第4話 『絶縁の交換条件』



 親族たちが帰り、静けさが戻った実家のリビング。


 空気は淀み、線香の匂いと、兄の放つ苛立ちが混ざり合っていた。

 テーブルの上には、一枚の書類が置かれている。


『相続放棄申述書』


 兄が用意していたそれは、私に父の遺産を一切渡さないという、明確な意思表示だった。


「単刀直入に言うぞ。遥、お前はこれを書いて判を押せ」


 兄はソファにふんぞり返り、あごで書類をしゃくった。


「父さんの遺産は、家と土地、あと預貯金が少々だ。だが、この家の維持管理には金がかかる。これからは俺が当主として家を守っていくんだ。お前みたいな他家に嫁いだ人間に、分ける金なんてない」


 横に座る母も、当然のように頷く。


「そうよ。お兄ちゃんはこれから大変なんだから。あんたは旦那さんに養ってもらってるんだから、文句ないでしょ?」


 養ってもらっている、か。


 共働きで、対等に家計を支え合っている私たちの生活など、この人たちの想像の範疇にはないのだろう。


「……つまり、私には一円も渡したくない、と」


「言い方が卑しいな、高卒は」


 兄は嘲笑うように鼻を鳴らした。


「お前には『扱う資格がない』と言ってるんだ。俺は経済学部卒だぞ? 資産運用も管理も完璧にこなせる。だがお前は計算もできなきゃ、社会の仕組みもわかってない。そんな奴に金を渡しても、どうせ無駄遣いして終わるだけだ」


 馬鹿にした視線。


 以前の私なら、悔しさで唇を噛んでいただろう。

 けれど今の私には、兄の言葉が負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。


 兄の目は「金」しか見ていない。

 その裏にある「責任」が見えていないのだ。


 私は深く息を吐き、静かに口を開いた。


「……わかったわ」


「あ?」


「遺産放棄、するわよ。お兄ちゃんの言う通りにする」


 予想外にあっさり承諾したからか、兄と母は拍子抜けしたような顔を見合わせた。

 私はバッグから印鑑を取り出しながら、淡々と続ける。


「その代わり、条件があるの」


「条件だあ? 立場をわきまえろよ」


「簡単なことよ。――お母さんの面倒は、今後すべてお兄ちゃんが見ること」


 私は真っ直ぐに兄の目を見据えた。


「私は遺産を放棄する。この家の権利も、預貯金も、すべてお兄ちゃんのものよ。だから当然、この家に住むお母さんの生活費も、介護が必要になった時の世話も、すべて『資産と家を受け取った長男』の責任。……そうよね?」


 兄は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。


「はっ、当たり前だろ。俺は優秀なんだ。母さんの面倒ひとりくらい、余裕で養えるわ。お前みたいな薄情者と一緒にすんな」


「そうよ遥。お兄ちゃんがいれば、私の老後は安泰なんだから。あんたの世話になんかならないわよ」


 母も勝ち誇ったように胸を張る。


 ……言質(げんち)は取った。

 彼らは自分たちのプライドのために、自ら逃げ道を塞いだのだ。


「わかった。じゃあ、忘れないように一筆書いてもらうわね。『母の扶養および介護は長男・翔太が全責任を負い、長女・遥には一切の負担を求めない』って」


「チッ、細かい女だな。いいよ、書いてやるよ。その代わり、二度と金よこせなんて言うなよ!」


 兄はサラサラと誓約書めいたものを書き殴り、拇印を押して私に投げつけた。

 私はそれを丁寧に折りたたみ、自分の鞄にしまう。


 そして、遺産放棄の書類に、迷いなく判を押した。


 ドン、という重い音が、私の中で何かが断ち切れる音のように響いた。


「これで満足?」


「ああ、せいせいした。さっさと帰れ、貧乏人」


「……ええ、帰るわ」


 私は立ち上がり、一度だけ部屋を見渡した。


 薄汚れた壁、傲慢な兄、思考停止した母。

 ここはもう、実家ではない。ただの「他人」が住む家だ。


「お母さん」


「……何よ」


「お兄ちゃんのこと、信じてるんだよね? 優秀だから大丈夫だって」


「当たり前じゃない。お兄ちゃんは自慢の息子よ。あんたとは出来が違うの」


 母のその言葉に、私は最後の手向けとして、精一杯の皮肉を込めて微笑んだ。


「そう。なら、安心ね。……お元気で」


 振り返らずに部屋を出る。


 背後から、「まったく、可愛げのない」「これだから高卒は」という陰口が聞こえたが、もはや雑音にしか感じなかった。


 玄関を出て、タクシーに乗り込む。

 車が走り出すと同時に、私はスマホを取り出し、着信拒否設定を開いた。


 『実家』『兄』『母』。

 すべての連絡先をブロックし、削除する。


「ふぅ……」


 大きく息を吐き出すと、不思議なほど体が軽かった。


 金銭的には損をしたかもしれない。

 けれど、私は手に入れたのだ。

 将来にわたる無限の負担からの解放と、真の自由を。


 窓の外を流れる景色は、来るときとは違って、どこまでも澄んで見えた。


 待っている健人と結の顔を思い浮かべ、私はようやく心からの笑顔になれた。


 ――これが、私の本当の人生の始まりだ。


 しかし、この時の私はまだ知らなかった。

 「優秀」なはずの兄のメッキが、わずか二年で剥がれ落ちることを。


 そして、彼らが再び、私の平穏を脅かすために姿を現すことを。


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