第2話 月しか写らない

 圭太の背中は、いつも夜の匂いがした。手元の銀色のデジタルカメラは、小学生の頃から使っているものだった。年月を経ても、レンズ周りの動物シールはそのまま残っている。

カメラが「ジッ、ジッ」と音を立てるたびに海風の潮の香りでもなく、金木犀の甘さでもない静かな匂いが漂った


その音が止むまで、愛梨は声をかけず、静かに待つ。

ファインダー越しに月と対話する彼に、呼吸さえも気取られぬよう細心の注意を払った。

波が防波堤の腹を叩き、砕け散る飛沫が暗闇の中で一瞬だけ銀色に光る。 愛梨は指を広げ、その無数の光を数えようと虚空を掴んだ。 だが、水滴は彼女の指の間をすり抜けて霧散し、手のひらには冷たい夜気だけが残った。

……そして、何度繰り返しても満たされない、乾いた喪失感。水滴のように、圭太の心も指の間をすり抜けていくような、そんな錯覚に囚われた。


こうして静かに寄り添うのは、出会ってから、そして付き合い始めてからの三年間で、自然と引かれた暗黙の境界線だった。今夜も満月は、黒いビロードを敷いたような夜空に、完璧な球体を描いていた。


街灯の明かりが届かない防波堤の先端。

圭太は三脚に据えたカメラに顔を寄せる。


一瞬の静寂。

小さく息を吐くと、白い吐息が夜風に溶けていく。


指先でレンズの曇りを払う。

月は、変わらず静かに、しかし確実にそこにあった。

愛梨は、そこから数歩離れた場所で、ただ彼を待つ。

コンクリートの冷たさが靴底を通り抜け、足首から膝を這い上がる。

胸まで、じんわりと冷えが染み渡る。

それでも、愛梨は微動だにしなかった。


彼を待つ時間。

静かに、自分が彼にとって何者なのかを問い直す時間。

夜の海の音が、静かに背後で響く。夜の帳に包まれた防波堤は、地上のあらゆる色彩を強引に剥ぎ取り、ただ濃淡の異なる黒と、月の青白い光の二色だけに世界を塗り替えていた。耳を澄ませば、遠くの波消しブロックに砕ける水の音。それはまるで、深い眠りの中で巨大な獣がつく吐息のように、重く、鈍く響いていた。

薄手のダウンジャケットに包まれた圭太の背は、数ヶ月前よりもわずかに細くなったように感じられた。肩甲骨のあたりが突き出し、月光を浴びるその輪郭はどこか透けてしまいそうな危うさを孕んでいた。

波が防波堤を打つ。

飛沫が暗闇で銀色に光る。

そして、すぐに消える。


指を開き、数えようとした瞬間。

水滴は指の間から霧散した。

手のひらに、わずかな空虚感だけが残る。

 圭太という男は、自分の顔を写されるのを極端に嫌うことが多かった。付き合い始めて三年になるが、愛梨のスマートフォンのフォルダには、彼の正面を捉えた写真は一枚もない。あるのは、今日のような撮影風景の、常にピントの合っていない背中や、影になった指先の写真ばかりだ。

 一度、ふざけてレンズを向けたことがあったが照れながらやんわり断られてしまった。一年前の冬の夜のこと、冗談のつもりで「こっち向いて」とシャッターを切ろうとした瞬間、「やめておくよ」。 たった一言だったが、圭太は自分が誰かの被写体になる事を想定していないのだと、その沈黙が告げていた。

 カシャッ、というシャッター音だけが虚しく寒空に響き、記録されたのは激しく手ブレした、正体不明の黒い影のような彼の顔だった。それを見て以来、愛梨は二度と彼にレンズを向けようとはしなかった。彼にとってのカメラとは、世界を覗くための鋭利な盾であり、同時に自分という存在を外部から隠し、守るための鎧なのだと、その時初めて何となくだが分かった気がしたのだ。

