第3話 翌朝の味噌汁は、臨床栄養学に基づいた「蘇り」の味

朝、5時30分。  


長年の習慣とは恐ろしいもので、目覚まし時計が鳴る前に、私の体内時計(サーカディアンリズム)は正確に覚醒を告げました。


重たい瞼を持ち上げ、天井を見つめます。  


一瞬、「あれ、なんでこんなに部屋が甘い匂いなんだ?」と首を傾げましたが、数秒で記憶がリロードされました。


そうです。


リビングに、国民的アイドルが転がっているのでした。  


夢ではありません。


現実です。


私はベッドから這い出し、恐る恐るリビングのドアを開けました。  


そこには、昨晩のまま、ソファで丸まって眠る浦安舞さんの姿がありました。  


毛布からはみ出した足。


無防備に放り出された白い腕。


そして、あろうことか口元からは一筋のよだれが垂れています。  


ファンが見れば「尊い」と悶絶する光景でしょうが、私の感想は違います。


(室温24度、湿度50%。環境管理は適正ですが、あの姿勢はよくない。長時間の同一体位は、血流障害と褥瘡のリスクを高めますからね)


 などと、「人体の構造と機能」の知識で現実逃避しつつ、私は彼女の寝顔を凝視しました。  


ノーメイクのはずですが、肌のキメが細かい。


さすが芸能人。  


しかし、まくり上がったTシャツの隙間から、へそ周りの柔らかな起伏が見え……おっと、いけません。  


朝の生理現象と戦う四十五歳にとって、この視覚刺激は劇薬です。  


私は慌てて視線を逸らしキッチンへと逃げ込みました。


さて、朝食です。  


昨夜の彼女は、明らかに低栄養(PEM)状態に加え、ストレス性の胃腸障害を起こしていました。  


一夜明けて、グリコーゲンは枯渇しているはず。  


ここで提供すべきは、速やかなエネルギー補給と、乱れた自律神経を整える食事。


私は冷蔵庫から、豆腐とワカメ、そして味噌を取り出しました。  


おしゃれなパンケーキ? アサイーボウル?  


寝言は寝て言ってください。  


二日酔いに近い疲労困憊の日本人の内臓を救うのは、いつの時代も「味噌汁」と決まっています。


鍋で出汁を取りながら、私は脳内で「臨床栄養学」のプランを組み立てます。  


ワカメの水溶性食物繊維で腸内環境を整え、豆腐で良質な植物性タンパク質を補う。


そして味噌。


発酵食品の力で消化吸収を助けるだけでなく、温かい汁物は副交感神経を優位にし、彼女の張り詰めた神経を緩める効果があります。


トントントン、と豆腐を切る音が響きます。  


すると、背後でガサリと衣擦れの音がしました。


「んぅ……」


振り返ると、浦安さんがのっそりと起き上がるところでした。  


寝癖で髪は爆発し、Tシャツは肩からずり落ち、ブラのストラップが見えています。


(……ッ!見えてない。私は何も見ていない。あれはただの繊維だ。ポリエステルとポリウレタンの化合物だ)


