第6話 豚肉とタマネギの「疲労回復(ガチ)」同盟と、湯上がりの破壊力
3日。
72時間というリミットが設定されたことで、私の部屋は「中年独身男の怠惰な城」から「緊急救命病棟(ICU)」へと変貌を遂げました。
患者は、国民的アイドル・浦安舞(21歳)
主治医兼料理長は、私・我孫子旭(45歳)
治療方針は、徹底的な「食」による細胞の修復です。
キッチンに立った私は、冷蔵庫から豚こま肉と新タマネギを取り出しました。
安売りで100グラム98円だった豚肉ですが、侮ってはいけません。
豚肉のビタミンB1含有量は食品の中でもトップクラス。
これは糖質をエネルギーに変えるために不可欠な補酵素です。
しかし、ビタミンB1は水溶性で、体外に排出されやすいのが難点。
そこで登場するのが、タマネギです。
「いいですか、浦安さん。タマネギに含まれる辛味成分『アリシン』は、ビタミンB1と結合すると『アリチアミン』という物質に変化します。こうなると吸収率が飛躍的に高まり、血液中に長く留まることができる。まさに疲労回復の最強タッグ、いわば翼くんと岬くんのゴールデンコンビです」
「わかんないけど、すごそう」
ソファで体育座りをしている浦安さんが、興味なさそうに、しかし期待に満ちた目でこちらを見ています。
比喩が古すぎましたか。
ジェネレーションギャップに心が折れそうですが、手は止めません。
タマネギは薄くスライスし、繊維を断ち切ることで細胞壁を壊し、酵素反応を促します。
フライパンで豚肉と共に炒め、醤油、みりん、酒、そして少量の砂糖で甘辛く煮絡める。
ここまでは普通の「豚皿」ですが、私は特養の管理栄養士です。
最後の仕上げが違います。
水溶き片栗粉。
これを回し入れ、全体にとろみをつけます。
なぜか?
とろみをつけることで、冷めにくくなり、弱った胃腸でも温度刺激を緩和できるからです。
さらに、食材がバラけず、喉を「つるん」と通過する。
誤嚥防止の基本テクニックですが、これがまた、タレを食材に絡みつかせ、味の濃厚さを演出するのです。
「はい、お待たせしました。『豚肉とタマネギの甘辛とろみ煮』と、消化促進のための『大根の味噌汁』です」
湯気を上げる皿をテーブルに置くと、彼女は目を輝かせました。
「お肉……!」
「よく噛んで食べてくださいね。とろみがついているので飲み込みやすいですが、唾液アミラーゼによる消化も重要ですから」
彼女は箸を伸ばし、とろとろのタマネギを纏った豚肉を口に運びました。
「ん〜っ!!」
彼女が机をバンバンと叩きました。
どうやら言語中枢が美味しさでバグったようです。
「あまじょっぱい、ご飯が進む味……!お肉柔らかい……」
「片栗粉でコーティングしましたからね。肉の水分が逃げず、ジューシーでしょう」
彼女は無言で白米をかきこみ始めました。
その食いっぷりは、テレビで見せる清楚なアイドル像とはかけ離れていますが、栄養士としては100点満点です。
見ているだけで、私の脳内では「現在、ビタミンB1が細胞内へ搬入されています」
「クエン酸回路が活性化しました」という実況が流れます。
完食後、彼女はほう、と満足げなため息をつきました。
頬には赤みが差し、目の下のクマも心なしか薄らいで見えます。
即効性のエネルギー補給、成功ですね。
「ふぅ。生き返ったぁ」
「それは何よりです。では次は、身体の外側からのケアです。お風呂に入ってきなさい」
私がタオルと着替え(私のTシャツと短パン)を渡すと、彼女は素直に頷き、浴室へ消えていきました。
さて。
ここからが、45歳独身男性にとっての最大の試練、「待ち時間」です。
シャーッ、というシャワーの音が聞こえてきます。
薄い壁一枚向こうで、国民的アイドルが、生まれたままの姿でお湯を浴びている。
この事実とどう向き合えばいいのでしょうか。
(考えろ、我孫子旭。思考を逸らすんだ。そうだ、ヒートショックだ)
浴室と脱衣所の温度差による血圧変動。
これは高齢者の入浴事故原因の第一位です。
彼女は若いが、極度の疲労状態。
自律神経の調整機能が落ちている。
もし、浴槽で意識を失ったら?
