第4話 記憶の重さ
症状が出てから、十日が経った。
咳は日に日に酷くなっていた。血の量も増えている。朝起きると、枕に赤い染みができていることもあった。
凛には隠し通せていると思っていた。だが、彼女は医者だ。気づいていないはずがない。
それでも、彼女は何も言わなかった。僕が話すのを、待っているのかもしれない。
その日、僕たちは世田谷方面へ向かっていた。
凛が「行きたい場所がある」と言ったのだ。住宅街の中にある、一軒の家。彼女の患者だった家族が住んでいた場所らしい。
「どんな家族だったんだ」
僕は歩きながら尋ねた。
「四人家族。父、母、娘二人。静寂病で、全員亡くなった」
「全員」
「父親が最初に発症した。それから母、長女、次女の順に。三ヶ月で、家族全員がいなくなった」
凛の声は淡々としていた。だが、その奥に悲しみが滲んでいるのが分かった。
「私は、末期の父親を担当していた。穏やかな人だった。最期まで、家族のことを心配していた」
「そうか」
「彼は死ぬ前に、私に頼んだ。家族が全員亡くなったら、家を見に行ってほしい、と」
「なぜ」
「分からない。でも、約束した。だから、今日行く」
僕は黙って頷いた。
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世田谷の住宅街は、静かだった。
他の場所と同じように廃墟と化しているが、高層ビルがない分、空が広く見える。庭付きの一戸建てが並び、かつては穏やかな暮らしがあったことを想像させた。
目的の家は、住宅街の奥にあった。
白い壁に、青い屋根。小さな庭には、枯れた花壇がある。表札には「田村」と書かれていた。
「ここだ」
凛が立ち止まった。
玄関の扉は閉まっていた。鍵がかかっているかと思ったが、ノブを回すと簡単に開いた。
「お邪魔します」
凛が小さく呟いて、中に入った。僕も後に続く。
玄関には、四人分の靴が並んでいた。大きな革靴、女性用のパンプス、スニーカー二足。家族の靴だ。
廊下を進む。リビングに出た。
そこで、僕たちは足を止めた。
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リビングの中央に、食卓があった。
四人分の椅子。四人分の食器。皿の上には、何も乗っていない。だが、箸は綺麗に揃えられている。
そして、椅子には四人の姿があった。
死者だ。
父親らしい男性が、上座に座っている。向かいに母親。両脇に、十代の少女が二人。
彼らは、食事をしているように見えた。
箸を持ち、皿に手を伸ばし、口に運ぶ仕草をしている。皿の上には何もないのに、彼らは確かに「食べて」いた。
そして、会話をしているようだった。口が動いている。笑顔が浮かんでいる。時折、少女たちが肩を揺らして笑う。
僕には、その声は聞こえない。
「凛」
「うん」
「何と言っている」
凛は黙って聞いていた。その目には、涙が浮かんでいた。
「父親が、今日の仕事の話をしている。母親が、夕飯の献立を説明している。長女が、学校であった面白い出来事を話している。次女が、姉をからかっている」
「普通の、食事の風景か」
「そう。何でもない、普通の夕食」
凛の声が震えた。
「彼らは、ずっとこうしているんだ。毎日、毎日、同じ食卓を囲んで。誰かが見届けてくれるのを、待ちながら」
僕は何も言えなかった。
死者たちは、僕たちに気づいていた。父親が顔を上げ、僕たちを見た。その表情には、驚きと、そして安堵があった。
彼は立ち上がり、僕たちに向かって頭を下げた。それから、家族に何かを言った。
母親も、娘たちも、僕たちを見た。そして、四人揃って、同じ仕草をした。
両手を合わせ、頭を少し下げる。
「いただきます」の形だった。
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僕と凛は、リビングの隅に座っていた。
田村家の四人は、まだ食卓についている。食事を続けながら、時折こちらを見て微笑んでいる。
「彼らは、何を待っていたんだ」
僕は凛に尋ねた。
「見届けてもらうこと。自分たちが幸せだったことを、誰かに知ってもらうこと」
「幸せだった」
「そう。彼らは静寂病で死んだ。苦しい最期だったはずだ。でも、彼らが残したいのは、苦しみの記憶じゃない」
凛は田村家を見つめた。
「こうして家族で食卓を囲んでいた、幸せな記憶。それを誰かに覚えていてほしかった」
僕は胸が熱くなった。
記録を残すということ。それは、苦しみを残すことじゃない。幸せを残すことでもあるのだ。
「凛」
「何」
「君は、記録を消す側の人間だと言った」
「うん」
「でも、消したいのは苦しみの記録だけなんだろう。幸せの記録は、残したいと思っている」
凛は少し驚いたように僕を見た。
「そうかもしれない。考えたことなかったけど」
「僕たちは、対立しているわけじゃないんだ」
「どういう意味」
「僕は残す側、君は消す側。でも、目指しているのは同じだ。死者のためになることをしたい」
凛は黙って聞いていた。
「君は苦しみを消すことで、死者を楽にしようとしている。僕は幸せを残すことで、死者を忘れないようにしようとしている。方法は違うけど、願いは同じだ」
「同じ、か」
凛は小さく笑った。初めて見る、穏やかな笑みだった。
「そうかもしれないな。私たちは、同じ目的の別の側面を担っているのかもしれない」
田村家の四人が、また僕たちを見た。父親が何かを言っている。
「何と言っている」
「ありがとう、と。見届けてくれて、ありがとう」
