第12話:祈りの色は、ナイルを越えて

第12話:祈りの色は、ナイルを越えて


一月四日の夜が、いよいよ深まっていく。 内海家のリビング。テレビの音量を最小に絞っても、画面から溢れる火光の残像が、壁に掛けられた家族写真のガラスに反射して、不気味に揺れていた。


「……ねえ、パパ」


聖が、膝の上で広げていたタブレットの画面と、手元の聖書を交互に見つめながら、困惑したような声を上げた。 「ベネズエラの人たち、ほとんどみんなカトリックさんなんでしょ? 九十パーセントもいるって書いてある。プロテスタントさんも、イスラム教の人も、いっぱいいる」


彼女の指先が、外務省のデータやウィキペディアの数字をなぞる。その指は、寒さのせいか、それとも理解できない世界の矛盾に触れたせいか、微かに震えていた。


「どうして同じ聖書を使っているのに、エホバの証人もこんなにいっぱいいるのに、戦争になっちゃうの? 十三万人も仲間がいるのに、どうして『どっかーん』を止められないの?」


四歳の海も、聖の膝に頭を乗せ、潤んだ瞳で集司を見上げた。 「神様、いっぱいいるのに……みんな、喧嘩してるの?」


集司は、喉の奥に熱い塊が込み上げるのを感じた。 かつての彼なら、ここで「宗教的折衷主義(シンクレティズム)」や「地政学的なエネルギー資源の争奪」といった言葉を並べて、論理的に片付けていただろう。だが、今、彼の鼻を突いているのは、テレビの向こう側から漂ってくるような、焦土の匂いだ。


「聖、海。それはね……」 集司は二人の肩を抱き寄せた。二人の体温が、厚手のセーター越しに伝わってくる。この確かな「生の熱」こそが、今、ベネズエラで奪われようとしているものだ。


「神様が喧嘩をしているんじゃないんだ。……人間の中にね、自分の信じたいことだけを信じて、隣にいる人の痛みを忘れてしまう『心の冬』が来ることがあるんだよ」


「心の冬?」


「そう。ベネズエラには、マリア・リオンサっていう独自の信仰を持つ人もいれば、カトリックの教会に毎日通うおばあさんもいる。イスラムのお祈りをするパパもいる。みんな、それぞれに神様を求めている。……でも、遠くの国の『ファラオ』みたいな人たちには、それが数字や石油にしか見えないんだ。二百六人に一人の割合でいる僕たちの仲間たちの顔も、彼らには見えていない」


聖が、ノートの余白に、色とりどりの小さな丸を描き始めた。 「赤はカトリックさん、青は仲間、緑はイスラムさん……。みんな違う色だけど、みんな『赤ちゃん』だったんだよね。シフラさんが、一生懸命取り上げた赤ちゃん」


「その通りだよ、聖」 集司は、聖が描いた無数の色とりどりの丸を見つめた。 「シフラさんが守ったのは、ヘブライ人の血だけじゃない。彼女が守ったのは、命そのものの『尊厳』だった。彼女の指先が触れた温もりには、宗教の名前も、石油の権利も書いてなかった。ただ『生きたい』という、神様から預かった重みだけがあったんだ」


「……パパ、またお祈りしていい?」 海が、小さな手をぎゅっと握り合わせた。 「今度は、カトリックさんも、イスラムさんも、みんな一緒にお守りくださいって。どっかーんする人の心に、シフラさんのピカピカのお手々が触りますようにって」


集司は、こらえきれずに目を閉じた。 一月四日。日常へ戻るための、最後の夜。 内海家のリビングは、いまや「宗教的折衷主義」という言葉では説明できない、純粋な「命の連帯」の場所へと変わっていた。


真白が、ZOOMの画面越しに深く、深く首を垂れているのが見えた。 「集司さん……人間って、本当にすごいです。教義の違いや歴史の壁を、子供たちは一瞬で飛び越えて、命のために泣くことができる。これこそが、私たちが聖書から学ぶべき、最も深い『霊性』の形かもしれません」


「真白さん。僕は今日、シフラとプアの物語を完結させました。でも、本当の物語は、この子たちの祈りの中に、今も書き足されている最中なんですね」


集司は、再びキーボードに向き直った。 それは、仕事のためではない。 今、この瞬間、地球の裏側で、同じ月を見上げている十三万九千百九十九人の奉仕者たち、そして二千八百万人を超えるすべての命に、この「指先の温もり」を届けるための、彼なりの不服従の記録だ。


「♪ お空はつながる どこまでも   ナイルの風も 運んでる   あなたの涙を 拭うため   誰かが今夜も 祈ってる……」


プアの歌の旋律に、聖が即興で言葉を乗せて口ずさむ。 その声は、冬の夜気を震わせ、内海家の窓を越え、筑波山を越え、そして太平洋を越えていく。


二百六人に一人の仲間。 それを取り囲む、数えきれないほどの、異なる色をした「神の子供たち」。 その一人ひとりが、シフラが命懸けで守った「芽」であることを、内海集司は、今、人生で初めて、理屈ではなく魂で理解していた。


「さあ、おやすみ。聖、海、空、陽」


集司は一人ひとりの頭に、シフラの磨かれた指先を真似て、そっと手を置いた。 「明日が来れば、世界は少しだけ、今よりも優しくなっていると信じよう。私たちが、こうして命を愛し続ける限りね」


一月四日の夜が、静かに明けていく。 内海家のリビングに残ったのは、エビの残り香と、お茶の余韻。 そして、どんなミサイルも石油の封鎖も届かない、深くて静かな「不服従の平和」だった。


その祈りの色は、ナイルの夕映えよりも鮮やかに、ベネズエラの夜明けを待ち受けていた。


(完)


いかがでしょうか。ベネズエラの多様な宗教背景と、それらすべてを「命」という一点で包み込む子供たちの慈愛、そして集司の作家としての覚醒を描ききりました。


題名は**『聖域の残響 ――一月四日、すべての命に捧ぐ――』**。


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シフラとプア 春秋花壇 @mai5000jp

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