第10話 画面越しの歌姫と、二人だけの「とろみ」の暗号
嵐のような3日間が過ぎ去り、私の部屋には静寂という名の日常が戻ってきました。
金曜日の夜、20時。
私の目の前にあるのは、スーパーの惣菜コーナーで「30%引き」のシールが貼られたアジフライと、第3のビール。
そして、色気もへったくれもない、独身中年男性の晩酌風景です。
……味気ないですね。
つい数日前まで、このテーブルの向かいには国民的アイドルが座り、「おいしい!」と目を輝かせて私が作った料理を食べていたのですから。
アジフライを一口齧ります。
衣が分厚く、油が酸化しています。過酸化脂質の味がします。
栄養学的にも最悪ですが、何より「わびしさ」という調味料が効きすぎていて、喉を通すのに苦労します。
私は逃げるようにテレビのリモコンを手に取りました。
金曜夜の某有名音楽番組。
生放送の画面には、華やかなステージセットと、色とりどりの衣装を纏ったアーティストたちが映し出されています。
『――続いては、活動再開後、初のテレビ出演となります!ベイサイド・エンジェルズの皆さんです!』
司会のタモリ……ではない、サングラスの司会者がコールしました。
歓声と共に、カメラがひな壇を抜きます。
そこに、彼女はいました。
センターポジションに立つ、浦安舞さん。
純白の衣装に身を包み、キラキラとした照明を浴びて微笑むその姿は、まさに「天使」そのものです。
私のジャージを着て、ソファでよだれを垂らして寝ていた小娘と同一人物とは、とても思えません。
(ふむ)
私はビールを置き、職業人としての目で画面を凝視しました。
これはファンの眼差しではありません。
「納品後の検品」です。
まず、肌のコンディション。
ハイビジョンの容赦ない画質にも耐えうる、滑らかな質感。
ファンデーションのノリも良好。
豚レバーとブロッコリーのビタミンC・鉄分同盟が、いい仕事をしています。
次に、ボディライン。
二の腕やデコルテに、健康的なハリが戻っています。
タンパク質(アミノ酸スコア100)の摂取により、筋肉の分解(カタボリック)が抑制され、合成(アナボリック)に転じた証拠です。
そして何より、表情。
作り笑顔ではありません。
眼輪筋がしっかりと収縮した、本物の笑顔(デュシェンヌ・スマイル)
脳内のセロトニン濃度が適正値に保たれているようですね。
「合格ですね。これならクレームは来ないでしょう」
私は独りごちて、再びアジフライに箸を伸ばしました。
彼女は雲の上の住人。
私は地を這う管理栄養士。
住む世界が違うのです。
3日間の同棲ごっこは、ほんの気まぐれな神様のバグだったのだと、そう割り切るしかありません。
曲紹介の前の、短いトークコーナーが始まりました。
『浦安さん、体調不良でのお休みでしたが、もう大丈夫なんですか?』
「はい!ご心配おかけしました!今はもう、エネルギー満タンです!」
彼女がガッツポーズを作ります。
あざとい。
実にあざといですが、可愛いので許されます。
『お休み中は、どんな風に過ごしていたんですか?やっぱり、高級なものでも食べて静養を?』
司会者が尋ねました。
私はビールを飲み込みながら、「余計なことは言うなよ」と心の中で念じました。
まさか「知らないおっさんの家で、ジャージ姿でグラタン食べてました」なんて言えるはずがありません。
適当に「実家で母の手料理を〜」とか「ハワイで〜」とか嘘をつくのがアイドルの作法です。
画面の中の浦安さんは、カメラに向かって意味深に微笑みました。
そして、とんでもないことを口走ったのです。
「えっとですね……すごく優しい『専属シェフ』さんに、特別なご飯を作ってもらってました」
ブフォッ!!
私は盛大にビールを吹き出しました。
鼻の奥に炭酸が逆流し、激痛が走ります。
専属シェフ?
誰のことですか。
私ですか。
特養の給食のおじさんがいつからシェフに昇格したのですか。
『へえ、専属シェフ!それはすごい。どんな料理なんですか?フレンチ?』
「うーん、もっとすごい料理です。……私の弱った身体に合わせて、とろとろに煮込んでくれたり、消化にいい魔法をかけてくれたり……」
彼女はそこで言葉を区切り、カメラのレンズを――いや、その向こうにいる私を、真っ直ぐに見つめました。
「世界一やさしい、『介護食』みたいな手料理でした」
スタジオが、一瞬の静寂のあと、ドッと沸きました。
「介護食!?」という司会者のツッコミと、「えーっ!?」という観客の驚き。
彼女はイタズラっぽく舌を出して笑っています。
「うっそでーす!でも、本当に体が温まる、魔法の料理だったんです。……ね?」
最後の一言。
そして、彼女は右手を口元に当て、フーフーと何かを冷まして食べるようなジェスチャーをしました。
あの夜。
私が彼女に、無理やり雑炊を食べさせた時の仕草。
「バカか、あいつは」
私はティッシュでテーブルのビールを拭きながら、悪態をつきました。
ですが、私の顔は、どうしようもなく緩んでいたことでしょう。
公共の電波を使って、私信を送ってくるなんて。
とんだ放送事故です。
しかし、その事故のおかげで、私の胸の中にあった空洞が、少しだけ埋まったような気がしました。
曲が始まります。
アップテンポなダンスナンバー。
激しく踊る彼女を見ながら、私はふと、冷静な計算を始めました。
(……あの運動量だと、消費カロリーは1曲あたり50kcal以上。発汗によるミネラル損失も大きい。収録後は速やかにアイソトニック飲料と、速効性の糖質(バナナなど)を摂取すべきですが、あの無能マネージャーはちゃんと用意しているでしょうか)
心配です。
非常に心配になってきました。
あのマネージャーのことです。
またカフェインたっぷりのエナジードリンクを飲ませているに違いありません。
その時。
テーブルの上のスマホが、ブブブッと震えました。
画面には、見知らぬIDからのメッセージ通知。
いや、見知らぬIDではありません。
退院指導書と一緒にこっそり渡したメモに書いておいた、私の連絡先です。
『テレビ、見てくれた?』
短いメッセージ。
続いて、楽屋裏で撮ったと思われる自撮り写真が送られてきました。
私の書いた「退院指導書(A4用紙)」を手に持ち、変な顔をしている浦安さん。
『マネージャーにこれ渡したら、すっごい嫌な顔してたwでも「今日のお弁当は揚げ物禁止!」って言ったら、ちゃんとおかゆ買ってきてくれたよ!』
私はスマホを握りしめ、深いため息をつきました。
やれやれ。
どうやら、私の「業務」は、まだ完全には終了していなかったようです。
これはアフターケアです。
ええ、あくまで瑕疵(かし)担保責任の範囲内です。
私は震える指で、返信を打ち込みました。
『見ていましたよ。あんな発言をして、事務所に怒られても知りませんからね。……それと、収録が終わったら、30分以内にタンパク質を摂取しなさい。コンビニのサラダチキンでも構いません』
送信ボタンを押すと、即座に「既読」がつき、かわいらしいウサギが敬礼しているスタンプが返ってきました。
『了解、シェフ!』
スマホの画面が消えても、私の部屋には妙な熱気が残っていました。
私は冷めきったアジフライを口に放り込みました。
……不思議ですね。
さっきまでは油の味しかしなかったのに、今はほんの少しだけ、美味しく感じる気がします。
これはきっと、脳内でのドーパミン分泌による味覚修飾効果でしょう。
決して、恋の味などではありません。
私は45歳。
分別ある大人なのですから。
たぶん……。
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