第5話:『瓦礫の静止画』
城内へ踏み込んだ男を待ち受けていたのは、凍りついたような静寂ではなく、この国の「終わり」という瞬間が、悪夢の中で永久に引き延ばされ、膿のようにじくじくと溶け出し続けている、悍ましい停滞の風景だった。
視界の至るところに、不自然な瓦礫の山が築かれている。それが敵国の砲撃によるものなのか、あるいは巨大な魔術が爆ぜた痕跡なのか。あるいは、この城そのものを外側から握り潰そうとした「巨大な何か」の爪痕なのか――。もはや判別すらつかないほど、破壊の形は無機質で、不条理だった。
高く開かれた天井からは、光を遮るように細かい砂埃が、あてもなく空を舞っている。光を反射することもなく、ただ命の終わりを告げる砂時計の砂のように、男の肩や煤けたパレットナイフへと、音もなく降り積もっていく。この場所では、埃さえもが死の重みを持って沈殿しているかのようだった。
耳を塞ぎ、あるいは目を覆うようにして固まった彫像たちの間を抜け、男はさらに奥へと足を進めた。床に敷かれた黒ずんだ真紅の絨毯は、所々で捲れ上がり、その下から覗く白亜の床には、この国が力尽きた瞬間に穿たれたであろう、巨大な亀裂が走っている。
(……左へ曲がれば、おそらく騎士たちの控え室。その先には、大広間へ続く階段があるはずだ)
男の足は、迷うことなく回廊の分岐を選んでいた。国も時代も違うだろうが、城という建築物が持つ「機能」の根幹は、男の記憶の底にこびりついていた。かつて従軍絵師として、軍事拠点を写生するために幾度となく異国の城を歩き回された経験が、本能的な方位磁針となって彼を導いていたのだ。
生活の営みは、どこにも感じられない。かつて聞こえたはずの兵士の足音や、侍女たちの声はすべて「白」という名の墓標に埋め殺されている。 しかし、それでも。この廃墟と化した城の奥底から、確かに聞こえてくるものがあった。
――ズ、ズ……。 ――……カサリ。
風が瓦礫を撫でる音ではない。誰かが、あるいは「何か」が、この死んだ国の一部として今なおここに「在る」という生理的な予感。
角を曲がるたびに、誰かの視線が男の背中をじっと覗き込んでいるような錯覚。
その角を曲がった先で男が捉えたのは、かつての侍女であったろう「白く乾いたモノ」だった。 彼女の肌は石膏のような質感に変質し、顔には目も鼻もなく、ただ滑らかな空白があるだけだ。彼女は、何も見えていないはずの頭部を壁に向け、石と化した雑巾を、機械的な動作で動かしていた。
キュッ、キュッ、という乾いた摩擦音が回廊に響く。壁は既に崩落し、磨くべき装飾などどこにも残っていない。それでも彼女は、かつてそこにあった美しさを守るかのように、意志のない腕を動かし続けていた。
だが、その「静止画」は、男という異物を認めた瞬間に牙を剥いた。 侍女は突如としてその動作を止め、ギギ、と不快な音を立てて顔を男へと向けた。彼女は石化した雑巾を床に捨てると、砕けた大理石の破片を拾い上げ、音もなく男へと詰め寄った。侵入者を排除せんとする、盲目的な忠誠心の成れの果てだ。
さらに廊下の先からは、甲冑を纏った「見回り」の兵士が槍を構えて突進してきた。彼らは恐怖も憎しみもなく、ただ掃除や巡回と同じ「業務」として男を殺そうと群がり、城の防御本能として襲いかかる。
男は彼らとの無益な消耗を避けるように、鋭い一閃で路を切り開き、回廊を駆け抜けた。背後からは、石の具足が床を叩く不気味な足音が追いすがってくる。
背後からは、石の具足が床を叩く不気味な足音が追いすがってくる。男は振り返ることなく、砂埃の舞う回廊を駆け抜けた。その道中、曲がり角や瓦礫の影に、かつてこの城に仕えていたであろう者たちの姿を幾度も見かける。
