嬉しそうに微笑む。その横顔を見て、胸の奥がじわりと温かくなった。
「……三日間って、短いかな」
ココアのふたを指先でつつきながら、春宮がぽつりと言う。
「どうだろ。何と比べるかにもよるけど」
「恋と比べたら?」
唐突な単語に、手が止まる。
「恋って、もっと長いものな気がするから」
春宮は、笑っているような、笑っていないような表情で続けた。
「三日間で、好きになったりするのかな」
「……するんじゃない?」
自分でも、どうしてそう言ったのか分からない。ただ、その瞬間、嘘はつけないと思った。
「三日あれば、たぶん十分だよ。少なくとも、好きになり始めるには」
春宮は、少し目を丸くして僕を見てから、視線をそらして小さく笑う。
「片瀬くんって、意外とロマンチストなんだね」
「今のどこにロマンあった?」
「“十分だよ”ってところ」
彼女はココアを一口飲んで、小さくうなずいた。
「……そっか。十分、か」
その一言は、自分に言い聞かせているみたいだった。
◇
そのあと、二人で図書室へ行った。期末も近いし、勉強しない言い訳もない。
暖房のきいた静かな空間で、春宮が赤ペンを持つ。
「ここ、図形を式に変えると楽だよ。ほら」
「あー……なるほど」
「やっぱり、理解は早いんだよね。“苦手だ”って思ってるだけだよ」
「春宮は?」
「私は、“できないと困るから”やってるだけ」
その言い方が、春宮らしいと思った。
図書室を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。自動ドアを抜けると、冷たい風と一緒に、細かい雨粒が頬に当たる。
「あ、降ってきたね」
春宮が空を見上げる。街灯の光に、雨が白く浮かび上がる。
「傘、ある?」
「一応」
折りたたみ傘を開く。思ったより幅が狭くて、二人で入ると自然と肩が触れ合った。
「ごめん、ちょっと狭いね」
「ううん。あったかい」
その一言で、心臓の音がまた早くなる。
雨音と水たまりを踏む靴音、二人分の呼吸。傘の内側だけが、小さな部屋みたいだった。
「ねえ」
しばらく歩いたところで、春宮が小さな声で言う。
「三日間ってさ、本当に十分かな」
「昨日の“十分”が、まだ引っかかってる?」
「うん。だって、あの言葉、ちょっとずるいよ」
「ずるい?」
「“好きになれるには十分だよ”って言われたら、好きにならないわけにいかないじゃない」
冗談っぽい口調なのに、目は真剣だ。
「……もう、なってるんじゃないの?」
自分の声が、傘の内側で小さく跳ね返る。
春宮は、少し黙ってから、ぽつりと言った。
「そうだね。たぶん、ね」
顔は見えない。傘の影に隠れている。
「好きって、言葉にすると消えちゃいそうだから、あんまり言いたくないんだけど」
「言わなくても、伝わると思うけど」
「でも、気づいてるでしょ?」
そう言われて、返事に詰まる。
気づいている自分と、気づきたくない自分が、喉のあたりで絡まる。
「……どうだろ」
やっと絞り出したのは、それだけだった。
春宮は、それ以上何も言わない。ただ、傘の下で少し笑ったような気配がした。
駅に着くころには、雨は少し弱まっていた。階段の前で足を止める。
「今日も、ありがとう」
春宮が、傘から半歩だけ外に出ながら言う。
「また、明日も。三日間の……二日目」
「うん。また明日」
改札の向こうに消えていく後ろ姿を見送りながら、僕はようやく、自分の胸のざわめきに名前をつける。
これはきっと、好きになり始める音だ。
雨粒がアスファルトに落ちる音よりも、ずっと大きく響いていた。
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