第5話 敏腕マネージャーが持参したのは、高価な「毒薬」でした

GPS。  


なんとも嫌な響きです。  


21世紀の監視社会において、プライバシーなどという言葉は辞書から削除されたのでしょうか。  


アイドルのスマホには、脱走防止用の発信機が埋め込まれている。


都市伝説だと思っていましたがどうやら業界の常識だったようです。


「今すぐ向かいます。ですが、彼女を無理に連れ出すのはやめていただきたい」


『あ?こっちは仕事なんでね。10分で着きますよ』


ブチリ。


通話が切れました。  


10分。  


私が職場から自宅へ戻るには、どんなに急いでも30分はかかります。


私はナースステーションのホワイトボードに「早退(私用)」と震える字で書き殴り、施設長への言い訳もそこそこに、なのはな施設を飛び出しました。  


45歳の心肺機能に鞭を打ち、駅まで全力疾走です。  


膝が笑っています。


いや、笑うどころか悲鳴を上げています。


軟骨がすり減る音が聞こえるようです。  


しかし、急がねばなりません。  


あの頼りない「要介護度3」の天使が、強引に連れ去られてしまう。


(いや、連れ去られるのが正解なのでは?元の居場所に戻るだけです。私は無関係な一般市民に戻れる)


理性の悪魔がそう囁きます。  


ですが、脳裏に浮かぶのは、今朝の彼女の笑顔です。  


たかが味噌汁一杯で、あんなに幸せそうな顔をした。  


あの身体はまだ、私の管理(ケア)を必要としています。


途中でプランを放棄するのは、専門職としてのプライドが許しません。


ええ、あくまで仕事の延長です。


決して、彼女の柔肌への未練ではありません。


信じてください。


 ◇


ゼェゼェと息を切らせてマンションの廊下に辿り着くと、そこには既に「敵」がいました。


黒いスーツに、尖った革靴。


耳にはBluetoothイヤホン。  


いかにも「業界人」といった風体の男が私の部屋のドアを乱暴にノックしているところでした。


「おい、舞!いるのは分かってんだよ!開けろ!」


ドンドンドン!  


鉄製のドアが悲鳴を上げています。


近所迷惑も甚だしい。


これでは管理会社から退去勧告が来るのも時間の問題です。


「やめていただけますか」


私が息を整えながら声をかけると、男――マネージャーの幕張(まくはり)は、ギラついた目でこちらを振り向きました。


「あ?おっさん、あんたか。誘拐犯は」


「人聞きが悪い。保護者です。……一時的な」


私は鍵を取り出し、彼を制してドアを開けました。  


幕張が強引に割り込んできます。


部屋に入ると、ソファの影で、私の芋ジャージを着た浦安舞さんがガタガタと震えていました。  


まるで、保健所に連れて行かれる捨て猫のような目です。


「チッ、こんな汚い部屋に……。おい舞、行くぞ。19時からスポンサーとの会食だ」


幕張は挨拶もなしに、彼女の細い腕を掴み上げました。


「痛っ……!やだ、離して!」


「甘えんな。穴開けた分の損害賠償、誰が払うと思ってんだ。ほら、これを飲んでシャキッとしろ」


そう言って幕張がポケットから取り出したのは、毒々しい色の液体が入った瓶でした。  


コンビニでよく見る、高カフェイン・高アルギニンの最強エナジードリンクです。


「1本2000円の特製ドリンクだ。これを飲めば3時間は戦える」


彼はそれを、無理やり彼女の口元へ押し付けようとしました。


プチン。


私の脳内で、何かが切れました。  


恐怖心とか、社会的地位とか、そういった保身の回路が遮断され、代わりに「激怒」の回路が接続されました。


私は幕張の手首を掴みました。  


老人介護で鍛えた、ボディメカニクスを応用した関節技です。


「何すんだテメェ」


「その液体を、彼女に飲ませるつもりですか?」


私は極めて低い声で、しかし慇懃(いんぎん)に問いました。


「あぁ?栄養ドリンクだよ。元気になるやつだ」


「いいえ。今の彼女にとっては、それは『毒薬』です」


私は瓶を取り上げ、成分表示を一瞥しました。  


予想通りです。


果糖ブドウ糖液糖の塊に、大量のカフェイン、香料、保存料。


「彼女は現在、極度の胃腸機能低下と、ストレスによる低血糖状態にあります。そこに、こんないきなり血糖値を急上昇させる高浸透圧の液体を流し込めばどうなるか。インスリンの過剰分泌による反応性低血糖(リバウンド)を起こし、手足の震えや動悸が悪化する。最悪、意識障害を起こして倒れますよ」


