第4話 トップアイドルと「とろみ剤」の意外な共通点
さて、勢いで「飼う」などと宣言してしまいましたが、現実は甘くありません。
むしろ、糖質制限スイーツのように味気ない現実が待っています。
時計の針は6時半。
私は社会の歯車、もとい特別養護老人ホームの栄養管理責任者として、出勤しなければならない時間です。
「いいですか、浦安さん。私が帰るまで、決してドアを開けてはいけませんよ。インターホンが鳴っても無視です。宅配便もNHKも、たとえ実家の親でも無視してください」
「はーい」
私のジャージ(高校時代の指定品、芋ジャージ)を身にまとった国民的アイドルは、ソファでゴロゴロしながら気の抜けた返事をしました。
ぶかぶかのジャージから覗く手足の白さが、緑色の芋ジャージとの対比で際立っています。
この「彼ジャージ」というシチュエーション、若かりし頃の私が夢見た光景そのものですが、まさか中身が推定年収数億の21歳とは。
現実は小説より奇なり、かつ残酷です。
「お昼ご飯は、冷蔵庫のタッパーに入っています。『カブと鶏肉のくたくた煮』です。温めて食べてください。カブのアミラーゼが胃もたれを防ぎますから」
「はーい。……ねえ、行ってらっしゃいのチューは?」
「寝言は寝て言ってください。二度寝を推奨します」
私は逃げるように玄関を飛び出しました。
背後で「ちぇー」という可愛らしい不満の声が聞こえた気がしますが、幻聴ということにしておきます。
これ以上聞いていると、私の理性の堤防が決壊し、社会的に死亡する未来しか見えませんから。
通勤電車に揺られながら、私は自分のスーツの袖をクンクンと嗅ぎました。
……甘い。
微かですが、あの高級シャンプーのような、フローラルな香りが移っています。 四十五歳のおっさんから、アイドルの匂いがする。
これは事案でしょうか。
いや、冤罪だと言い張る準備はしておきましょう。
しかし、この背徳感だけで白飯三杯はいけそうです。
◇
職場である特別養護老人ホーム「なのはな園」に到着すると、そこはいつもの戦場でした。
「我孫子先生!ショートステイの田中さんが、また食事拒否です!」
ナースステーションに入るなり、新人の介護職員が泣きついてきました。
田中さんは85歳の女性。
最近、嚥下(飲み込み)機能が低下し、食事が進まないのが課題の方です。
「拒否の理由は?」
「『美味しくない、喉に詰まる』って……。ペースト食にしてるのに」
私はため息を一つつき、現場へ向かいます。
食堂では、田中さんが不機嫌そうにスプーンを投げ出していました。
目の前には、茶色いペースト状の何かが盛られた皿。
正直、見た目は最悪です。
いくら栄養バランスが完璧でも、これでは食欲(=脳への刺激)が湧きません。
「田中さん、どうしました?」
「こんなセメントみたいなもん、食えるかい!ボケ」
ごもっともです。
私はスプーンでペーストをすくい、粘度を確認しました。
……硬い。
これでは、喉にへばりついてしまいます。
加齢により唾液分泌量が低下している高齢者にとって、パサついたペーストは凶器にも等しい。
「おい、新人くん。とろみ剤を持ってきなさい」
「えっ、でも規定量は入れましたけど」
「規定量というのはあくまで目安です。その日の湿度、食材の水分量、そして利用者の体調によって微調整するのがプロの仕事ですよ」
私はとろみ剤をわずかに追加し、さらに少しの「出汁」を加えて伸ばしました。 そして、スプーンで攪拌します。
目指すは、フレンチのポタージュのような滑らかさ。
舌の上で自然に広がり、喉へと重力だけで落ちていく粘度。
「田中さん。味が濃すぎたようなので、調整しました。一口だけ、味見してくれませんか?」
「フン。……まあ、味見だけなら」
田中さんが口を開けます。
スプーンが口に入り、とろりとした液体が喉を通過しました。
その瞬間、彼女の眉間の皺が緩みます。
「あら。さっきより、飲みやすいね」
「でしょう。喉越しを良くしましたから。これならムセませんよ」
田中さんはその後、完食してくれました。
その様子を見ながら、私はふと、自宅に残してきた「彼女」のことを思い出しました。
(同じだな)
ストレスで胃が弱り、固形物を受け付けないトップアイドル。
加齢で喉が弱り、ペーストしか食べられない高齢者。
どちらも、生きるために「食べる」行為が苦痛になっている。
必要なのは、ただカロリーを詰め込むことではありません。
その人の「今の機能」に合わせ、無理なく、心地よく体内へ滑り込ませる工夫。
それが、食を通じた「ケア(介護)」の本質です。
「我孫子先生、やっぱすげえっすね」
「おだてても何も出ませんよ。それより、田中さんの水分摂取量が足りていません。十時のお茶、ゼリーにして提供してください」
私は淡々と指示を出しましたが、内心では少し得意げになっていました。
ええ、私はプロですから。
アイドルの胃袋も、気難しいお婆ちゃんの胃袋も、掌握する理屈は同じなのです。
昼休み。
職員食堂で味気ない仕出し弁当(揚げ物ばかりで脂質過多ですね、あとで野菜ジュースを飲まねば)をつついていると、休憩室のテレビから派手なファンファーレが流れました。
『――速報です! 国民的アイドルグループ、ベイサイド・エンジェルズのセンター、浦安舞さんが、体調不良のため無期限の活動休止を発表しました!』
ブフォッ。
私は思わず、口の中の安っぽい唐揚げを吹き出しそうになりました。
『事務所の発表によりますと、昨夜から連絡が取れなくなっており、精神的な疲労が原因と見られています。ファンの間では心配の声が広がっており……』
画面には、浦安さんのキラキラした宣材写真が大写しになっています。
そして、その「行方不明」の超本人は今、私の芋ジャージを着て、私の部屋でカブの煮物を食べているわけです。
(こ、これ、もしかして「活動休止」どころか、「誘拐」扱いされてませんか?)
冷や汗が背中を伝います。
ただの人助けです。
栄養管理です。
しかし、世間様がそう見てくれるでしょうか。
四十五歳独身男の部屋に、21歳のアイドル。
どう言い訳しても「事案」です。
ポケットの中のスマホが震えました。
着信画面には、登録のない番号。
嫌な予感がします。
私の個人情報を知っている人間など、職場以外にはほとんどいないはずなのに。
私は震える指で、通話ボタンを押しました。
「はい、我孫子です」
『――あー、もしもし?ベイサイド・エンジェルズのマネージャーの幕張(まくはり)って言いますがね』
低く、どこか威圧的な男の声。
終わった。
私の平穏な日常、勤続二十年のキャリア、そして退職金。
すべてが走馬灯のように駆け巡りました。
『GPS、そこを示してるんですよ。……うちの商品、返してもらえます?』
どうやら、私の作る介護食は、とんでもなく厄介な客人を招き寄せてしまったようです。
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