 やがて、データの書き込み音が止んだ。防波堤の上に、冬の夜特有の、すべての音が真空に吸い込まれるような静寂が戻ってきた。愛梨は、自分の肺が冷え切った空気を吸い込む音さえ、耳障りなノイズに感じられた。 「……圭太、そろそろ一休みしたら? コーヒー、淹れてきたよ」  愛梨は、持参した小さなステンレス製の水筒を掲げて見せた。圭太は、ファインダーに右目を押し当てたまま、左手だけを軽く振ってそれを制した。その手つきは「邪魔をしないでくれ」という拒絶ではなく、「あと少しで何かに届きそうなんだ」という、断崖絶壁に立つ者が最後の一歩を踏み出す瞬間の、切実な願いに近いものに見える。

 彼女は、彼が「届きそう」だと言っているものが何なのか、三年間ずっと問いかけられずにいる。それはクレーターの深い影の底にある真実なのか、光の回折が作り出す錯覚なのか、あるいは月という冷徹な天体が内包する、何らかの根源的な正体なのか。彼がファインダーを覗き込むと、カメラの背面液晶が一瞬だけ白く明滅した。

愛梨は水筒を握り直すと、蓋の金属が指先に冷たく貼りつき、立ち上るはずの湯気は夜風にあおられて彼の背中に届く前に霧散する。

「今日も、綺麗に撮れた?」

圭太がゆっくりと顔を上げた。しかし、こちらを振り返ることはせず、カメラ背面の液晶画面に映し出された月の巨大なクレーターを数秒間、検品するかのような厳格な目で見つめる。バックライトに照らされた彼の横顔は、逆光と夜の闇に半分以上が溶け込み、愛梨にはその表情の細部を読み取れない。 「……ああ。今日は、空気が澄んでるから。いい月だ。今までで一番、静かに見える」

低い、落ち着いた声。そのどこか平坦で、感情の起伏を排除した響きを聞きながら、愛梨はふと、月を撮る圭太を初めて見た日のことを思い出していた。


――あれは、まだ二人が小学生だった頃のこと。

二人の実家は歩いて数分の距離にあり、近所の公園の隅、砂場近くのベンチ。そこに、あの小さな手に握られていたのは今と同じもう製造されていないはずの銀色のデジタルカメラだった。

シールは色褪せているが圭太は剥がそうとはしなかった。小学生の頃と変わらぬこだわりだった。

何度か買い替えを勧めたこともあったが、圭太は頑として首を縦に振らなかった。

今夜、防波堤の上で彼の指先は、あの小さな砂場の冷たい砂を思い出すかのように、三脚のネジをゆっくり回し、カーボン製の脚を一段ずつ折りたたむ。

かすかに擦れる金属の感触や、古いカメラのレンズのひんやりとした重みが、彼の胸に幼い日の記憶を呼び覚ます。

その手の動きには、常にあの砂場の湿った冷たい砂がこびりついているような気がして、愛梨は胸の奥を冷たく撫でられたような感覚に襲われた。 圭太がゆっくりと、使い込まれた三脚を畳み始める。その手つきはあまりに繊細で、まるで自分自身の骨が壊れ物であるかのように慎重だった。一つひとつのネジを回す仕草、カーボン製の足を縮めるカチカチという乾いた音。そのすべてが、月への供物を捧げ終えた後の厳かな儀式めいていて、愛梨はただそれを見守る観測者に徹するしかなかった。  

月光を浴び続けた指先が、わずかに震えているように見えた。夜風のせいではなく、神経を極限まで尖らせた後の反動に見えたが、愛梨はその震えを、あえて無視した。

彼の孤独を侵すようなことは、許されない気がした。

「そろそろ、駅まで送るよ」  圭太が三脚をケースに収め、愛機をバッグにしまい込みながら言う。彼は、愛梨の足元が限界まで冷え切っていることに、そして彼女が黙って待ち続けていたことに気づいていないのか、それ以上の気遣いや言葉を見せることはない。  防波堤から駅までの道のりは、二人で歩くには少しだけ遠く、かといって沈黙を埋めるための適当な話題を探すには、あまりに短すぎた。夜の海を背に、潮騒の音が遠ざかるにつれ、アスファルトの道を二つの影が、常に一定の等間隔を保ったまま進んでいく。