ある者は意味を失った見回りを続け、ある者は主人の私室であったろう崩れた扉の前で直立不動の姿勢を保っている。それらは男という「異物」を認めた瞬間、一様にギギ、と関節を軋ませ、殺意を持って動き出した。
男は迷いを断ち切るように、パレットナイフの腹をなぞる。 煤けた鉄の刃が鋭い「剣」へと変質し、迫りくる兵士の槍を弾き飛ばした。続く一閃が、石化した侍女が振り上げた燭台を真っ向から両断する。
「……くっ」
剣を振るうたび、硬い石が砕ける乾いた手応えが腕に響く。彼らは既に命を失い、色彩を抜かれた残滓に過ぎない。分かってはいても、かつてここで懸命に生きていたであろう人々の成れの果てを、己の手で粉砕していくことに、男の心はひどく痛んだ。
救いとは、時に忘却そのものを指す。ヴェニルの言葉を借りるなら、これは「供養」ですらない、ただの残酷な破壊なのかもしれなかった。
「ハァ、ハァ……」
男は荒い息を整え、瓦礫の山に身を潜めた。 前方の回廊には、まだ数人の「衛兵」が彷徨っている。正面から戦えば切り抜けられるだろうが、無意味な殺生を重ねるには、男の精神(こころ)はあまりにも摩耗しすぎていた。 男は従軍絵師として戦場を渡り歩いた経験を呼び起こす。風の向き、足音の反響、そして死角。 息を殺し、自身の存在を城内の砂埃に溶け込ませるようにして、男は慎重に、かつ確実に歩を進めた。
不意に、周囲の空気が変わった。
これまでの腐食した静寂とは異なる、重苦しい「圧力」が扉の向こうから染み出している。
たどり着いたのは、ひときわ重厚な装飾が施された、大食堂の扉の前だった。 追っ手たちの足音は、この扉の数メートル手前でぴたりと止まっている。彼らはその境界線を越えることを、本能的な恐怖、あるいは絶対的な禁忌として刻まれているようだった。
扉の向こうからは、今まで以上に鮮明な、そして悍ましい「生活の音」が漏れ出していた。
――カチャ、カチャ。 ――クスクス、ハハハ……。
食器の触れ合う乾いた音に混じり、楽しげな、しかしどこか虚ろな談笑の声が重なり合う。 男は、砂埃で汚れた手のひらを、その冷たい扉へと置いた。
男は、喉にせり上がる砂埃と緊張を飲み込み、重厚な扉に手をかけた。ゆっくりと、だが拒絶を許さない力で押し開く。蝶番が悲鳴を上げ、その隙間から溢れ出したのは、甘ったるい死臭と、秩序を欠いた「晩餐」の重苦しい喧騒だった。
大食堂の長テーブルを囲んでいたのは、十人ほどの亡者たちだ。
かつてこの城を支えていたであろう職種の異なる者たち――絹のドレスを石膏で固めたような貴婦人、煤けたエプロンを着たままの料理人、分厚い眼鏡を歪ませた書記官、そして威厳を失った狩人。
彼らが皿の上に載せていたのは、到底「料理」とは呼べない代物だった。
城の壁から剥がれ落ちた漆喰の塊。ひどく汚れた羊皮紙の束。どこからか拾い集めた錆びた釘の山。
そして――それらに混じり、一際生々しい赤みを帯びた「何か」が横たわっている。 それは、既に色を失ったこの国で唯一、熱を持ったまま凝固したような、湿り気を帯びた繊維質の塊。かつては温かな鼓動を伝え、誰かの名を呼ぶために動いていたであろう、名もなき「生の断片」だった。
それにも関わらず、彼らには身に染み付いた「作法」が呪縛のように残っていた。 書記官は釘を銀のフォークで一本ずつ丁寧に突き刺し、貴婦人は漆喰と「赤い繊維」を優雅にナイフで切り分けて、口のない顔面へと運び続けている。
カチャ、カチャと、硬い石が銀器を叩く音だけが、虚しく室内に反響していた。
