第2話 天使の胃袋は「要介護度3」でした

私が独身貴族(という名の孤独な中年)として暮らす1LDKの城に、異物が混入しました。  


ニトリで19,800円で購入した合皮のソファに、推定年収数億円の国民的アイドルが横たわっているのです。


なんというシュールレアリスムでしょうか。


彼女をソファに降ろす際、私の手が誤ってその柔らかな二の腕や、腰のくびれに触れてしまったことは、事故です。


不可抗力です。  


しかし、指先に残る弾力と温もりを反芻し、「これが20代……いや、トップアイドルの質感か……」と感動に打ち震えてしまったことは、墓場まで持っていく秘密としましょう。


ああ、役得でした。


合掌&礼。


「うぅ……」


ソファの上で、浦安さんが小さく身じろぎしました。  


短パンから伸びた白い太ももが、黒い合皮の上で艶めかしく主張しています。  


いけません。


これは目に毒です。


眼球の保養を通り越して、網膜が焼け焦げそうです。  


私は慌てて寝室から毛布を引っ張り出し、彼女の身体を頭まで覆い隠しました。


これでよし。


まずは視覚情報を遮断し、理性を保たねばなりません。


さて、トリアージの続きです。  


彼女は「水」と言いました。ですが、ここで冷えたミネラルウォーターを渡すのは素人です。  


脱水気味で、かつ空腹で胃が萎縮している状態。


そこに冷水を流し込めば、胃痙攣を起こしかねません。


私はキッチンに向かいました。  


冷蔵庫を開けると、特養での試作メニューのために買っておいた食材が鎮座しています。  


卵、大根、長ネギ、そして冷凍しておいたご飯。


(ステーキや焼肉をご所望ならお帰り願うところですが、あいにく今の彼女の胃腸スペックは、私の見立てでは『要介護度3』相当です)


咀嚼力、嚥下機能、消化吸収能力。


すべてが著しく低下しているはず。  


ならば、答えは一つ。  


私が20年間、来る日も来る日も作り続けてきた、あのメニューです。


私は鍋に水を張り、昆布と鰹節で丁寧に一番出汁を取り始めました。  


顆粒だし? 


いえいえ、弱った胃粘膜には天然のアミノ酸こそが最高の修復材なのです。


沸騰する直前で昆布を引き上げ、鰹節を投入。


黄金色の出汁が香りを放ちます。  


そこに、水洗いしてぬめりを取ったご飯を投入。  


目指すは「全粥」ではありません。


もっと水分量の多い、米粒の形が崩れる寸前の「七分粥」です。


コトコトと煮込む間、大根をおろします。


ジアスターゼ。


消化酵素の王様ですね。


これを加熱の最後に加えることで、酵素を失活させずに消化を助けるのです。  


仕上げに、溶き卵を回し入れます。


ここがプロの腕の見せ所。  


沸騰させた状態で入れると卵が固くなりすぎます。


火を止め、予熱でふわりと花を咲かせるように固める。


これにより、喉越しはシルクのように滑らかになります。


「よし!」


完成したのは、『極限まで胃に優しい、プロ仕様のたまご大根雑炊』です。  


見た目は地味です。


映え要素など微塵もありません。  


しかし、この一杯には、計算し尽くされた栄養と、私の「これ以上面倒事を起こさないでくれ」という切実な祈りが込められています。


お盆に丼とレンゲ、そして少し冷ました白湯を乗せて、リビングへ戻ります。  


毛布の芋虫となっていた浦安さんが、出汁の香りに反応したのか、のぞのぞと顔を出しました。


「いい匂い……」


「お目覚めですか。とりあえず、これを。少しずつ飲んでください」


まずは白湯を渡します。


彼女は震える手でコップを受け取り、一口、二口と飲みました。  


喉が鳴る音が、静かな部屋に響きます。


その無防備な姿に、またしても私の鼓動が不整脈を起こしかけましたが、なんとか無視しました。


「あたたかい……」


「胃がびっくりしないように、人肌にしてあります。さて、食事にしましょうか」


私は丼をサイドテーブルに置きました。  


彼女が中身を覗き込みます。


「おかゆ?」


「ただのお粥ではありません。貴女の今の胃腸レベルに合わせて調整した、高消化性特別食です。噛まなくていい。舌で押しつぶして、そのまま飲み込んでください」


彼女はレンゲを手に取りましたが、力が入らないのか、手が小刻みに震えています。  すくった雑炊が、ぽちゃん、と器に戻ってしまいました。


あー。  


これは、あれですね。  


特養でよく見る光景です。


自力摂取困難(食事介助レベル2)


私は天井を仰ぎました。  


相手は若い女性です。


しかも国民的アイドルです。  


四十五歳のおっさんが「あーん」をするなど、事案です。


通報案件です。  


しかし、栄養補給をさせなければ、彼女はこのまま低血糖で再びシャットダウンするでしょう。  


私は覚悟を決め、彼女の手からレンゲを取り上げました。


「失礼しますよ。口を開けて」


「えっ」


「手が震えているでしょう。こぼしたら掃除が面倒なんです。さあ」


私はあくまで「事務的」な顔を作りました。


心臓がバックバクなのは秘密です。  


フーフー、と息を吹きかけ、適温になった雑炊を彼女の口元へ運びます。  


彼女は少し戸惑っていましたが、出汁の香りに抗えなかったのか、小さく桜色の唇を開きました。


「あーん」


ぱくり。  


彼女が雑炊を含みました。


その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれました。


「っ!?」


咀嚼すら必要ありません。  


半熟の卵とお米が、口の中で解(ほど)け、旨味の爆弾となって喉の奥へと滑り落ちていく。  


彼女の表情が、見る見るうちにとろけていきます。


「おいしい……なにこれ!すごい、優しい味がする……」


瞳の端から、ツゥーっと涙がこぼれ落ちました。  


おいおい、泣くほどですか。  


コンビニ弁当とロケ弁で荒らされた現代人の舌には、一番出汁のグルタミン酸が麻薬のように効くとは知っていましたが、これほどとは。


「あったかい……お腹が、ぽかぽかする……」


「大根の消化酵素のおかげですね。さあ、次です。口を開けて」


そこからは、早かった。  


まるで雛鳥です。  


私が運ぶレンゲを、彼女は一心不乱に受け入れ続けました。  


その上気した頬、潤んだ瞳、そして口元についた米粒を舌で舐め取る仕草。  


……だめだ、理性が飛びそうだ。


誰かお経を唱えてくれ。


あるいは冷水をぶっかけてくれ。  


これはただの食事介助です。食事介助のはずなんです。  


なのに、どうしてこんなに背徳的な気分になるのでしょうか。


丼が空になる頃には、彼女の顔色には生気が戻り、私の精神力は限界を迎えていました。


「ごちそうさまでした……」


彼女は満足げに吐息を漏らし、そのままソファに深く沈み込みました。  


そして、とんでもないことを口走ったのです。


「ねえ、おじさん」


「我孫子です。おじさんですが」


「もっと、食べたい。……明日も、これ作ってくれる?」


はい?  今、なんと?


私が思考停止している間に、満腹になった彼女は、あろうことか私のソファで、すやすやと寝息を立て始めました。  


無防備にもほどがあるでしょう。


ここが狼の巣だったらどうするつもりですか。  


まあ、あいにくこの狼は、牙が抜けたチキン野郎なわけですが。


私はため息をつき(本日5回目)、散らばった毛布を掛け直してあげました。  


どうやら、私の平穏な独身生活は、この「胃袋をつかまれた天使」によって、完膚なきまでに破壊される運命にあるようです。

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