私は早口でまくし立てました。  


いわゆる「血糖値スパイク」の危険性です。


健康な人間ならいざ知らず、弱りきった内臓にこれを叩き込むのは、焚き火にガソリンを注ぐようなもの。


「はっ、うっせぇな。じゃあどうすんだよ。こいつは商品なんだよ。稼働させなきゃ金にならねぇんだよ!」


「メンテナンスもせずに稼働させれば、機械だって壊れます。ましてや人間だ」


私は彼女の前に立ち塞がりました。  


背中の後ろで、彼女が私のジャージの裾をギュッと握りしめる感触が伝わってきます。  


その小さな震えが、私のへっぴり腰を支えてくれました。


「貴方は彼女を『商品』と言った。ならば、その商品の品質管理(クオリティ・コントロール)は最悪です。肌荒れ、抜け毛、爪の変形。これらはすべて栄養失調のサインだ。こんなボロボロの状態で会食に出して、スポンサーが喜ぶとでも?」


「チッ」


幕張が舌打ちをしました。


図星だったのでしょう。  


私は畳み掛けます。


「私なら、彼女を3日で『出荷可能』な状態まで回復させられます」


「は?」


「3日ください。私の食事管理下で休養させれば、肌の艶も戻るし、目力も復活します。今のゾンビのような状態で出すより、その方が長期的利益(ライフタイムバリュー)は高いはずですが?」


ハッタリです。  


いや、ハッタリではありませんが、3日で完治は無理です。


急性期でも14日はかかります。


しかし、見た目を誤魔化せる程度まで回復させる自信はあります。  


幕張は疑わしげな目で私と、そして後ろに隠れている浦安さんを交互に見ました。


「舞。お前、どうなんだ」


浦安さんが、おずおずと顔を出しました。


「私、帰らない。我孫子さんのご飯じゃないと、無理」


「……あ?」


「社長には、幕張さんがうまく言っておいて。……お願い」


トップアイドルらしからぬ、弱々しい懇願。


しかし、その瞳には「絶対に動かない」という強い意志が宿っていました。


幕張はしばらく黙り込み、やがて苛ただしげに頭を掻きむしりました。


「3日だ」


「はい?」


「3日後の朝、迎えに来る。それまでに『商品』としての価値を戻しておけ。もしダメだったら……分かってるな?」


彼は私を指差し、首を切るジェスチャーをしました。  


そして、2000円のエナジードリンクをゴミ箱に投げ捨て、足音荒く出て行きました。


バタン! 


とドアが閉まる音が響き、静寂が戻ります。


私はその場にへなへなと座り込みました。  


腰が抜けました。


45歳の膝は、もう限界です。


「あびこさん……」


浦安さんが、心配そうに私の顔を覗き込みます。  


その拍子に、ジャージの胸元が大きく開き、白い谷間が……いえ、今はそんな場合ではありません。


「……3日、猶予をもらいました」


「うん……ありがとう。かっこよかったよ、おじさん」


「我孫子です。……それに、礼を言うのはまだ早いですよ」


私は立ち上がり、冷蔵庫へ向かいました。  


戦いはこれからです。  


3日で、ボロボロのトップアイドルを再生させる。  


これはもはや、一種の「臨床栄養管理プロジェクト」です。


「浦安さん。これからの3日間、貴女の口に入るものは全て私が管理します。おやつ禁止。夜更かし禁止。私の指示通りに食べ、出し、寝てもらいます」


「えー、なんか、スパルター?」


「当然です。貴女を守るために、私は人生を賭けた嘘をついたんですからね」


私はニヤリと笑いました。  


さて、夕食の時間です。  


ストレスで消耗したビタミンCとB群を補給しつつ、良質な睡眠へ誘うためのメニュー。  


冷蔵庫には、豚肉とタマネギがありますね。


「今夜は『豚肉とタマネギの甘辛とろみ煮』です。ビタミンB1とアリシンの結合効果で、疲労回復をブーストさせますよ」


こうして、奇妙な同棲生活は、「3日間の期間限定」という時限爆弾付きで正式にスタートしたのでした。  


やれやれ。


胃が痛いのは、彼女よりも私の方かもしれません。

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