第8話 最後の晩餐は、脳内麻薬を分泌させる「幸せのグラタン」

約束の3日目がやってきました。  


私の狭い1LDKが、まるで刑務所の独房のように感じられます。


いえ、独房の方がマシかもしれません。


あちらには、こんな甘い拷問はありませんから。


浦安舞さんの身体的コンディションは、私の目から見ても「V字回復」を遂げていました。  


昨夜のレバニラ効果で、唇にはルージュを引いたような赤みが戻り、肌は内側から発光しているかのように艶やかです。


髪も、私の執念のトリートメント(と頭皮マッサージ)により、天使の輪が復活しています。  


商品価値(クオリティ)としては、完全に修復完了です。


しかし、問題は中身(ソフトウェア)です。


朝から彼女は、私の部屋のカーテンの隙間から外を覗いては、深く長いため息をついています。  


まるで、ドナドナされる仔牛のような背中です。


「はぁ。帰りたくない」


本日、10回目のつぶやきです。  


気持ちは分かります。


誰だって、温かいコタツから出て寒空の下には行きたくありません。


ましてや、彼女が戻るのは芸能界という名の極寒の地です。


ですが、私にも限界があります。  


これ以上、彼女と一緒にいると、私の理性の堤防が決壊し、社会的な死を迎える確率が98%を超えています。  


今朝も、洗面台で並んで歯を磨いている時、彼女が私の二の腕に胸を押し付けながら「ねえ、泡ついてるよ」と笑いかけてきたのです。  


あれは確信犯です。


21歳の小悪魔は、45歳の枯れた心臓がどれほど脆いか理解していません。


不整脈で死ぬかと思いました。


 ◇


最後の夜。  


私はキッチンに立ち、この3日間の総決算となる夕食の準備を始めました。  


テーマは「メンタルヘルスの向上」です。  


彼女の不安を取り除き、前を向かせるための魔法。


それは精神論ではなく物質的なアプローチで可能です。


脳内で幸せを感じさせる神経伝達物質「セロトニン」  


別名、幸せホルモン。  


これの材料となる必須アミノ酸「トリプトファン」を大量に脳へ送り込む必要があります。


食材は、鶏肉、乳製品、そして大豆製品。  


これらを組み合わせ、かつ「心温まる」ビジュアルで提供する。  


私の答えはこれです。


『鶏肉とほうれん草の、豆乳ホワイトソースグラタン』


バターと生クリームをたっぷり使った洋食屋のグラタンも美味しいですが、今の彼女には脂質が高すぎます。


消化に負担をかけず、かつ濃厚な満足感を与えるために、ホワイトソースは「豆乳」と「米粉」で作ります。


フライパンで鶏もも肉(皮なし)とタマネギ、ほうれん草を炒めます。  


そこに米粉を振り入れ、粉っぽさがなくなるまで炒めたら、成分無調整豆乳を一気に注ぎます。  


ダマにならないよう、木べらで手早く混ぜる。  


コンソメと、隠し味に少量の「白味噌」を加えます。  


これです。


豆乳と味噌。


同じ大豆製品同士、相性が悪いはずがありません。


このコクがバターなしでも濃厚な味を生み出します。


耐熱皿にマカロニ(早ゆでタイプ)と具材を入れ、とろとろのソースをかけます。


最後に、とろけるチーズを散らし、オーブントースターへ。


チーン。  


軽快な音が鳴り、香ばしい焦げ目の匂いが部屋に充満しました。


「できましたよ」


テーブルに置くと、彼女は目を丸くしました。  


グツグツと音を立てる黄金色の表面。


マグマのように沸き立つホワイトソース。


「グラタン……!大好き!」


「ただのグラタンじゃありません。これは『脳内麻薬生成プレート』です」


「えっ、あやしい薬入ってるの?」


「入っていません!トリプトファンです。これを食べれば、貴女の脳内でセロトニンがドバドバ分泌され、不安なんて消し飛びます」


彼女は「また難しいこと言ってる」と笑い、スプーンを差し込みました。  


ハフハフと息を吹きかけ、熱々の塊を口に運びます。


「んっ!あつっ!おいしぃぃ……」


彼女がとろけました。


チーズ以上にとろけています。


「クリーミーなのに、全然重くない。なんか、おばあちゃん家に来たみたいにホッとする……」


「隠し味の味噌のおかげですね。温かい料理は副交感神経を優位にします。さあ、食べて、脳をリラックスさせなさい」


彼女は夢中でスプーンを動かしています。  


その横顔を見ながら、私は自分用の缶ビール(第3のビール)を開けました。  


この光景も、今夜で見納めです。  


寂しいですか?  


いいえ、とんでもない。


清々しますよ。


ようやく枕を高くして眠れるのですから。  


……そう、自分に言い聞かせないと、胸の奥の変な痛み(おそらく逆流性食道炎でしょう)が治まりそうにありません。


食後。  


私たちはソファに並んで座り、テレビを見ていました。  


バラエティ番組の笑い声が、やけに遠く聞こえます。


「ねえ、我孫子さん」


不意に、肩に重みを感じました。  


彼女が私の肩に頭を預けてきたのです。  


甘いシャンプーの香り。


体温。


柔らかい感触。  


警報が鳴り響いています。緊急事態宣言です。


「な、なんですか。重いですよ」


「うそつき。筋肉ガチガチだよ」


彼女はクスクスと笑いさらに身体を寄せてきました。  


太ももが触れ合っています。


これはR15のラインを越えそうです。


私が今、少しでも理性のブレーキを緩めれば、そのまま……。


「明日、行かなきゃだめ?」


「だめです。約束ですから」


「私が『行きたくない』って泣いたら?」


「引きずってでも連れて行きます。それが大人の責任です」


私は冷たく言い放ちましたが、声が少し震えていたかもしれません。


「いじわるぅ」


「管理栄養士ですから。甘いだけのメニューは出しません」


彼女は少し顔を上げ、私の瞳をじっと見つめました。  


その距離、わずか15センチ。  


彼女の大きな瞳に、情けない顔をした中年男が映っています。  


唇が、すぐそこにあります。  


ピンク色に潤った、サクランボのような唇。


(キスくらいなら、減るもんじゃないしいいのでは?)


悪魔が囁きます。  


いや、だめだ。  


ここで手を出せば私はただの「ファンに手を出したおっさん」に成り下がる。  


彼女を救ったヒーローのままで終わらせるんだ。


それが男の美学だ。


男とは自己犠牲にの中にある。


私は鋼の意志で視線を逸らしテーブルの上のテレビのリモコンを掴みました。


「ほら、ニュースの時間ですよ。明日の天気を確認しましょう」


「ヘタレ」


彼女は小さな声でそう呟き、拗ねたように私の腕にギュッと抱きつきました。  


その柔らかい感触が、私の二の腕の筋肉を完全に無力化させます。


やれやれ。  


今夜は一睡もできそうにありません。  


トリプトファンを摂取すべきだったのは彼女ではなく私の方だったようです。

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