私は「精神の健康」を保つため、必死に己に言い聞かせました。


「ここ、どこ……」


「千葉県某所、独身男性の哀れな巣窟ですよ。おはようございます、浦安さん」


私が努めて冷静に声をかけると、彼女はぼんやりとした瞳で私を見つめ、数秒後、ハッと目を見開きました。


「あ!昨日のおじさん!」


「おじさんではなく我孫子です。管理栄養士です」


「あびこ……さん……?」


彼女は自分の服を確認し、何もされていないことを悟ると、ほっとしたように、しかし少しだけ残念そうに(気のせいでしょうか?)息を吐きました。


「あの、私、勝手に寝ちゃって……すみません!」


「構いませんよ。貴女の身体は、休息を求めていましたから。――顔を洗ってきなさい。新しいタオルは洗面所にあります」


「……はい」


彼女がぺたぺたと裸足で洗面所へ向かう後ろ姿を、私はこっそりと見送ります。


ショートパンツから伸びる脚のラインが、朝の光に透けて神々しい。  


いけません。


「公衆衛生学」的に、この密室空間の空気が私の邪念で汚染されそうです。


換気扇を「強」にしました。


数分後。  


さっぱりした顔で戻ってきた彼女を、食卓へ促します。  


メニューは、白米(昨夜より少し硬め)、豆腐とワカメの味噌汁、そして温泉卵。


質素です。


特養の朝食よりも質素かもしれません。


「いただきます……」


彼女は味噌汁を一口、すすりました。


「んっ……」


その瞬間、彼女の身体が震えました。  


温かい液体が食道を通り、空っぽの胃に落ちていく感覚を、全身で味わっているようです。


「しみる……」


「でしょうね。貴女の身体は今、ミネラルとアミノ酸の砂漠状態ですから。味噌の塩分と大豆ペプチドが、細胞の一つ一つに染み渡っているはずです」


私が「基礎栄養学」の講義のような解説を添えると彼女はくすりと笑いました。


「ふふ、おじさんの説明、なんか学校の先生みたい」


「職業病です。黙って食べてください。温泉卵はご飯に乗せて。半熟の黄身にはレシチンが含まれています。脳の神経伝達物質の材料になるので、今日の仕事のパフォーマンスが上がりますよ」


彼女は言われた通りに、温泉卵をご飯に乗せ、醤油を少し垂らして口に運びました。  とろりとした黄身と、甘い白米。  


それを咀嚼する彼女の頬が、リスのように膨らみます。


「おいしい……。コンビニのおにぎりと全然違う……」


「それはそうでしょう。コンビニ食が悪いとは言いませんが、『給食経営管理論』の観点から言えば、大量調理・流通のために保存料や添加物が使われています。今の貴女に必要なのは、素材そのものの優しさと、作り立ての『気』です」


少々スピリチュアルな表現になりましたが、事実です。  


食事とは、ただの栄養素の足し算ではありません。


誰かが自分のために作ったという事実が、プラセボ効果以上の治癒力を生むのです。


これは「栄養教育論」でも語られる心理的側面ですね。


彼女は黙々と、しかし凄い勢いで完食しました。  


そして、空になった茶碗を見つめ、ポツリと言いました。


「私、帰りたくない」


ドキリ、と心臓が跳ねました。  


朝の静寂に、その言葉はあまりに重く、そして甘く響きました。


「仕事があるでしょう」


「ある。……でも、戻ったら、またあの冷たいお弁当と、怒鳴り声と、眠れない夜が待ってる……」


彼女が顔を上げました。  


その瞳は、縋るように私を見ています。


「ねえ、我孫子さん。……私を、飼ってくれませんか?」


「…………はい?」


飼う?  


犬か猫の話でしょうか。


いいえ、目の前にいるのは国民的アイドルです。


「私、お金ならあります。家賃も食費も払います。だから……ここに置いて。我孫子さんのご飯が食べたいの。じゃないと私、もう頑張れない」


彼女はテーブルの下で、私の手にそっと自分の手を重ねてきました。  


ひんやりとした、細い指。  


その感触に、私の脳内の「応用力試験(状況判断)」アラートがけたたましく鳴り響きます。


選択肢A:警察に通報し、事務所に引き渡す。(社会的正解)  


選択肢B:丁重にお断りし、タクシーを呼ぶ。(倫理的正解)  


選択肢C:21歳の美少女アイドルと同棲する。(男としての本能的欲求、ただし破滅のリスク特大)


45歳、独身、管理栄養士。  


人生最大の分岐点が、味噌汁の香りと共に訪れました。


「浦安さん。一つ、訂正しておきます」


私は震える声で、しかし精一杯の虚勢を張って言いました。


「私はペットを飼う趣味はありません。……ですが、栄養失調の患者を見捨てるほど、落ちぶれてもいませんよ」


ああ、言ってしまった。  


この瞬間、私は「社会・環境と健康」のバランスを自ら崩壊させたことを悟りました。  


やれやれ。


どうやら私の寿命は、タバコや酒ではなく、この天使によるストレスと興奮で縮まることになりそうです。

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