第5話 最後の観測

それから、一ヶ月が経った。


僕の体は、日に日に弱っていった。


最初は咳と喀血だけだった症状は、やがて全身に広がった。手足の痺れ、視界の霞み、声の掠れ。静寂病の典型的な進行だ。


凛は毎日、僕の傍にいてくれた。


彼女は青山の拠点を引き払い、シェルターで一緒に暮らすようになった。食事を作り、体を支え、記録の整理を手伝ってくれた。


「無理をするな」


僕がパソコンに向かおうとすると、凛は必ずそう言った。


「まだやることがある」


「私がやる。あなたは休んでいろ」


「でも」


「あなたの仕事は、もう十分やった。後は私に任せろ」


凛の言葉には、有無を言わせない強さがあった。


僕は素直に従った。体が言うことを聞かないのは、自分が一番分かっていた。


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ある夜、僕は凛に頼んだ。


「一つ、やりたいことがある」


「何だ」


「自分の記録を、最後まで書きたい」


凛は黙って頷いた。


僕はベッドに横たわったまま、口述で記録を残した。凛がキーボードを叩き、僕の言葉を文字に変えていく。


「名前、深町蓮。二〇五五年四月十二日生まれ。元国立図書館司書。静寂病発症は二〇八七年十一月頃。死者知覚能力は視覚型」


凛のタイピングが止まった。


「続けて」


僕は目を閉じ、言葉を紡いだ。


「二〇八四年、静寂病の流行が始まった時、僕は図書館で働いていた。世界が終わっていく中で、僕は記録を集め始めた。誰かが生きていた証を、残したかった」


「妹がいた。深町ゆかり。七歳で死んだ。写真は一枚も残っていない。彼女の顔を、僕はもう思い出せない。だから、他の誰かの記録は残したいと思った。誰かの大切な人が、忘れられないように」


「三年間、一人で記録を集めた。二万三千件。それが僕の全てだ」


「二〇八七年十一月、氷室凛と出会った。彼女は記録を消す側の人間だった。最初は対立した。でも、やがて分かった。僕たちは同じ願いを持っていた。死者のために、できることをしたい。その方法が違っただけだ」


