第3話 『葬儀の席』




 玄関の扉が開く。


 現れたのは、喪服姿の母だった。

 数年ぶりに見る母は以前より随分と老け込み、目元の皺が深くなっているように見えた。


「……やっと来たの。遅いじゃない」


 それが、数年ぶりに会う娘への第一声だった。

「元気だったか」も「よく来てくれた」もない。

 まるで、コンビニへ使いに行かせた子供が帰ってきたかのような口調だ。


「ご無沙汰しています、お母さん。……お父さんのこと、突然で驚きました」


「挨拶なんていいから、さっさと入って手伝いなさい。親戚の人たちにお茶を出して。あと、お兄ちゃんの喪服のアイロン掛けもね」


 私は息を呑み込み、小さく「はい」と答えて靴を脱ぐ。


 廊下は薄暗く、どこかカビ臭い。壁紙は黄ばみ、隅には埃が積もっている。

 かつて母は潔癖なほど掃除をする人だったはずだが、その気力すら失われているのだろうか。


 リビングに入ると、ソファに深々と腰掛け、スマホをいじっている男がいた。


 兄、翔太だ。


 少し腹が出て、顔つきが脂ぎっている。

 かつての「神童」の面影は、その傲慢な目つきに辛うじて残っているだけだった。


「よお。久しぶりだな、高卒」


 兄はスマホから目を離さず、鼻で笑った。


「お前、相変わらず貧乏くさい格好してんな。旦那の稼ぎが悪いんじゃないか? まあ、類は友を呼ぶって言うしな。低学歴同士、お似合いだよ」


「……お兄ちゃんこそ、久しぶりね」


 私は努めて冷静に返した。ここで怒鳴り合っても無意味だ。


 兄は私の反応がつまらなかったのか、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がった。


「俺は今、喪主としての準備で忙しいんだ。お前みたいなのんびり生きてる暇人とは違う。……おい、茶。喉渇いた」


「……自分で入れたら?」


「あ?」


 兄の目が鋭く細められる。

 その瞬間、台所から母が飛んできた。


「遥! 何言ってるの! お兄ちゃんはこれから大事な役目があるのよ! あんたみたいな役立たずが、お兄ちゃんの手足になって動くのは当たり前でしょ!」


 母は私を睨みつけると、甲斐甲斐しく兄にお茶を出し始めた。


 ああ、変わっていない。


 時が止まっているようだ。

 この家では、兄が王であり、母はその信者、そして私は奴隷。


 吐き気がした。


 ◇


 通夜、そして翌日の告別式。

 斎場には親族や父の知人たちが集まった。


 私は焼香客への挨拶や接待に追われ、座る暇もなかった。

 一方で兄は、親族たちの中心でふんぞり返っていた。


「いやあ、翔太くんは立派になったねえ」


「国立大学を出たんだって? お父さんも鼻が高かっただろう」


 親戚の叔父たちが兄を持ち上げる。

 兄は満足げにグラスを傾け、饒舌に語り出した。


「ええ、まあ。父の期待に応えるのが長男の役目ですから。大学で学んだ知識を生かして、これからは僕がこの家をしっかり管理していきますよ」


 管理? 実家のあの荒れようで?


 私が心の中で突っ込みを入れていると、兄の視線が不意にこちらに向けられた。

 ニヤリと嫌な笑みが浮かぶ。


「それに引き換え、あそこで働いてる妹は見ての通りでしてね。……昔から出来が悪くて、大学にも行けなかったんですよ」


 会場の視線が一斉に私に集まる。

 兄は芝居がかった溜息をついて見せた。


「父さんも嘆いていましたよ。『兄は優秀なのに、なんで妹はあんなに馬鹿なんだ』ってね。高卒でふらふらと家を出て行って、ロクに連絡も寄越さない。親不孝な娘ですよ」


「まあ、そうなの……」


「可哀想になあ、翔太くんも苦労するねえ」


 親戚たちが同情の目を兄に向け、私には軽蔑の視線を投げる。

 母もまた、兄の隣で深く頷いていた。


「本当ですよ。この子は昔から、私たちの言うことを聞かなくて……。翔太がいなかったら、うちはどうなっていたことか」


 公開処刑だった。


 父の死を悼む場ですら、彼らは私を「サンドバッグ」にして、自分たちの優位性を確認し合っているのだ。


 悔しい、と思うよりも先に、私は冷え冷えとした感情に支配されていた。


 この人たちは、可哀想だ。


 死んだ父の威厳と、過去の学歴という「メッキ」にしがみついて、必死に虚勢を張っている。


 私には夫がいる。愛する娘がいる。守るべき温かい家庭がある。

 けれど彼らには、このカビ臭い「共依存」の関係しかないのだ。


(ああ……ここはもう、私の居場所じゃない)


 改めて、確信した。

 怒りよりも、呆れと諦めが勝った。


 私はもう、この人たちに期待しない。

 愛されたいとも、認められたいとも思わない。


 ただの「他人」になるのだ。


「……遥さん、お焼香を」


 係の人に促され、私は祭壇の前に進み出た。

 遺影の中の父は、無愛想な顔でこちらを見据えている。


 私は手を合わせ、心の中で短く呟いた。


(さようなら。……これで、本当に終わりです)


 式が終わり、親族たちが帰り始めると、兄が私を手招きした。

 その顔には、獲物を追い詰めるような暗い欲望が浮かんでいた。


「おい遥。話がある。……遺産のことだ」


 来た。


 私は着物の袂をぎゅっと握りしめ、兄の前に立った。


「座れよ。……お前みたいな馬鹿でもわかるように、今後のことを教えてやるからさ」


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