第5話 揺籠石(ゆりかごいし)

ハルはレジ台に肘をつき、店の奥の振り子時計の音をぼんやり追っていた。店の奥では祖母が小さく咳をして、祖父は帳面に丸をつけている。客足が途切れる、この時間がいちばん静かだ。


戸が、きい、と鳴った。


「いらっしゃい」


入ってきたのは学校帰りの制服姿の女の子だった。ピアスが耳の縁にいくつも光っていて、目つきは強いのに、足取りがふらついている。


「……ここ、まだやってんだ」


声は荒い。けど、喉の奥が乾いている音がした。


「やってるよ。好きなの見てって」


ハルがそう言うと、女の子――エマは店内を一周するように見回した。棚の色褪せ、ラムネ瓶の透明、箱アイスの写真。どれも古いのに、なぜか目が離せないみたいに。


「なんかさ、ここ……変に落ち着くな」


「それはよかった」


エマは駄菓子の棚の前で止まり、しゃがみこんだ。だが、選ぶでもなく指先が宙を彷徨って、最後にはふいっとポケットを握った。


――今、光った。


ほんの一瞬、暗い店内の影がふっとほどけて、ポケットの奥で淡い光が瞬いた。


ハルは息を殺して様子を伺う。


彼女の目は僅かに充血して潤んでいる。


「眠い?」


「……わかる?」


エマは欠伸をし、目を擦る。


「昼も夜も。毎日同じ夢を見るんだよね。見たことない家で、知らない家族とすごす夢」


ハルはレジ台の下から紙コップを出し、麦茶を注いで差し出した。


「どうぞ」


「……ありがと」


エマは一気に半分飲み、コップを見つめた。


「最初、不気味だった。なのに回数が増えるほど、情が湧いて……夢の中の家が、本当に自分家みたいで」


ハルはエマのポケットの膨らみを見る。


「それ、いつから?」


エマは迷ってから、手のひらに小さな石を出した。


乳白色で、奥に細かな粒が閉じ込められ、かすかに光が脈を打つ。


「気づいたら入ってた。拾った覚えもない」


「綺麗だな」


「だろ。だから捨てなかった」


ハルは石に触れず、指先だけ近づける。冷たいはずなのに、温かさを感じる。


——揺籠石。


「この石が見せている夢だね。でもこのままだと、夢から出られなくなる」


「…は?」


「眠気が増えたのは、無意識に夢の世界を選んでしまったからだろう」


エマは眉をひそめた。理解したくない顔だ。


「……オカルト?お兄さん霊感あんの?」


「ただ少し視えるだけだよ」


エマは笑おうとしたが、笑えなかった。


「そんな真剣に言われたらさ…」


ハルは急がず、車の音が遠くで途切れるのを待った。


「夢、覚えてる範囲でいいから教えてくれる?景色とか、音とか」


「……音」


エマは目を閉じ、思い出す。


「踏切。カンカン鳴ってる。あと……水の音。川っぽい」


「景色は?」


「坂。手すりが赤い。藤が薄紫」


「……目印になるものは?」


エマのまぶたが揺れた。


「寺。寺の裏に小さい墓地。でっかい木が一本。根元に色あせた風車」


ハルは息を吐いた。手がかりが揃いすぎている。


「……行こう」


「は? 今から?」


「急いだ方がいい。君が夢の世界に落ちたら取り返しがつかなくなる」


エマは固まり、次に口角を上げて強がる。


「ま、どうせ暇だし?……でもさ、なんでそこまでしてくれんの?」


ハルは笑わなかった。


「困ってる子どもを放っておけないだけだよ」


「は?……子供じゃねぇし」


エマは鼻で短く笑って、石を握りしめた。


店の看板灯を祖父母に一言断って落とし、ハルは戸を引いた。夜風がひやりと頬を撫でる。


踏切の音は、町のどこかでいつも鳴っている。けれど、川の水音と重なる場所はそう多くない。


二人は黙って歩いた。エマの足取りは軽いふりをして、時々ふらつく。眠気が、ふいに襲ってくるのだろう。


「……家、連絡しなくて大丈夫?」


ハルがぽつりと言うと、エマは視線を前に固定したまま答えた。


「どうせ誰も探さないから大丈夫」