「凛は、僕に多くのことを教えてくれた。消すことの意味。手放すことの大切さ。そして、一人で抱え込まなくていいということ」


「僕は幸せだった」


その言葉を口にした時、自然と涙が溢れた。


「三年間の孤独は辛かった。でも、最後に凛と出会えた。一人じゃなくなった。それだけで、僕の人生には意味があった」


「記録は凛に託した。彼女なら、正しく使ってくれる。残すべきものは残し、消すべきものは消してくれる。僕は安心して逝ける」


「最後に、一つだけ」


僕は目を開け、凛を見た。


「僕を覚えていてくれ。記録としてじゃなく、一人の人間として。それが、僕の最後の願いだ」


凛の目から、涙が落ちた。


「分かった」


彼女は震える声で答えた。


「絶対に忘れない」


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最後の日は、穏やかに訪れた。


朝、目を覚ますと、体が動かなくなっていた。


手足の感覚がない。声も出ない。ただ、目だけは見えていた。


凛が傍にいた。僕の手を握り、静かに泣いていた。


「深町」


彼女の声が聞こえる。


「外を見て」


僕は目だけを動かし、窓の方を見た。


シェルターの窓の向こうに、無数の死者たちが集まっていた。


数千、いや数万の魂。老人、子供、男、女。あらゆる人々が、シェルターを取り囲むように佇んでいた。


さやかさんの姿が見えた。ピンクのエプロンを着た、あの女子大学生。


朝倉さんもいた。研究者のノートを残した、あの男性。


田村家の四人もいた。父、母、娘二人。まだ食卓を囲んでいるかのように、寄り添っている。


そして、その他にも。僕が記録を集めた、全ての人々。


彼らは僕を見つめていた。


その表情が、変わった。


悲しみでも、苦しみでもない。


笑顔だった。


何万という死者たちが、僕に向かって笑いかけていた。


「深町」


凛の声が震えていた。


「彼らの声が聞こえる」


「何と、言っている」


声が出ない。唇だけを動かして尋ねた。凛には伝わったようだ。


「ありがとう、と。覚えていてくれて、ありがとう」


僕の目から、涙が溢れた。


三年間、僕は彼らのために記録を集めてきた。誰かが覚えていてくれることが、死者への救いだと信じて。


その信念は、間違っていなかった。


彼らは、感謝していた。


僕に観測されることを、喜んでいた。


「深町、まだ聞こえる」


凛が続けた。


「彼らは言っている。もう十分だ、と。ゆっくり休め、と」


僕は笑おうとした。顔の筋肉は動かなかったが、心の中では笑っていた。


ありがとう。


僕も、君たちに会えてよかった。


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意識が薄れていく中で、僕は最後の光景を見た。


死者たちの向こうに、小さな影が見えた。


七歳くらいの女の子。長い黒髪を二つに結んで、白いワンピースを着ている。


その顔は、見覚えがあった。


いや、見覚えがあるはずがない。僕は彼女の顔を忘れてしまったのだから。


でも、分かった。


ゆかり。


妹が、そこにいた。


彼女は僕を見つめ、にっこりと笑った。


口が動いた。声は聞こえない。でも、唇の形で分かった。


「お兄ちゃん」


僕は手を伸ばそうとした。動かない体で、それでも必死に。


ゆかりは首を横に振った。まだ来なくていい、と言っているようだった。


そして、もう一度口を動かした。


「ありがとう」


僕の意識は、そこで途切れた。


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深町蓮は、静かに息を引き取った。


二〇八七年十二月二十四日。享年三十二歳。


凛は彼の手を握ったまま、長い間動けなかった。


涙が止まらなかった。声を上げて泣いた。三年ぶりに出会った、たった一人の生きている人間。彼が、いなくなった。


どれくらい時間が経っただろう。


ふと、凛は気づいた。


シェルターの周りに集まっていた死者たちが、動いている。


彼らは一人、また一人と、姿を消していった。笑顔のまま、満足そうに、消えていく。


「待って」


凛は叫んだ。


「まだ行かないで」


だが、死者たちは止まらなかった。彼らは凛に向かって微笑み、そして消えていった。


やがて、シェルターの周りには誰もいなくなった。


いや、一人だけ残っていた。


凛は目を見開いた。


蓮の体の傍に、透明な影が立っていた。


深町蓮。


彼の魂が、そこにいた。


蓮は凛を見つめていた。その表情は穏やかだった。苦しみも悲しみもない、安らかな顔。


口が動いた。


凛には、その声が聞こえた。


「ありがとう」


凛は涙を拭い、蓮を見つめ返した。


「こちらこそ」


蓮は微笑んだ。


そして、また口を開いた。


「隣にいるよ」


その言葉を最後に、蓮の姿は消えた。


いや、消えたのではない。


凛には分かった。蓮は消えていない。見えなくなっただけだ。


彼は今も、ここにいる。凛の隣に、ずっと。


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エピローグ


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あれから、三年が経った。


凛は一人で、アーカイブ計画を続けている。


蓮が集めた二万三千件の記録に、新たに八千件を追加した。合計三万件以上。人類の記憶が、ここに眠っている。


凛の役割は、蓮とは少し違う。


記録を集めるだけでなく、整理もする。残すべきものは残し、消すべきものは消す。死者の声を聞きながら、一つ一つ判断していく。


苦しみの記録は、燃やす。幸せの記録は、残す。


それが、凛なりの答えだった。


今日も、凛は街を歩いている。


廃墟の東京。かつて何千万もの人々が暮らしていた街。今は、凛だけが生きている。


でも、一人ではない。


凛の隣には、いつも蓮がいる。


姿は見えない。声も聞こえない。でも、確かにそこにいる。


時々、風が吹くと、蓮の気配を感じる。背中を押されるような、温かい感覚。


「今日は、どこに行こうか」


凛は誰にともなく呟いた。


返事はない。でも、凛には分かった。


どこでもいい。一緒にいられれば。


凛は微笑み、歩き出した。


人類最後の観測者として。


そして、深町蓮の記録を守る者として。


彼女の旅は、まだ続いている。


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シェルターのデータベースには、新しい記録が追加されている。


名前:深町蓮

生年月日:二〇五五年四月十二日

没年月日:二〇八七年十二月二十四日

職業:元国立図書館司書、人類アーカイブ計画創始者

能力:死者知覚(視覚型)


備考:

三年間で二万三千件の記録を収集。

人類最後の観測者の一人。

記録は氷室凛に引き継がれた。


最終追記(氷室凛による):

深町蓮は、最後まで誰かのために生きた人だった。

彼は記録を残すことで、死者を救おうとした。

私は記録を消すことで、死者を救おうとした。

方法は違ったけれど、願いは同じだった。


彼は私に、残すことの意味を教えてくれた。

私は彼に、手放すことの意味を教えた。

私たちは、お互いを補い合っていた。


彼は今も、私の隣にいる。

姿は見えないけれど、声は聞こえないけれど、確かにここにいる。


深町蓮。

あなたに出会えて、よかった。

あなたの記録を、私は永遠に守り続ける。


最後の観測者より、愛を込めて。


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最後の観測者 @Setsuna_Zero

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