第2話 「静かなる頁の向こうに」

 朝の光は、静かに図書館の窓から差し込んでいた。カーテンは微かに揺れ、外の風が青々とした木々を撫でる音が、遠くに響いている。

開館前の市立緩波若図書館には、まだ誰もいない。けれど、ここにいるだけで——綴 詩織(つづり しおり)は、なぜか心が安らぐのだった。

 彼女は背の低いカートに返却された本を一冊ずつ並べ、分類ラベルの数字を確認しては、ゆっくりと書架に戻していく。文庫、単行本、絵本。

指の動きはまるでピアニストのように繊細で、ページを重ねた歴史にそっと手を添えるようだった。

「……文学棚の端、太宰の『晩年』……少しずれてる」

 小さな声で呟いた。きっちりと並んでいない背表紙の列が気になり、彼女は指先でそっと押し揃えた。誰にも気づかれないような、ほんの数ミリのズレ。

でも、それが大切なのだ。ここでは、目立たないことも、価値になる。

 誰かの記憶を宿すような静けさが、この図書館にはあった。詩織がこの場所を好きになったのも、無理はない。


 午前十時を回ると、玄関の扉が開く音がした。自動ドアが軽やかに開き、日差しを背負った女性が、ゆっくりと入ってくる。

「こんにちは、この前借りた“坂の上の雲”の続き、もうありますか?」

 年配の女性だった。身なりの整った品のある人で、詩織も何度か顔を合わせたことがある。

「はい。第三巻、返却されています。ご案内いたしますね」

 静かに立ち上がり、文庫の歴史棚へと先導する。女性は歩調を詩織に合わせながら、ふと口を開いた。

「あなたに聞くと、すぐにわかるわね。よく覚えてるのねぇ」

「……本の並びは、少しずつ……自然と、記憶に……」

 それだけ言うと、詩織は少し俯いた。自分の声が小さすぎたかと気になったが、女性は柔らかく笑った。

「そういうの、大事な才能よ。あなたにぴったりの仕事ね」

 心の中に、微かに光が差した気がした。自分がここにいる意味が、ほんの少しだけ肯定されたような——そんな気がして、詩織はそっと胸に手を当てた。


 カウンターに戻ると、片山主任が声をかけてきた。

「詩織ちゃん、助かるわー。田中さん、また本の場所わかんないって言ってたんだけど、あなたが対応してくれてたのね」

 彼女の声は明るく、全体を見守る母のような安心感がある。詩織は目を伏せて、そっと頷く。片山は悪い人ではない。むしろ、あたたかい人だ。でも、どうしても、自分の言葉はすぐに口から出てこない。

 離れた席から、館長の奥山が書類に目を通している。たまに詩織をちらりと見る視線は、どこか冷ややかだった。何か言われるわけではないが、その目が刺さる。

「(また黙ってるわね)」——そんな声が聞こえてきそうで、詩織は息を潜めるように、カウンターの端へ戻った。


 昼過ぎ、大学生くらいの若い男性が文学棚の前でうろうろと歩いていた。時折、本を手に取っては、また戻す。何か探しているのだろうか。

 詩織は少し迷ったあと、意を決して声をかけた。

「……何か、お探しですか?」

「あっ、すみません……。あの、“芥川龍之介”の『地獄変』って……どんな話なんですか?」

 詩織は一瞬、言葉を選ぶ時間が欲しかった。でも、彼のまっすぐな目が、それを許さなかった。

「……地獄の苦しみを描いた、絵師の物語です。……美しい絵を描くために、現実の苦悩を……焼き付けようとした……そんな話、です」

 男性は「なんかすごい話ですね」と苦笑しつつも、『地獄変』を手に取った。

「読んでみます。ありがとうございます」

 彼が去ったあと、詩織は胸に小さな波紋を感じていた。たった数行の説明でも、自分の中にある本の記憶が、誰かに届いた。その事実が、静かに彼女を支えていた。


 夕方、館内の照明がやや黄みを帯びてくる。仕事終わりの人々がふらりと立ち寄り、雑誌棚や新聞コーナーが少し賑わいを見せる時間帯だ。

 詩織は、返却本の整理に集中していた。カートには今日だけで戻ってきた本がずらりと並び、それぞれの持ち主を想像しながら、背表紙を撫でる。

「この一冊も、きっと誰かの夜を照らしたんだろうな……」

 ふいにそんな思いがよぎり、胸の奥が温かくなる。誰かに直接「ありがとう」と言われる仕事ではないけれど、本を通じて、静かに心が交差していく。それが、図書館の仕事だった。


 そう思ったその時——。

 カラン、と小さな鈴の音が、静寂をやさしく切り裂いた。

 閉館間際の入り口に、ひとりの男性が立っていた。

 光の中に浮かぶその姿は、少し戸惑いながらも、何かを求めるようにこちらを見ている。手には、一冊の古びた文庫本。

 そして、ゆっくりと詩織のカウンターへ歩いてくる。

「……あの、貸出カード、作りたいんですけど」

 その瞬間、詩織の時間が、わずかに揺れた。

 この人は、どんな本を読むのだろう。どんな言葉を、心にしまっているのだろう。

 まだ何も知らない誰かと、本を通じて繋がる——。

 図書館の午後が終わり、また、新しい物語が始まろうとしていた。

 (つづく)

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