第8話 『沈黙の夜』



 バシャッ!!


「うぐっ、ぶはっ……!?」


 冷たい衝撃と窒息感で、兄・翔太は目を覚ました。


 場所は、カビだらけの実家の浴室。

 彼は介護用のプラスチック椅子に座らされ、手足を結束バンドとビニール紐でガチガチに固定されていた。


「な、なんだ!? 何しやがる!!」


 状況を理解できず、兄が喚(わめ)き散らす。

 その顔面に、私は容赦なくシャワーの冷水を浴びせた。


「ぐあっ! やめ、冷てえ! 息がっ……!」


「静かにして。近所迷惑よ」


 水流を最強にしたシャワーヘッドを突きつけながら、私は冷徹に見下ろした。

 浴室の入り口には、腕組みをした健人が仁王立ちして退路を塞いでいる。


「は、遥……? お前、気が狂ったのか!? 俺を縛ってどうする気だ! 警察呼ぶぞ!」


「警察? 呼べばいいじゃない」


 私は蛇口をひねり、水を止めた。

 ボタボタと水滴を垂らす兄は、寒さと恐怖でガチガチと震えている。


「警察が来たら、お母さんの診断書を見せるわ。肋骨にヒビが入るほどの暴行、包丁による脅迫。お兄ちゃん、あんたはもう立派な傷害罪の現行犯よ」


「そ、それは母さんが悪いんだ! 俺をイラつかせるから……!」


「黙れ」


 再び、冷水を顔面に噴射する。


「ごぼっ、がはっ……!」


 数秒間、息ができない苦しみを与えてから止める。

 兄は涙と鼻水にまみれ、情けなく咳き込んだ。


 かつて「国立大卒のエリート」と威張り散らしていた男の、これが成れの果てだ。


「い、いい加減にしろよ……! 俺は長男だぞ! この家の主だぞ!」


「主? 笑わせないで」


 私はポケットから、二年前の誓約書のコピーを取り出し、濡れた兄の目の前に突きつけた。


「『母の扶養は長男が全責任を負う』。あんたは自分でそう書いて判を押したの。その責任を放棄して、暴力を振るって、金を使い果たした。……これはね、契約違反に対するペナルティなのよ」


「だ、だからってこんなこと……!」


「健人くん、お願い」


 私の合図で、健人が一歩前に出る。

 彼は手にしたタブレット端末を兄に見せた。


 そこには、兄がゲーム内で暴言を吐いているチャットログや、消費者金融からの督促状、そして破壊された家屋の写真が並んでいた。


「翔太さん。君にはもう、社会的信用も資産も何もない。君にあるのは借金と、犯罪歴だけだ」


「う、う……」


「このまま警察に突き出してもいいが、そうすると君は刑務所行きだ。出てきても前科者として一生を棒に振る。……まあ、今さら君の人生を心配する義理はないんだが」


 健人の淡々とした論理的な詰め寄りに、兄の顔色が青ざめていく。


「た、頼む……許してくれ……」


 兄の心が、音を立てて折れた。

 彼は必死に首を振り、私に向かって哀願し始めた。


「悪かった、俺が悪かった! もう母さんも殴らない! 真面目に働くから! だから解いてくれ、遥! 俺たち、兄妹だろ!?」


 兄妹。


 その単語が出た瞬間、私の中で何かが完全に冷え固まった。


 二年前、私を「高卒」と見下し、遺産を独り占めするために私を切り捨てた男が、今さら「兄妹」というカードを切ってきた。


 私は静かにシャワーヘッドを床に置いた。

 そして、兄の目線の高さまで屈み込み、その目を覗き込んだ。


「……お兄ちゃん」


「お、おう! そうだよな、遥!」


「あなたは一つ、勘違いをしているわ」


 私の声は、自分でも驚くほど凪いでいた。


「私は二年前に、この家を捨てたの。家族も捨てたの。今、私の目の前にいるのは『兄』じゃない。私の平穏を脅かし、母を殺そうとした『ただの危険な他人』よ」


「は……?」


「他人だから、情けはかけない。更生なんて期待しない。ただ、二度と私たちの視界に入らない場所へ『処理』するだけ」


 兄の目に、本当の絶望が宿った。

 私が本気であることを悟ったのだ。


「健人くん、車の手配は?」


「ああ、もう裏口に着いてる。専門の業者が待機してるよ」


「業者……!? 俺をどこへやる気だ!」


 兄が悲鳴を上げる。

 私は立ち上がり、冷たく告げた。


「山奥にある、全寮制の自立更生支援施設よ。一度入ったら、更生が認められるまで絶対に出られない。スマホもネットも禁止。朝から晩まで畑仕事と座禅三昧だって。……もちろん、費用は私が『前払い』しておいたわ」


「ふ、ふざけるな! 嫌だ! 行きたくない!」


「拒否権はないわ。これはあんたが署名した『母の保護責任』を果たせなかった代償よ」


 健人が裏口のドアを開ける。

 そこには、屈強な男たちが数人、無表情で立っていた。


「連れて行ってください」


「了解しました」


 男たちが土足で浴室に入り込み、暴れる兄をいとも簡単に担ぎ上げる。


「やめろ! 離せ! 遥、助けてくれ! 母さーーーん!!」


 断末魔のような叫び声を上げながら、兄は闇の中へと運ばれていった。


 やがて車のドアが閉まる重い音がして、エンジン音が遠ざかっていく。


 後に残ったのは、水浸しの浴室と、私たち夫婦だけ。


 私は大きく息を吐き出した。


「……終わったね」


「ああ。これで、静かな夜が戻ってくる」


 私は震えそうになる手を、健人に握ってもらった。


 罪悪感?

 いいえ。胸にあるのは、憑き物が落ちたような、深い深い安堵だけだった。


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