 帰り道、古い街灯が二人の足元をまばらに照らしては、暗闇に沈める。アスファルトの古い亀裂や凍りついた水たまりを避けながら歩く圭太の歩幅に、愛梨は自分の歩調を合わせた。夜の街の音を吸い込むような静寂の中を歩く二人。圭太は、今夜撮った月の写真について、彼女に熱心に語ることは決してない。ただ、時折ふと足を立ち止まらせ、首を傾けて夜空を見上げるその瞳の奥には、地上の誰にも、どんな言葉を持ってしても届かない、遥か遠くの光が吸い込まれるように映り込んでいた。

「ねえ、圭太……最近、少し痩せた? ちゃんと食べてる?」

愛梨はためらいながら続けた。「私が何か作りに行こうか」

 愛梨の問いに、圭太は数歩先を歩いたまま、曖昧に、どこか他人事のように肩をすくめた。 「夜は冷えるからな。厚着をしてるから、そう見えるだけだよ。心配しすぎだよ」

嘘だ、と愛梨は確信した。

ダウンジャケットの下、肩甲骨や鎖骨の輪郭が月光に鋭く浮かび上がり、以前より確実に薄く、華奢になったことがわかった。

背中から腰にかけてのラインも、以前より細く、骨の冷たさが透けて見えるかのようだった。

それでも、こんな些細で残酷な変化を、自分だけが知っている――と思うと、胸の奥がひそやかに熱くなり、喉の奥に黒い澱のような、得も言われぬ充足感が溜まっていく。 圭太が見せる脆さ、そして彼が自分を隣に置くこと。愛梨はそれに、自分だけが彼を理解しているのだと、静かな自負を抱いていた。そうでなければ、二人の間に横たわる、決して埋まらない距離に折り合いをつけることができなかったからだ。

街灯の下、彼の頬の骨が鋭く浮かび上がり、首筋には細い血管が不規則に拍動する。そのすべてを、愛梨は脳裏のフィルムに焼き付けていた。それは、愛おしさにも似た、密やかな執着だった。


『街の灯りが綺麗すぎる』のはあなたがいつでも……

愛梨は心の中で呟いたが、その言葉は喉の奥に留まった。

やがて、駅の改札前へと辿り着いた。  自動改札機が放つ、無機質な電子音が、夜の静寂を規則正しく区切っている。終電に近い時間帯、帰宅を急ぐわずかな人々が、二人の横を足音を立てて追い越していく。蛍光灯の青白い、どこか死を連想させるような光が、圭太の横顔を無情に照らし出し、彼の輪郭をこの地上の景色から無理やり切り離していた。

「じゃあ、また。週末、天気が良ければ、同じ場所に。晴れるといいな」 「うん。おやすみなさい、圭太。風邪、引かないようにね」

 愛梨は、喉元まで出かかった「もっと一緒にいたい」という言葉を飲み込んで、背を向け階段を上がり、自動改札にカードをかざす。プラスチックの冷たい感触が、凍てついた指先に針で刺されたように響いた。ホームへと続く、長く、急な階段の途中で、彼女は一度だけ、自分を地上に繋ぎ止めていた細い鎖を確認するかのように足を止め、振り返っていた。

 圭太はまだ、改札の向こう側、色が褪せた古い映画のポスターが貼られた壁の傍らで、彼は石像のようにじっと動かずにいる。  けれど、その視線は、階段を上っていく愛梨に向けられることはついになかった。

彼は少しだけ顔を上げ、駅ビルの隙間に覗く夜空の月を、冷たく鋭い横顔で一途に見つめていた。

そこにあるのは、地上の誰とも、そして今さっきまで隣にいたはずの愛梨とも共有しきれない、圭太が月へと捧げた、秘められた魂の軌跡だった。

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月を撮る人 灯籠小四郎 @g6kt

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