第3話 「しおりに挟まれた言葉」

市立緩波若図書館。その静寂の中に、今日も淡々と時間が流れている。

窓の外では夏の名残を引きずる風が、ほんの少しだけ秋の匂いをまといながら、揺れる木の葉を撫でていった。

綴 詩織(つづり しおり)はいつものように、館内のカウンターで本の整理をしていた。

ふと、入口のドアベルが軽やかに鳴る。閉館が近い時間帯だったため、思わず顔を上げた。

「……あの、貸出カード、作りたいんですけど」

その声はどこか控えめで、けれどくぐもった優しさを帯びていた。

詩織が顔を向けると、カウンターの前に立っていたのは、黒髪を柔らかく撫でつけた、背の高い男性だった。年の頃は…自分と同じくらいか、少し上かもしれない。

「こちらにご記入をお願いします」

登録用紙を差し出すと、彼はペンを取り、静かに名前と住所を書き込み始めた。

その姿を何気なく目で追っていた詩織の目に、ある文字が飛び込んできた。

「黄昏荘101号室」

その瞬間、胸の奥がかすかにざわめいた。

――黄昏荘。それは、詩織が住む「蛍荘」の向かいにある古びたアパートだ。夕方の光に染まりやすい色合いのせいで、いつしか住人たちはそう呼び始めたという。

「これでいいですか?」

用紙を差し出してきた男性の顔には、どこかはにかんだような微笑みが浮かんでいた。

「それでは、カードを作成いたしますので…少々お待ちください」

彼の指先から受け取った紙の感触が、なぜか長く手の中に残った。

詩織はパソコンに情報を入力しながらも、先ほどの微笑みが頭から離れなかった。

数分後、貸出カードが完成し、彼が選んだ本をスキャナで読み取る。


タイトルは──『簡単でボリューム満点の料理』。

(…自炊してるのかな)

「返却は二週間後です」

「ありがとうございます。閉館間際にすみませんでした」

小さく頭を下げ、彼は図書館を後にした。

その背中が、夜の静寂に吸い込まれていくようだった。


* * *


閉館後の図書館には、人の気配がすっかり消え、静けさが染み込んでいた。

詩織はモップを持って床の埃を払い、返却本を一冊一冊書棚へ戻していく。

「おかえり…」

返却された本たちにそう声をかける癖は、いつから身についたのか覚えていない。

でも、自分の手を離れて誰かの心に触れ、またここに戻ってくる――その循環に、静かな感動を覚えるのだった。


館の出口を出ると、夜風が肩を撫でた。坂を下り、商店街に差し掛かる。

いつもの八百屋に向かおうとした時、視界の端に、魚屋の前に立つ人影が映った。

「…図書館の人。さっきは、ありがとう」

それは――本多啓介(ほんだ けいすけ)。彼だった。

「ギリギリの時間だったから、迷惑だったんじゃないかな?」

「いいえ、大丈夫です。それが、私の…仕事ですから…」

自分でも驚くほど小さな声だったが、啓介はふっと笑って言った。

「優しい声をされてるんですね。魚屋の親父の声がうるさくて、よく聞こえなかったけど」

その笑顔に、詩織の心は思わず波立った。

何気ない一言に、胸の奥が不意に熱を持つ。言葉にならない感情が胸をよぎった。

「それじゃあ……失礼します」

詩織は野菜を手早く買い、坂を上って帰路についた。

アパート「蛍荘」に着いたころには、夕焼けが空を茜色に染めていた。

向かいにある「黄昏荘」の窓に、淡い光が灯っているのが見えた。

(…あの人の部屋、あそこかな…)

気づけば、視線が何度もそちらに吸い寄せられていた。

理由はわからない。ただ、目が離せなかった。


* * *


部屋に戻り、着替えを済ませて、簡単な夕食を取る。

食後に淹れたレモンティーの香りが、ほんの少しだけ心を落ち着かせてくれる。

(あの人…今ごろ、料理してるのかな。あの本を見ながら…)

ふとした想像に、頬がわずかに熱を帯びた。

慌ててカーテンを閉め、パソコンを立ち上げる。

今夜も、小説の世界に沈み込む時間が始まる。

「私が、私だけの世界を作るんだ…」

キーボードの音が、静かな部屋に小さく響いた。

深夜1時。

ふとカーテンの隙間から外を見ると、向かいの部屋の灯りはもう消えていた。

「少し、頑張りすぎたかな…」

そう呟き、詩織はようやく布団に潜り込んだ。


* * *


数日後の午後、再び彼は現れた。

「ありがとうございました。これ、返しに来ました」

彼が差し出したのは、あの料理の本だった。

「それと…今日はDIYの本を探してるんです。どのあたりにありますか?」

「…はい。ご案内いたします」

詩織は静かに立ち上がり、彼を棚の前まで案内した。

「こちらになります。ごゆっくりどうぞ」

軽く一礼して、彼から離れる。

けれど、背中越しの気配はどこか心地よく、カウンターに戻ってもずっと感じていた。

「今日は、これにします」

啓介が持ってきたのは、木工DIYの入門書だった。

スキャナの音が、ふたりの間にささやかに鳴り響いた。

「返却は、二週間後です」

「ありがとう。また…来ますね」

啓介の姿がドアの向こうに消えていくのを見送ったあと、詩織はゆっくりと息を吐いた。


閉館後、本を整理していた詩織の手がふと止まった。

――1冊の本に、しおりが挟まっていた。

(…あの本?)

啓介が借りた料理本だった。

しおりを取り出そうとした瞬間、文字が目に飛び込んできた。


「あなたのその優しさに惹かれました」


息を呑んだ。

たった一文。それだけなのに、心が大きく揺れた。

(…私のことじゃない…そんなはず、ない)

そう思い直そうとしても、心は勝手に高鳴っていた。

(私なんか、いつもそう…)

詩織はそのしおりを、そっとカウンターの引き出しにしまった。

次に彼が来たとき、忘れ物として返すつもりで。

けれどその一文は、確かに詩織の心の奥に、静かに灯をともした。

その夜も、本を通じて誰かの心が満たされていく。

詩織は、そんな図書館の静けさが――どこまでも好きだった。

(つづく)

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