男の侵入によって、その狂った歯車が止まった。
男は何も言わない。ただ、その光景を絵師の冷徹な眼差しで見つめ、パレットナイフの柄を握り直す。狂人たちが一斉に顔を上げた。
彼らは食事を中断し、手にしていたナイフやフォーク、あるいは食事そのものであった錆びた釘を握りしめ、言葉にならない呻き声を上げて席を蹴立てた。
理解も対話も介在しない。ただ、この静止した「幸せな晩餐」を汚した異物への、本能的な憎悪。
男は無言のまま、脳裏にあの「女学者」の冷徹な知識を呼び覚ます。
鉄の刃が青白い光を帯びて伸長し、複雑な紋様が刻まれた「杖」へと変質した。
襲いかかる狂人たちに対し、男は杖を鋭く突き出す。 男の意志に呼応し、杖の先から魔力の結晶である「つぶて」が、弾丸のような速度で次々と射出された。
ドシュ、ドシュと、硬質な衝突音が食堂に響き渡る。男は一心不乱に、光の弾丸を狂人たちへ喰らわせ続けた。 飛びかかろうとした料理人の胸をつぶてが貫き、その体を石の粉へと変えていく。書記官が振り上げた銀器を粉砕し、貴婦人のドレスを散らす。
感情を殺し、ただ機械的に、正確に。
食卓を囲んでいた悲しき残滓たちが、光の衝撃に弾け、一輪の花が散るように白く乾いた塵へと還っていく。 男は、砂埃の舞う食堂の中で、最後の一人が膝を折るまで、その手を止めることはなかった。
男が放った光のつぶてが最後の一人を塵に還すと、大食堂には再び、耳が痛くなるような静寂が戻った。 男はパレットナイフを握り直し、荒い息を整える。足元には、砕け散った石の食器と、狂人たちが貪っていた「生の断片」が無惨に散らばっていた。
その沈黙の中、食堂の最奥にある調理場(キッチン)の扉の向こう側から、震えるような声が漏れた。
「……あ、ああ……いなくなりましたか……?」
それは、鈴を転がすような清廉さと、底知れない恐怖を湛えた女性の声だった。
男は何も答えず、警戒を解かぬままキッチンへと踏み込む。そこには、淡く青白い光を放ちながら、石化した釜の影に身を潜めていた王女の魂があった。
「……来てくださったのですね。色彩を運ぶ方」
彼女は、かつてこの国の繁栄を象徴したであろう優雅な所作で、静かに頭を垂れた。
「申し遅れました。私はヘーメラ。この国、ヘーメロカリスの王女です」
ヘーメラ――。
その名は、この国に咲き誇っていたはずの「デイリリー(ヘーメロカリス)」に由来し、本来ならば『一日の輝き』を意味するものだった。しかし今、彼女の体は色を失い、死を拒絶する灰色の停滞の中に沈んでいる。
「ヘーメロカリスの花は、一日限りの美しさを懸命に咲き誇ります。移ろい、枯れるからこそ、その色彩は尊いものでした……。けれど、父上が病に伏せてから、すべてが変わってしまったのです」
ヘーメラ王女は、キッチンの冷たい空気の中に、消え入りそうな声で真実を語り始めた。
「政治を、そして私たちの運命を握ったのは、父が最も信頼していた宰相アルカディアスでした。彼は、死という『一日の終わり』を病的に恐れました。彼は亡国に伝わる『永遠の血』という禁忌の伝説に取り憑かれ、それを手に入れるために外征を繰り返し、この国を戦火と飢えに突き落としたのです」
王女の言葉は、男の脳裏に「記憶の絵」を投影していく。
「民の怒りは、表から姿を消した宰相ではなく、残された私たち兄妹へと向けられました。民衆が蜂起し、この城が瓦礫の山へと変わる中……アルカディアスはついに、略奪の果てに求めた『永遠の血』をその身に取り込んだ。……けれど、それは本物ではありませんでした」
ヘーメラは、自らの透ける手を見つめ、悲痛な微笑を浮かべた。
