第7話 『覚悟の決断』



 夜の闇に紛れるようにして、私たちは車を走らせた。


 後部座席には誰もいない。

 母は私の家に残し、娘の結は近所に住む義母に緊急で預かってもらった。


 これは「大人の喧嘩」であり、子供に見せるべきものではないからだ。


「……緊張してる?」


 ハンドルを握る健人が、静かに訊ねてくる。

 私は膝の上で拳を握りしめ、首を横に振った。


「ううん。ただ、覚悟を決めてるだけ」


「そうか。……無理はしなくていい。ヤバそうならすぐに警察を呼ぶ。でも、根本的に解決するなら、僕たちの『手』で終わらせた方がいい」


 健人の横顔は真剣だった。


 彼は車を実家の近くのコインパーキングに止め、私たちは雨上がりの湿ったアスファルトを踏みしめて実家へと向かった。


 数分後、目の前に現れたその「家」を見て、私は絶句した。


「……何、これ」


 そこはもう、私の知っている実家ではなかった。


 庭の草木はジャングルのように生い茂り、玄関先にはゴミ袋の山がうず高く積まれている。

 生ゴミの腐敗臭が、鼻をつく。


 窓ガラスは一部が割れ、段ボールで塞がれていた。

 近所から苦情が来ないのが不思議なくらいの、典型的な「ゴミ屋敷」がそこにあった。


「ひどいな……。お義母さん、よくこんな場所で生きてたな」


 健人が顔をしかめながら、母から預かった鍵を差し込む。


 カチャリ、と音がしてドアが開く。

 中から漂ってきたのは、淀んだ空気と、何とも言えない異臭だった。


 私たちは音を立てないように廊下を進んだ。

 足の踏み場もないほど、コンビニ弁当の空き箱やペットボトルが散乱している。


 その奥――リビングの方から、男の怒鳴り声が聞こえてきた。


『ふざけんな! ヒーラー仕事しろよカスが! 死ね!』

『あーもう! クソッ、また負けた! 課金だ、石が足りねえんだよ!』


 ドカッ、バキッ、と何かを蹴り飛ばす音。


 兄だ。

 三十路手前のいい大人が、平日の夜にゲームに向かって絶叫している。


 私は健人と目配せをし、リビングのドアを開け放った。


「……誰だ!」


 暗闇の中、複数のモニターの青白い光に照らされた男が、ギロリとこちらを睨んだ。


 伸び放題の髪、無精髭、ブヨブヨと太った体。

 あの頃、「国立大卒のエリート」と自分を誇示していた兄の面影は、どこにもなかった。


「なんだ、遥かよ。……それに、その貧乏くさい旦那も一緒か」


 兄は私たちを認めると、不快そうに鼻を鳴らし、再び画面に視線を戻した。

 侵入者に驚くでもなく、まるで召使いが入ってきたかのような態度だ。


「母さんはどうした。飯は? 逃げ出しやがって、帰ってきたら半殺しにしてやる」


「お母さんなら私の家にいるわ。あんたに殺されかけたって震えてた」


「はん、大げさなババアだ。親の躾(しつけ)がなってないから、息子が教育してやってるだけだろ」


 兄はスナック菓子をバリバリと頬張りながら、キーボードを叩き続ける。


「でお前らは何しに来た? まさか説教か? 帰れよ高卒。俺は今、ギルドの重要な会議中なんだ。お前らみたいな底辺とは住む世界が違うんだよ」


 住む世界が違う。


 その言葉だけは、皮肉にも正しかった。

 ゴミと排泄物の臭いが充満するこの部屋で、虚構の世界に王様気取りで君臨する彼と、現実を生きる私たち。


 確かに、言葉が通じる相手ではない。


 私の中で、最後の情けのようなものが完全に消え失せた。

 これはもう、兄ではない。

 親が甘やかし、私が放置した結果生まれた、ただの「怪物」だ。


「……お腹、空いてるんでしょ?」


 私は感情を殺し、猫なで声を出した。


「お母さんは具合が悪くて来れないから、代わりにご飯持ってきたの。お兄ちゃんの好きな、駅前の高級焼肉弁当とお酒」


「あ?」


 兄の手が止まる。

 食欲という原始的な欲求には勝てないのだろう。彼は疑り深い目を向けながらも、唾を飲み込んだ。


「……置いてけ。あと金もだ。母さんが持ち出した金、全部置いていけ」


「わかったわ。テーブルに置くね」


 私は健人が持っていた袋から弁当と、缶ビールを取り出し、ゴミを避けてテーブルに置いた。

 缶ビールには、あらかじめ睡眠導入剤をたっぷりと溶かしてある。


「どうぞ、お兄ちゃん。……お詫びの印よ」


「フン、わかってりゃいいんだよ。高卒の分際で」


 兄はふんだくるようにビールを手に取り、喉を鳴らして一気に煽った。


「プハッ! ……ぬるいな。気が利かねえ」


「ごめんなさい」


 文句を言いながらも、兄は弁当を貪り食い始めた。

 私たちはじっとその様子を見守った。


 一分、二分。


 やがて、兄の箸が止まる。


「……なんか、眠ぃな……」


 兄は大きな欠欠伸をして、頭を振った。

 呂律が回らなくなっている。


「おい、遥……なんか変なもん……入れ……」


 ガタンッ。


 兄の体が椅子から滑り落ち、床のゴミの上に崩れ落ちた。

 白目を剥き、いびきをかき始めるまで、そう時間はかからなかった。


 静寂が戻った部屋で、健人が眼鏡の位置を直し、冷ややかに見下ろす。


「……さて。これより『教育』の時間だ」


 私は兄を見下ろし、冷たく言い放った。


「いい夢見てね、お兄ちゃん。目が覚めたら、地獄が待ってるから」


 私たちは手際よく準備に取り掛かった。

 もう、後戻りはしない。


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