第7話 天使のランジェリーと、鉄分という名の「化粧」
ソファーでの仮眠というのは、45歳の肉体には拷問に近いものがあります。
翌朝。
軋む腰をさすりながら目覚めた私は、まず目の前の現実に頭を抱えました。
洗濯物です。
昨夜、彼女が入浴中に脱ぎ捨てた衣服一式。
汗と涙と、その他もろもろが染み込んだアイドルの私服を、このまま放置するわけにはいきません。
衛生管理の観点からも、カビや雑菌の繁殖は防がねばなりませんからね。
しかし、問題は中身です。
脱衣カゴの一番上に、ちょこんと乗っている、レースと紐で構成された布切れ。 いわゆる、ブラジャーとショーツというやつです。
(こ、これは、危険物取扱者の資格が必要なのでは?)
私はトングか何かで摘まみ上げたい衝動に駆られましたが、あいにく調理器具をそんな用途には使えません。
意を決して、指先でつまみます。
布面積が少ない。
少なすぎます。
最近の布地不足は深刻なようですね。
そして、淡いピンク色。
これを見ただけで、私の脳内のドーパミンとアドレナリンが過剰分泌され、血圧が急上昇しています。
朝からヒートショックを起こしそうです。
「南無阿弥陀仏」
私は仏教徒でもないのに念仏を唱え、それらを洗濯ネットに放り込みました。
もちろん、私の加齢臭漂う肌着とは別洗い(分別)です。
これは交差汚染(クロスコンタミネーション)を防ぐための措置であり、決して彼女への配慮とか、そういうセンチメンタルな理由ではありません。
信じてください。まじで。
◇
洗濯機が回る音をBGMに、朝食の準備を始めます。
本日の課題は「肌の再生」です。
マネージャーの幕張氏は、彼女を「商品」と呼び、肌荒れを指摘しました。
ならば、その鼻をあかしてやるのが職人の意地というもの。
起きてきた浦安さんは、鏡の前で自分の顔をペタペタと触りながら、絶望的な声を上げました。
「うぅ、やっぱり、くすんでる。ファンデでも隠せないかも」
「でしょうね。血行不良とヘモグロビン不足です」
私はフライパンを揺すりながら解説します。
「いいですか、浦安さん。高い美容液を塗るのも結構ですが、皮膚というのは内臓の鏡です。内側から材料を届けなければ、外壁工事は進みません」
「材料?」
「タンパク質と、ビタミンC、そして鉄分です」
今日のメニューは、『鶏むね肉とブロッコリーのレモンクリーム煮』です。
鶏むね肉は、高タンパク低脂質。
皮膚の材料そのものです。
ブロッコリーは野菜の中でもトップクラスのビタミンC含有量を誇ります。
そして重要なのが、「食べ合わせ」です。
「よく『コラーゲン鍋』とか食べに行きますよね?」
「うん!お肌プルプルになりたくて」
「残念ですが、口から食べたコラーゲンは、消化管でアミノ酸に分解されます。そのまま皮膚にはなりません。体内で再びコラーゲンに合成するためには、接着剤となるビタミンCが不可欠なんです」
私が皿を差し出すと、彼女はキョトンとして、それからパァっと顔を輝かせました。
「つまり、これ食べればプルプルになる?」
「理論上は。さあ、残さず食べてください」
クリーム煮といっても、生クリームではなく牛乳と少量の片栗粉でとろみをつけています。
レモンの酸味が食欲をそそり、寝起きの胃にも優しい設計です。
彼女は「ん〜っ!」と唸りながら、ブロッコリーを頬張っています。
実によろしい。
これでビタミンCが細胞に届き、繊維芽細胞が活性化するはずです。
さて、また仕事の時間です。
玄関で靴を履いていると、彼女がパタパタと走ってきました。
「ねえ、我孫子さん」
「なんですか。戸締まりは厳重にお願いしますよ」
「洗濯、ありがとね。……私の下着、干す時ドキドキした?」
彼女はニヤリと、小悪魔のような笑みを浮かべました。
この小娘は。
自分が生殺与奪の権(男としての理性のタガ)を握っていることを自覚していますね。
「……事務的に処理しました。私にとっては、シイタケの裏側を洗うのも、レースの布を洗うのも同じ作業です」
「ふーん。顔、赤いよ?」
「血圧が高いだけです!行ってきます!」
私は逃げるようにドアを閉めました。
ドアの向こうで「ふふふ」という楽しげな笑い声が聞こえ、私はエレベーターホールで一人、頭を抱えてしゃがみ込みました。
まったく、心臓に悪い。
このままでは、彼女の肌が治る前に、私の血管が破裂しそうです。
