第9話 退院指導と、敏腕マネージャーへの「業務引き継ぎ書」
約束の朝が来ました。
天気は快晴。
私の心模様とは裏腹に、憎たらしいほどのピーカン照りです。
午前8時。
インターホンが鳴りました。
例のGPSマネージャー、幕張氏の到着です。
時間は正確ですね。
その几帳面さを、タレントの健康管理にも向けていただきたいものです。
「行かなきゃ」
浦安さんが、玄関で靴を履きながら呟きました。
その背中は小さく、まるでこれからドナドナされる仔牛のようです。
ですが、3日前とは違います。
肌は内側から発光するような艶を持ち、髪は天使の輪を湛え、何よりその瞳にはしっかりとした光が宿っています。
私の「臨床栄養管理プログラム」の成果です。
「忘れ物はありませんか。スマホ、財布、変装用の帽子」
「うん。……ねえ、我孫子さん」
彼女が振り返りました。
その瞳が潤んでいるのを見て、私は慌てて視線を逸らし、靴箱の上に置いてあった封筒を手に取りました。
「泣かないでください。水分と塩分の喪失になります。それより、これを」
「え、なに?」
「貴女への『退院指導書』兼、マネージャーへの『申し送り事項』です」
私は厚みのある茶封筒を渡しました。
中に入っているのは、この3日間で私が分析した彼女の栄養摂取データと、今後の推奨メニュー、そして避けるべき食品リスト(主に菓子パンとエナドリ)をまとめた、A4用紙5枚にわたるレポートです。
「これをマネージャーに叩きつけてやりなさい。『これ通りに餌を用意しろ、さもなくば私はまた枯れるぞ』と」
「ふふっ。なにそれ、重いよぉ」
彼女は涙を拭い、パァッと花が咲いたように笑いました。
そうです。
アイドルは笑顔が仕事。
湿っぽい別れは、私の趣味ではありません。
ガチャリとドアを開けると、廊下には不機嫌そうな顔をした幕張氏が立っていました。
「遅ぇぞ」
「時間通りです。時計の電池を交換することをお勧めしますよ」
私が嫌味で返すと、幕張氏は私を睨みつけ
――そして、浦安さんを見て、目を見開きました。
「おい、マジか」
彼はサングラスをずらし、浦安さんの顔をまじまじと凝視しました。
無理もありません。
3日前は死人のようだった彼女が、今はトップアイドルのオーラを全開にして輝いているのですから。
厚化粧で誤魔化したのではありません。
細胞レベルでの修復です。
「チッ。どうやら、ハッタリじゃなかったみたいだな」
「私はプロです。不良品を納品するような真似はしません」
幕張氏はバツが悪そうに鼻を鳴らし懐から茶封筒を取り出しました。
「約束の金だ。手間賃と、口止め料込みで」
「いりません」
私は即答で遮りました。
「食費実費として、3000円だけ頂きます。それ以上は受け取れません」
「あ? バカかお前。30万は入ってんだぞ」
「私は管理栄養士として、困っている人を助けただけです。金銭を受け取れば、それは『業務』や『売買』になる。……私は、彼女を商品として扱いたくありませんので」
かっこつけました。はい。
本当は30万欲しいです。まじで。
喉から手が出るほど欲しいです。
30万あれば、新しいオーブンレンジが買えます。
ですが、ここで金を受け取ってしまったら、彼女との三日間が「仕事」になってしまう。
あの温かいグラタンの夜が、ただの契約になってしまう。
それは、私のちっぽけなプライドが許さなかったのです。
「変なオッサン」
幕張氏は呆れたように言い、3000円だけを私の手に押し付けました。
「行くぞ、舞。車回してある」
「……うん」
浦安さんが一歩、踏み出します。
そして、私の横を通り過ぎる瞬間。
ふわりと、甘い匂いが鼻をかすめました。
「絶対、また来るから」
蚊の鳴くような、しかし確固たる意志の籠もった声が、私の耳元に届きました。
「合鍵、ポストに入れといてよね」
「断る!」
私が叫ぶのと同時に、彼女はイタズラっぽく舌を出し、マネージャーの背中を追って走り去りました。
エレベーターホールへ消えていく小さな背中。
一度も振り返ることなく、彼女は「アイドル」の世界へと帰っていきました。
静寂が戻った廊下。
手の中には、シワシワになった1000円札が3枚。
それが、国民的アイドルと過ごした3日間の、唯一の物的証拠でした。
「やれやれ」
私は大きく息を吐き、空を見上げました。
青空が目に染みます。
これでようやく、平穏な日常が戻ってくる。
スーパーの半額セールに一喜一憂し、夜は発泡酒を飲んで寝るだけの、静かで退屈な日常が。
……だというのに。
部屋に戻った私は、シンクに残された二人分の食器を見て、不覚にもこう思ってしまったのです。
(静かすぎるな、寂しい)
どうやら、リハビリが必要なのは、彼女の胃袋ではなく、私の方だったようです。
特養へ行きましょう。
ばーちゃん達の小言を聞けば、このセンチメンタルな気分も霧散するはずですから。
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