溺水のリスクは?
長湯は危険だ。
41度のお湯で十分程度が、深部体温を上げ、かつ心臓への負担が少ないライン。
「おい、浦安さん。生きてますか?長湯はのぼせますよ」
心配のあまり、脱衣所のドア越しに声をかけてしまいました。
我ながら過保護すぎる気もしますが、事故物件にするわけにはいきません。
「はーい、もう上がるー」
やがて、カチャリとドアが開き、彼女が出てきました。
私は反射的に顔を背け――損ねました。
「ふぅ、さっぱりしたぁ」
私のヨレヨレのTシャツをワンピースのように着た彼女が、バスタオルで髪を拭きながら立っていました。
湯気立つ白い肌。
湿って首筋に張り付く髪。
そして、風呂上がり特有の、血行が良くなり桜色に染まった頬と唇。
石鹸の香りが、熱気と共に押し寄せてきます。
……だめだ。
これは、刺激が強すぎる。
栄養学的観点から言えば、今の彼女は「新鮮な桃」そのものです。
対して私は、枯れかけたゴボウです。
直視すれば、私の網膜どころか、理性の回路が焼き切れる音がします。
「髪、ちゃんと乾かしてくださいね。気化熱で体温が奪われますから」
「うん。……ねえ、我孫子さん」
「なんですか。私は今、明日の献立を考えるのに忙しいのですが(嘘です。心拍数を整えるのに必死です)」
彼女はトテトテと近づいてくると、私の袖をちょんと摘みました。
「ドライヤー、やって?」
はい?
甘えるな、自分でやれ。
そう突き放すのが「教育」です。分かっています。
ですが、その上目遣いと、潤んだ瞳。
そして、私のTシャツの首元からチラリと見える鎖骨のライン。
……無理です。
勝てるわけがありません。
私は聖人君子ではなく、ただのむっつりスケベな中年なのですから。
「一回だけですよ。特別サービスです」
「やった、ありがと!」
彼女を椅子に座らせ、私はドライヤーを握りました。
温風を当てながら、細く柔らかい髪を指で梳きます。
サラサラとして、指に絡みつく感触。
アイドルの髪というのは、どうしてこうもいい匂いがするのでしょうか。
(いかん。無心になれ。これは頭皮の血行促進マッサージだ。頭皮の健康は髪の健康。そうだ、ツボ押しだ。百会のツボを押して自律神経を整えるんだ……)
私は念仏のように栄養学用語を脳内で唱えながら、必死に「美容師ごっこ」を続けました。
彼女は気持ちよさそうに目を細め、やがてコクリコクリと船を漕ぎ始めました。
「よし、乾きました。もう寝なさい」
「ん……おやすみぃ……」
彼女はふらふらと立ち上がり、当然のように私のベッドへ潜り込みました。
そして、数秒で寝息を立て始めました。
取り残された私と、ソファ。
本来の主である私が、狭いソファで寝る羽目になるとは。
まあ、いいでしょう。彼女の回復こそが、私が平穏を取り戻すための最短ルートなのですから。
私は部屋の電気を消し、硬いソファに身を横たえました。
暗闇の中で、微かに聞こえる彼女の寝息。
そして、私の手や服に残った、甘いシャンプーの香り。
……眠れるわけが、ありませんね。
やれやれ。
今夜は長い夜になりそうです。
メラトニン(睡眠ホルモン)のサプリを飲んでおくべきでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます