第12話 深夜のテレビ局へ、「ウーバー・アビコ」が出動します
それは、草木も眠る丑三つ時……とまでは言いませんが、良識ある公務員や会社員ならとっくに夢の中であるはずの、平日の午後11時30分のことでした。
私が布団に入り、明日の朝食の献立(納豆にするか、卵かけご飯にするか)という極めて重要な議題について脳内会議を開いていたその時、枕元のスマホがけたたましい着信音を響かせました。
画面には『幕張』の二文字。
嫌な予感しかしません。
この時間に電話が来るということは、ロクな用件ではないからです。
「はい、もしもし。就寝中ですので、手短にお願いします」
私が不機嫌全開で応答すると、受話器の向こうから、悲鳴のような怒号が聞こえてきました。
『助けてくれ!舞のやつが楽屋に立てこもりやがった!』
「はあ。それは警察の管轄では?」
『違う!「お腹空いた」って動かないんだよ!コンビニの飯は嫌だ、ロケ弁も嫌だ、我孫子さんの作った「温かいスープ」じゃないと歌わないって……あと30分で歌収録なんだぞ!?』
私は天井を仰ぎました。
幼児退行も甚だしいですね。
彼女は国民的アイドルですか、それともイヤイヤ期の三歳児ですか。
「プロ意識が欠如していますね。説教してください」
『したよ!そしたら「エネルギー切れです」って電池切れたロボットみたいになっちまって……頼む!今から持ってきてくれ!タクシー代は出す!倍出す!』
やれやれ。
私は管理栄養士であって、深夜の宅配サービスではありません。
しかし、もしここで彼女が栄養不足で倒れでもしたら、私の「リモート指導」の名折れになります。
それに、深夜の空腹がいかに判断力を鈍らせるか、私はよく知っています。
「分かりました。ただし、タクシー代は経費で落としてください。あと、深夜割増料金として、私の睡眠時間を返していただきます」
『恩に着る!汐留のスタジオだ、裏口にパス出しとく!』
通話が切れました。
私はのっそりとベッドから這い出し、ジャージからチノパンへと着替えました。
さて、調理開始です。
所要時間は15分。
深夜に食べても胃にもたれず、かつ短時間で身体を温め、即座にエネルギーになるもの。
冷蔵庫には、手羽元と長ネギ、そして生姜。
決まりですね。
圧力鍋を取り出します。
手羽元を水から入れ、たっぷりの酒、スライスした生姜、長ネギの青い部分を投入。
加圧すること10分。
その間に、もち米……はありませんので、普通の白米を少量用意します。
圧力が下がったら蓋を開けます。
手羽元は箸で崩れるほどホロホロになっています。
そこに白米と、刻んだネギ、クコの実(薬膳用として常備しています。職業病ですね)を加え、塩のみで味を整える。
完成したのは、『即席・手羽元のサムゲタン風粥』
鶏肉のコラーゲンとタンパク質。
生姜のジンゲロールが加熱されてショウガオールに変化し、深部体温を高める。
そしてお粥の糖質が、枯渇した脳のガソリンになる。
完璧な「深夜のドーピング食」です。
私はそれを保温性の高いスープジャーに詰め込み、タクシーを拾いました。
◇
午前0時35分。
煌びやかなテレビ局の裏口に、スープジャーを抱えた怪しい中年男(私)が降り立ちました。
警備員にパスを見せ、迷路のような局内を進みます。
すれ違うのは、派手な衣装のタレントや、死んだ魚のような目をしたADたち。
場違い感が凄まじい。
私は極力気配を消し、壁と同化しながら指定された楽屋を目指しました。
『ベイサイド・エンジェルズ様』と書かれた貼り紙のあるドアの前で、幕張氏が貧乏ゆすりをして待っていました。
「お、遅ぇよ!」
「法定速度を守った結果です。で、患者は?」
「中だ。機嫌直してくれよ、マジで……」
幕張氏に促され、楽屋に入ります。
広い部屋の隅にあるソファで、ステージ衣装を着た浦安舞さんが、ぐったりと項垂(うなだ)れていました。
その姿は、まるで充電切れのウサギのぬいぐるみです。
「浦安さん」
私が声をかけると、彼女の耳がピクリと動きました。
そして、のろのろと顔を上げ――私を見た瞬間、瞳にハイライトが戻りました。
「あびこさん!」
「大声を出さない。カロリーの無駄です」
私は近づき、サイドテーブルにスープジャーを置きました。
「深夜のデリバリーです。まったく、貴女は私を何だと思ってるんですか」
「えへへ、私の、専属シェフ?」
彼女は悪びれもせず笑い、蓋を開けました。
湯気と共に、生姜と鶏出汁の優しい香りが漂います。
「わあ!いい匂い……」
「サムゲタン風のお粥です。手羽元の骨は抜いてありますから、そのまま飲めますよ」
彼女はスプーンですくい、フーフーと息を吹きかけました。
その唇の動き。
ステージ用のリップグロスが塗られた唇は、艶々としていて、まるで熟した果実のようです。
いけません。
深夜のテンションも相まって、視覚刺激が強すぎます。
私は努めて冷静に、彼女の食事風景を観察(という名の監視)しました。
「んんっ……!」
一口食べた彼女が、恍惚の表情を浮かべました。
「あったまるぅ……。胃に染みるよぉ……」
「生姜を多めに入れましたからね。血行が促進され、声帯の動きも良くなるはずです」
「ん、んぐ、おいしい……」
彼女は夢中で食べ進めます。
口の端に、白いお米が一粒つきました。
それを舌先でペロリと舐め取る仕草。
……だめだ。
これはR15指定です。
深夜放送でもギリギリのラインです。
私は慌てて視線を天井へ逃がしました。
ここにあるのが監視カメラだけでよかった。
もし全国放送されていたら、視聴者の半数が尊死していたことでしょう。
わずか5分で、スープジャーは空になりました。
「ごちそうさまでした!生き返ったぁ」
「それは何よりです。さあ、仕事に行きなさい。スタッフさんをお待たせしているんでしょう」
私が促すと、彼女は立ち上がりスカートの裾を直しました。
そして、私の目の前までタタタッと駆け寄り――。
チュッ。
不意に、私の頬に、柔らかく温かいものが触れました。
「!?」
私が硬直している間に、彼女はニカっと笑い、ウインクを飛ばしました。
「ありがと!これ、チップね!」
言い逃げです。
彼女は軽やかな足取りで楽屋を飛び出していきました。
後には、呆然と立ち尽くす私と、甘いグロスの残り香だけ。
チップ?
これが?
45歳のおっさんの頬に、国民的アイドルのキスマーク。
これはチップというより、時限爆弾です。
もし誰かに見られていたら、私は明日、東京湾の底で魚の餌になっているかもしれません。
「おい、どうした?舞は行ったか?」
入れ違いに入ってきた幕張氏が、私の顔を見て怪訝そうに眉を寄せました。
「ん?なんだお前、顔真っ赤だぞ。のぼせたか?」
「ええ。少々、生姜の効果が強すぎたようです」
私は手の甲で頬を隠し、背を向けました。
心拍数が異常値を示しています。
不整脈の前兆か、それとも――。
いや、認めませんよ。
これはあくまで、深夜の自律神経の乱れによる生理現象です。
私は深く息を吐き、熱を持った頬を冷ましながら、深夜のテレビ局を後にしました。
やれやれ。
どうやら私は、とんでもない「毒」を盛られてしまったようです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます