第十一話:『ゴシェンの産声、ベネズエラの祈り ――一月四日の不服従――』
『ゴシェンの産声、ベネズエラの祈り ――一月四日の不服従――』
一月四日の夜。内海家のリビングは、先ほどまでの物語の余韻を切り裂くような、冷たい「現実の震え」に支配されていた。
集司がふと目をやったテレビの速報。そこに映し出されていたのは、美しいナイルの夕映えとは対極にある、赤黒い爆炎と硝煙の映像だった。 トランプ大統領の発表。マドゥロ拘束。石油タンカーの封鎖。 画面の中のテロップが「大規模な攻撃」「100人以上の殺害」という文字を無機質に吐き出している。
「パパ……また、どっかーんしてる」
海の小さな声が、凍りついた空気を震わせた。四歳の指先が、さっきまでエビの殻を剥いていた温かな感触を失い、恐怖で白く強張っている。
「ベネズエラの人たち、お家がなくなっちゃうの? シフラさんが守った赤ちゃんも、どっかーんされちゃうの?」
聖が、読書ノートを胸に抱きしめたまま、テレビ画面を凝視していた。彼女の瞳からは、大粒の涙が静かに溢れ、頬を伝ってノートの「虹色の空」を濡らしていく。
「……海、聖。これはね」 集司は言葉を探した。だが、彼がかつて得意としていた「論理」や「データ」は、今この瞬間、何の役にも立たなかった。 フェンタニルの嘘。エネルギーの利権。石油という名の黄金を巡る、大国たちのエゴ。 それらを子供たちに説明することに、何の意味があるのか。 子供たちの鼻腔を突いているのは、遠い国の火薬の匂いではない。自分たちの信じている「優しい世界」が、理不尽な論理によって「どっかーん」と破壊される、魂の焦げる匂いなのだ。
「ロシアも、アメリカも、どうしてみんな『どっかーん』が好きなの! 痛いのは嫌だって、みんな知ってるはずなのに!」
聖が叫んだ。その声は、かつてファラオの宮殿でシフラが上げた「命の叫び」と同じ響きを持っていた。 「パパ……神様、見てるんでしょ? 悪いことしてる人たち、見てるんでしょ?」
海が、集司の膝に顔を埋めて泣きじゃくる。その背中の震えは、内海家という安全な聖域さえも、世界の一部であることを集司に突きつける。
「……ああ、見ているよ。神様は、君たちの涙を一滴も漏らさずに見ていらっしゃる」
集司は、二人を強く抱き寄せた。 彼の手には、まだキーボードを叩いていた熱が残っている。その熱を、恐怖に震える小さな背中に分け与えるように。
「真白さん。……聞こえますか」
集司は、あえてZOOMの接続を切らずに語りかけた。画面の中の真白もまた、悲痛な面持ちで手を組んでいた。 「ベネズエラには、十三万人の仲間がいると言いました。でも、それ以上に、名前も知らない何百万人もの『聖』や『海』がいるんです。石油よりも、フェンタニルよりも、ずっと大切な、代わりのきかない命が」
「……ええ、集司さん。今、私たちの知性は、この理不尽な事態に絶望しています。でも、子供たちの『霊性』は、別の道を探そうとしています」
聖が、涙を拭いながら立ち上がった。 彼女は、書き上げたばかりのシフラの物語のページを、テレビ画面に向けて高く掲げた。
「シフラさんはね、王様が『殺せ』って言っても、神様を信じて『生かせ』って言ったんだよ。アメリカの王様も、ロシアの王様も、シフラさんの指先を見ればいいのに。……パパ、もう一度祈ろう。今度は、もっともっと大きな声で」
海も、泣き止んで手を組んだ。 「ベネズエラの赤ちゃんが、どっかーんされませんように。神様、お盾を貸してあげて。シフラさんのピカピカのお盾を、みんなに貸してあげて!」
二人の小さな祈りの声が、リビングの空気を変えていく。 それは、ニュースが語る「パワー(力)」や「戦略」といった重苦しい概念を、一瞬で無効化するような、純粋な光の奔流だった。
集司は、その光景を脳裏に焼き付けた。 大人たちは、石油のために海を塞ぎ、嘘のために命を奪う。 だが、子供たちは、学んだばかりの「慈愛」を、即座に、この壊れかけた世界を繋ぎ止めるための「接着剤」として使い始めている。
「……人間って、すごいね。霊的な生き物なんだね」
真白が、集会で呟いたあの言葉を、今度は集司自身が噛み締める番だった。 かつてAI小説家として物語を「演算」していた彼は、もうどこにもいない。 今、ここにいるのは、子供たちの涙に胸を痛め、その無垢な祈りに希望を見出す、一人の不器用な父親だ。
「さあ、みんな。夜は長いけれど、明けない夜はない。シフラさんが信じたように、私たちも、この祈りが届くと信じよう」
内海家のリビング。一月四日の最後の一刻。 テレビの中では、依然として炎が舞い、権力者たちが言葉の短剣を振るっている。 けれど、その最前線から遠く離れたこの場所で、二人の子供と一人の父が灯した「祈りの火」は、確かに、世界のどこかにいる十三万人の、そして名もなき数千万人の命を、精神の「初明り」で照らし出していた。
「パパ。神様、きっと『よしよし』ってしてくれるよね」
聖の問いに、集司は深く、深く頷いた。 「ああ。必ず。君たちのその心が、神様の盾の一部なんだから」
窓の外では、筑波山の影が深い闇に沈んでいる。 だが、その闇の向こう側、ベネズエラの空にも、同じ月が昇っている。 石油の匂いでも、火薬の匂いでもない。 いつかすべての人々が、家族と共にエビを剥き、平和に笑い合える日の「命の匂い」を、彼らはその胸いっぱいに吸い込んでいた。
(内海家の祈り・完)
内海家の物語と、世界の厳しい現状を交錯させて描きました。子供たちの純粋な反応こそが、現代の「ファラオ」に対する最大の不服従であり、希望ですね。
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