付き合ってください。三日間だけ。

桃神かぐら

第1話 三日間だけのお願い

 放課後のチャイムが鳴り終わって、教室から人の気配がほとんど消えても、僕は席に座ったままだった。

黒板ではクラス委員が連絡を書き終え、窓の外は夜に沈みかけた冬のオレンジ色だった。


 ノートを閉じてカバンにしまい、椅子を引く。いつも通りの動作。いつも通りに帰るはずだった。


「片瀬くん」


 名前を呼ばれて、僕は振り返った。


 教室の後ろ側。窓際の席のそばに、春宮澪が立っていた。成績優秀で先生からの信頼も厚く、休み時間は本を読んでいる――いわゆる「しっかりしてる子」。


 その春宮が、教卓から少し離れたところで、ぎこちない笑顔を浮かべていた。


「少しだけ、時間いい?」


「あ、うん。別に急いでないけど」


 そう答えながら、自分でも驚くほど心臓の音が大きくなるのが分かった。春宮とまともに話したのは、数えるほどしかない。


 ノートを片付けるふりをしながら、彼女のほうへ歩いていく。周りにはもう、数人しか残っていなかった。誰も僕らを気にしていないはずなのに、妙に静かだ。


 春宮は、窓の外を一瞬だけ見てから、僕のほうに向き直った。


「えっとね」


 小さく息を吸い込む音が聞こえた。


「付き合ってください」


 そこで一度、言葉が止まる。


 時間が少しだけ、伸びたような気がした。


「……三日間だけ」


「……え?」


 聞き間違いじゃないかと、本気で思った。


 三日間? 付き合う? 誰と誰が? 単語だけが頭の中をぐるぐる回る。


「冗談?」


 とりあえず、一番無難そうな言葉を口に出す。春宮は、ゆっくりと首を横に振った。


「冗談なら、もうちょっと笑ってると思う」


 たしかに、彼女の表情は真剣だった。緊張しているのか、少しだけ頬が赤い。


「三日間だけでいいの。今日を入れて、三日間。放課後、一緒に帰って、少しだけ話をしてほしい」


「……それって、その……彼氏、みたいなやつ?」


「うん。“みたいなやつ”でいい」


 はっきり「彼氏」と言わないあたりが、春宮らしいと思った。変に現実感が出すぎないように、彼女なりにブレーキをかけているのかもしれない。


「ただ、条件があるの」


 春宮は、指を一本ずつ折りながら言う。


「一つ。手は繋がないこと」


「え?」


「二つ。写真は撮らないこと。自撮りも、他撮りも」


「ああ……」


「三つ。周りには言わないこと。“付き合ってる”って言葉は、誰にも使わないで」


 そこまで言って、最後の一本の指を残したまま、春宮は少しだけ黙り込んだ。


 教室の時計の秒針が、やけに大きな音で進んでいく。


「四つ目は?」


 僕が促すと、彼女はゆっくりと指を折った。


「質問は、必要なときまで待ってほしい。『どうして三日間だけなの?』って聞いてもいいけど、それに答えられるようになるまで……少しだけ時間がほしい」


 つまり、いまは聞くな、ということだ。


 分からないことだらけだった。なぜ僕なのか。なぜ三日間なのか。なぜこんなに条件が多いのか。


 でも、不思議と「嫌だ」という感情は浮かんでこなかった。


 むしろ胸の奥で、何か小さなものが灯る音がした気がした。


「……断ってもいいの?」


 一応、確認するように聞いてみる。春宮は、即答はしなかった。ほんの少しだけ、言葉を選ぶ時間を置いてから、口を開く。


「いいよ。片瀬くんの時間をもらうんだから。断る権利は、ちゃんとあるよ」


 その言い方が、逆にずるいと思った。


 断っても、断らなくても、きっと後悔する。


 どっちにしてもきっと、何かが変わってしまう予感がした。


「……三日間だけ、って本当にそれだけ?」


「うん。三日間が終わったら、それまで」


 春宮は、はっきりとそう言ったあとで、少しだけ視線を落とした。


「期限があるほうが、優しくできる気がして」


「優しく、できる?」


「うん。いつか終わるって分かってるほうが、ちゃんと大事にできる、みたいな」


 その言葉は、どこか遠くを見ているように聞こえた。僕に向けられているようで、誰か別の人に向けているようでもある。


 何に対する優しさなのか。誰に向けた言葉なのか。


 聞きたかったけれど、彼女の「質問は待ってほしい」という条件が頭に残っていて、喉の奥で言葉が引っかかった。


「……分かった」


 気付いたら、そう答えていた。


「今日から三日間だけ。放課後、一緒に帰る」


「ありがとう」


 春宮の表情が、ふっと柔らかくなる。さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ気がした。


「じゃあ、今日はとりあえず駅まで、一緒に行ってもいい?」


「うん」


 教室を出る。廊下はもうほとんど人がいなくて、夕方の冷たい空気が窓の隙間から入り込んでいた。


 並んで歩くのは、ぎこちない。距離を測るみたいに、半歩だけ間が空いている。


「こうして歩くの、変な感じだね」


 春宮が、小さく笑いながら言う。


「まあ、そうだね。なんか、見られてたら勘違いされそう」


「勘違い、してくれてもいいけどね。三日間くらいなら」


「三日間だけって、けっこう強調するよね」


「大事だから」


 春宮は、夕焼けに照らされた横顔のまま、真面目な声で言った。


「“終わりがある”って、ちゃんと覚えておきたいの」


 どうして、そこまで終わりを意識するんだろう。


 また一つ疑問が増えたけれど、口には出さない。質問は、まだ先に取っておくことにした。


 校門を出て、駅までの道を歩く。コンビニの前を通り過ぎるとき、春宮が一瞬だけ立ち止まった。


「少し寄ってもいい?」


「うん」


 彼女はホットドリンクの棚の前で、しばらく迷ってから、紙コップのココアを二つ取った。


「片瀬くんも、これでいい?」


「いいけど……コーヒーじゃなくて?」


「コーヒーって、背伸びしてる気がしてさ。私は、まだココアでいいかなって」


「そっか」


 店を出て、紙コップを両手で包む。湯気が白く立ち上って、冷えた指先が少しずつ温まっていく。


「こういうのが、したかったの」


 春宮が、ふう、と息を吹きかけながら言う。


「特別じゃないやつ。普通の放課後みたいなやつ」


「それって、三日間の彼氏じゃなくても、できるんじゃない?」


「うん。でも、“三日間だけの彼氏”とやるのがいいの」


 何が違うのか、正直よく分からない。ただ、春宮の中では、ちゃんと線が引かれているらしい。


 駅に着く手前の横断歩道で、信号が赤に変わる。立ち止まったとき、春宮がふとこちらを見る。


「明日も、同じ時間でいい?」


「もちろん」


「じゃあ、また明日。……三日間の、一日目」


 そう言って笑った彼女の横顔は、どこか寂しそうで、どこか楽しそうだった。


 終わりが決まっている恋なんて、きっと面倒くさいに決まっている。


 それでも僕は、うなずいてしまった。


 三日間だけの約束が、静かに始まっていた。

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