◇
その日の特養での仕事は、上の空でした。
利用者の食事箋を書きながらも、頭の中では「今夜のメニュー」のことで一杯です。
あと2日。
肌の調子は上向いてきましたが、まだ決定的に足りないものがあります。
顔色、すなわち「赤み」です。
目の下のクマを消し、頬に血色を取り戻すには、血液中の酸素運搬能力を高めるしかない。
つまり、鉄分です。
しかし、若い女性は往々にして、鉄分の王様である「アレ」を嫌います。
浦安さんも例外ではないでしょう。
どうやって食べさせるか。
私は給食会議中も、ひたすらその策を練り続けました。
定時退社。
スーパーに寄り、鮮魚コーナーならぬ精肉コーナーへ直行します。
狙いは一つ。
鮮血のような赤黒い輝きを放つ、「豚レバー」です。
帰宅すると、部屋の中は平和そのものでした。
彼女は私の本棚から適当な小説を引っ張り出し、ソファで読んでいました。
「おかえりー。お腹空いた」
「ただいま戻りました。いい子にしていましたか」
「うん。……ねえ、なんか血の匂いしない?」
鋭いですね。
さすが野生の勘を持つアイドル。
私は買ってきたレバーをキッチンに置きました。
「今夜は、貴女のクマを消滅させるための特効薬を作ります」
「え……その色、まさかレバー?」
「正解です」
「やだ!無理!あのモサモサした食感と、鉄の味が嫌い!」
予想通りの拒絶反応です。
クッションを盾にして防御姿勢をとる彼女に、私は不敵な笑みを向けました。
「安心しなさい。私が作るレバーは、貴女が知っている給食のレバーとは別物です」
ここからが、プロの腕の見せ所です。
レバーが嫌われる原因は、独特の臭みと、加熱しすぎによるパサつき。
この二つを、科学の力で消し去ります。
まず、レバーを一口大に切り、流水で血塊を徹底的に洗い流します。
そして、ボウルに入れ、そこに「牛乳」を注ぎ込みます。
「牛乳……?」
「そうです。牛乳に含まれるカゼインタンパク質が、レバーの臭み成分(アラキドン酸など)を吸着してくれます。これで二十分放置」
その間に、ニラともやし、そしてニンニクとショウガを用意。
下処理を終えたレバーの水気を拭き取り、醤油と酒で下味をつけ、片栗粉をまぶします。
フライパンに多めの油を熱し、レバーを「揚げ焼き」にします。
中まで火を通しすぎないのがコツです。
予熱で火が通るギリギリを見極めて取り出す。
あとは、香味野菜とニラを一気に強火で炒め、合わせ調味料(オイスターソースベース)を絡めれば完成。
『臭みゼロ・ふんわり食感の極上レバニラ炒め』
見た目はガッツリ系の中華ですが、これ以上の「食べる輸血」はありません。
「この匂いは、いい匂い」
「騙されたと思って一口だけ。これで顔色が戻らなければ、私は管理栄養士の免許を返納してもいい」
彼女は恐る恐る、小さな欠片を口に入れました。
咀嚼すること数回。
「あれ?」
彼女の目が丸くなりました。
「臭くない……それに、中がトロッとしてる。パテみたい」
「でしょう。片栗粉のガードと火加減の勝利です。ニラのビタミンCが鉄分の吸収を助けるので、効果は倍増ですよ」
結果、彼女は「ご飯泥棒だこれ!」と叫びながら、レバニラを完食しました。
食後、彼女の唇には自然な赤みが戻り、蒼白だった顔色は見違えるほど健康的になっていました。
「すごい……おじさん、魔法使いみたい」
「ただの科学です。栄養学は、魔法ではなくロジックですから」
私はコーヒー(彼女にはノンカフェインのハーブティー)を飲みながら、心の中でガッツポーズをしました。
これで、外見の修復はほぼ完了です。
あとは、明日の1日。
最後にして最大の課題は「折れた心のリカバリー」が残っています。
しかし、その夜。
隣の部屋で眠る彼女の寝言が、壁越しに聞こえてしまいました。
「やだ……いかないで……」
か細い、泣き声のような寝言。
身体は治せても、心の傷はそう簡単には癒えない。
私は壁に背中を預け、冷めたコーヒーを見つめました。
明後日の朝には、彼女をあの「戦場」へ返さなければならない。
その事実が、なぜか胸の奥をチクリと刺しました。
鉄分不足でしょうか。
いいえ、これはきっと、もっと厄介な病ですね。
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