僕は田村家に向かって、小さく頭を下げた。
「こちらこそ」
声に出して言った。彼らに聞こえているかは分からない。でも、伝えたかった。
「見届けさせてくれて、ありがとう」
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田村家を出たのは、夕方近くだった。
帰り道、僕は何度か咳き込んだ。血は出なかったが、胸の痛みは確実に増している。
凛が足を止めた。
「深町」
「何だ」
「いつから」
僕は立ち止まった。凛は真っ直ぐに僕を見つめていた。
「何の話だ」
「誤魔化さないで。私は医者だ。あなたの症状、最初から気づいていた」
僕は観念した。
「十日前から。最初は咳だけだった。今は、血も出る」
「静寂病だな」
「多分」
凛の表情は変わらなかった。だが、その目には深い悲しみがあった。
「なぜ黙っていた」
「心配をかけたくなかった」
「馬鹿」
凛の声が震えた。
「心配するに決まっているだろう。あなたは、私が出会った最後の生きている人間なんだ」
「凛」
「私を一人にする気か」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
凛は俯いた。肩が小さく震えている。
「私は、ずっと一人だった。静寂病が広まってから、誰とも話さなかった。死者の声は聞こえても、生きている人間の声は聞こえなかった」
「凛」
「あなたに会って、初めて話ができた。初めて、誰かと一緒にいられた。それが、もう終わるのか」
僕は凛の前に歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。
「まだ終わらない」
「でも、静寂病は」
「治る病気じゃないのは分かっている。でも、すぐに死ぬわけでもない。まだ時間はある」
凛が顔を上げた。その目には涙が光っていた。
「時間があるうちに、できることをしたい。記録を集めて、残して、そして君に引き継ぎたい」
「引き継ぐ」
「僕が集めた記録。二万件以上ある。それを、君に託したい」
凛は驚いたように僕を見つめた。
「私に」
「君しかいない。君は生き残る。僕の後を継いで、アーカイブを続けてくれ」
「そんな」
「頼む」
僕は真剣な目で凛を見つめた。
「僕は、記録を残すことしかできない。でも君は、残すことも消すこともできる。君なら、正しい判断ができる」
凛は長い間、黙っていた。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「分かった」
「本当か」
「引き継ぐ。あなたが集めた記録、全部。私が守る」
僕は安堵の息を吐いた。
「ありがとう」
「礼を言うのは私の方だ。こんな大事なものを、私に託してくれて」
凛は涙を拭い、顔を上げた。
「だから、簡単に死ぬな。まだ教えてもらうことがたくさんある」
「ああ、分かった」
僕たちは並んで歩き出した。
夕日が、廃墟の街を赤く染めていた。
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その夜、僕は凛をシェルターに招いた。
初めて、自分の拠点を見せることにした。
「ここが、アーカイブの本拠地か」
凛は壁一面のサーバーを見上げて呟いた。
「三年かけて集めた。二万三千件の記録がここにある」
「すごいな」
「データベースの使い方を教える。検索の仕方、新しい記録の登録方法、バックアップの取り方」
「今夜から」
「時間がないからな」
凛は頷いた。
僕たちは、夜通しでシステムの説明をした。凛は飲み込みが早かった。さすがは医者だ。複雑な手順も、一度で覚えてしまう。
明け方近く、僕は一つのファイルを開いた。
「これは」
凛が画面を覗き込む。
「僕の記録だ」
画面には、僕自身のプロフィールが表示されていた。
名前:深町蓮
生年月日:二〇五五年四月十二日
職業:元国立図書館司書
能力:死者知覚(視覚型)
備考:人類アーカイブ計画創始者
「自分の記録も、残していたのか」
「当然だろう。僕も、いつかは死ぬ。その時、誰かが僕のことを覚えていてくれるように」
凛は黙って画面を見つめていた。
「ここに、もう一つ追加してほしい」
僕はキーボードに手を伸ばした。
備考欄に、新しい一文を加える。
「記録は氷室凛に引き継がれた」
「深町」
「これで、僕の記録は完成だ。後は、君が続きを書いてくれ」
凛は何も言わなかった。ただ、静かに涙を流していた。
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夜明けの光が、シェルターの窓から差し込んできた。
僕と凛は、並んで座っていた。
「深町」
「何だ」
「怖くないのか。死ぬのが」
僕は少し考えてから答えた。
「怖くないと言ったら嘘になる。でも、後悔はない」
「後悔がない」
「三年間、記録を集め続けた。二万件以上の人生を、残すことができた。それを君に託せる。十分だ」
凛は僕を見つめた。
「私は、あなたのことを忘れない」
「ありがとう」
「記録としてじゃない。一人の人間として、覚えている」
僕は微笑んだ。
「それが、一番嬉しい」
窓の外で、死者たちが佇んでいるのが見えた。
彼らは、僕たちを見つめている。その表情は、いつもと少し違っていた。
悲しそうではなかった。心配そうでもなかった。
穏やかで、優しい表情だった。
まるで、僕たちを見守っているかのように。
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