「宰相が手に入れたのは、永遠の命などではなく……。この国を、そして私たちを、枯れることさえ許されぬ『白く乾いた呪い』へと変える、偽りの血だったのです。名は『一日の輝き』でありながら、明日に辿り着くこともできず、私たちはこの瞬間に閉じ込められました」
「アルカディアスは今、王座の間で、その偽りの血の渇きに狂いながら座っています。どうか……アルカディアスを止めてください。これ以上、この国の終われない苦しみを、彼の渇望に捧げさせないで……」
男は何も答えず、ただ静かにパレットナイフを握り直した。 その沈黙を肯定と受け取ったのか、ヘーメラは淡く発光する体を揺らし、祈るように両手を胸の前で組んだ。
へーメラは霊体の体でただ一輪の小さな花を男に託した。
「お願いします……色彩を運ぶ方。どうか、これを持って行ってください」
彼女が差し出したのは、実体を持たない霊体が、自らの残った命の輝きを振り絞って編み上げた「一輪の花」だった。
それは、この国の名の由来であり、朝に咲き、夕暮れには必ず萎れる「一日花(デイリリー)」――ヘーメロカリス。この国ですべての花が石と化し、色が剥ぎ取られた中で、その一輪だけが、燃えるような、けれど今にも消えてしまいそうな鮮烈な黄色を宿していた。
「この花は、移ろい、枯れるからこそ尊い『時間』の象徴です……けれど、終わらない今日に、救いなどありません」
男がその花に触れると、花は実体を失い、一筋の鮮烈な黄色の色彩となってパレットナイフに吸い込まれた。それは「英雄の記憶」とは異なる、この世界の本来あるべき理(ことわり)――**「刹那の記憶」**として男の中に宿った。
男は翻り、砂埃の舞うキッチンを後にした。背後でスイングドアが小さく軋む音を聞きながら、彼は王座の間へと続く、長く暗い回廊へと足を踏み出す。
その背中を見送りながら、王女ヘーメラは独り、言葉にならぬ想いを胸の内に沈めていた。
(……ああ、あの方も。あの場所と同じ、どこか遠い場所から、この終わった国へ迷い込んでしまったのですね)
彼女がこの場所で目にした「異邦の者」は、彼が初めてではなかった。 かつて、どこからともなく現れ、この城の深部へと消えていった人間たちがいた。
彼らは全て必ずしも戦うための者たちではなかった。ある者は分厚い本を抱えた学者であり、ある者は奇妙な荷を背負った商人であった。彼らもまた、必死に戦い、何かを求め、あるいは何かに導かれて、この理不尽な静止を打ち破ろうと奥へ向かった。
しかし、彼らがその後どうなったのかを、ヘーメラは知らない。この城のどこかで力尽き、男が切り伏せてきたような「白く乾いたモノ」の一部となったのか。あるいは、宰相の狂気に呑み込まれてしまったのか。
○テキストメモ【設定断片】○
【枯死した花弁】
王女ヘーメラの名の由来となった、一日限りの美しさを誇る花。
今では色彩を失い、砂埃と共に城の隅に沈殿している。 「一日の輝き」を意味するその花が二度と開かないのは、この国の時間が宰相アルカディアスの手によって、明日という名の出口を塞がれたからに他ならない。
【名もなき者の遺留品】
この城の奥底で力尽きた、かつての異邦人たちの持ち物。
分厚い学術書、あるいは古びた商人の鞄。
彼らが何に導かれ、何を求めてこの地へ至ったのかは、今や知る由もない。 ただ、色彩を運ぶ者を見送る王女の瞳には、 彼らと同じ末路を辿るであろう男への、静かな慈悲だけが宿っていた。
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