それだけだった。言い切る声が、妙に淡々としている。


やがて、踏切の警報が近づいた。カン、カン、カン。遮断機の向こうに、細い川が見えた。水面は街灯を割って、黒く流れている。


「……ここだ」


エマの足取りに迷いがない。夢が案内している。


川沿いを進むと、赤い手すりの坂。藤の花房が薄紫に滲む。


「うわ……マジじゃん」


エマの声が震えた。


坂を上った先に、小さな寺があった。門は古く、境内の砂利は湿っている。


寺の裏へ回ると、夢の通りの墓地があった。広くない。けれど、一本の楠が空を覆い、根元に色褪せた風車が置かれている。


風が吹き、風車がぎい、と回った。


エマは立ち尽くした。ハルが何も言わないのをいいことに、ゆっくり墓地へ踏み込む。


石が、掌の中であたたかく脈打った。


「……ここ、なの?」


ハルは頷いた。


「“帰りたい気持ち"が溜まった場所。たぶん……家族を置いていった側じゃなくて、置いていかれた側だろうね」


「………本当に返さないと、ダメかな?例え夢だってわかってても、ちょっとは幸せかもって思えたんだよ…」


ハルが今日見てきたエマとは思えないほど、弱々しく声が震えていた。


「夢の世界を選ぶことは簡単だろう。…でも、この世界に、何一つ心残りはないと言える?」


「………」


ハルは墓石の列を見た。名前の擦れたもの、古いもの、新しいもの。そこに混じって、幼い名前がひとつだけ、小さく彫られている墓があった。供花はない。線香の匂いもしない。長い間、来る人がいなかったのだろう。


けれど――石が呼んだ。夢が呼んだ。


エマは膝をつきそうになって、踏ん張った。強がりで立っている子だ。崩れるのが怖い子だ。


「……やっぱりこれ、返すよ。最近大事な友達ができたんだ。悲しませたら悪いよな」


「そうだね。友達もそれを望むだろう」


ハルは鞄から小さな布を出し、石を包む。


「ここに置いていこう。……でも、置き捨てるんじゃない。帰るべき場所に戻すだけだよ」


エマは唇を噛み、墓前の砂利をぎゅっと握った。手の中で砂が痛いはずなのに、顔は泣きそうなほど静かだった。


「……あたし、家族じゃねえのに」


夢の中の感情は現実に強く残る。悲しみも、恐怖も…恋しさも。


「夢の中では、家族だったんだろ」


その言葉に、エマの肩が小さく揺れた。


「……うるせ」


ハルは石を墓前に置いた。風が一度だけ強く吹く。布がふわりと持ち上がり、薄青い光がすう、とほどけた。


そこに“誰か”がいると、はっきり見えるわけじゃない。けれど、空気の厚みが一枚剥がれて、かわりに温度が残った。夕飯の湯気みたいな匂い。


「……また暇な時は来てやるよ」


エマは目元を雑にこすり、立ち上がる。

ハルは何も言わず、門へ向かう。


帰り道、エマの足取りはさっきより確かだった。眠気が、少し引いたのだろう。かわりに、胸の奥の空洞が顔を出している。けれど――それは、埋め物で誤魔化すより、ずっと健全だ。


「お兄さん」


「ん?」


「……あたしさ。これからも、ここ来る。線香とかよく分かんねえけど……話し相手ぐらいにはなれるだろ」


ハルは返事のかわりに優しく微笑み、エマの頭をポンと撫でる。


踏切の音がまた遠くで鳴り始める。川の水音が、その下で静かに続く。


エマは歩きながら、ぽつりと言った。


「家族ってさ……めんどくせえな」


――揺籠石は、帰った。


でも、エマの夜がすぐに明るくなるわけじゃない。明るくするのは、石じゃなくて、これからの選び方だ。


ハルは夜道の角を曲がり、駄菓子屋の灯りが見える場所まで戻ってきた。


その灯りは小さい。けれど、誰かが「ここに帰って来てもいい」と思えるには、十分だった。

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灯影の駄菓子屋 沈丁花 @winter-daphne

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