国民的アイドルが求めたのは、フレンチでも焼肉でもなく、特養勤続20年の俺が作る「介護食」でした。

雨光

第1話 深夜の廊下に「要介護度3」の天使がいた

深夜2時の千葉県某所。  


築年数の嵩んだマンションの共用廊下というのは、どうしてこうも寒々しいのでしょうか。


特別養護老人ホーム「なのはな園」での激務を終え、重たい鞄と、それ以上に重たい肩を引きずって帰宅した私――我孫子旭(あびこあさひ)、45歳、独身。


――を出迎えたのは、愛する妻でもなければ、温かい味噌汁の香りでもありませんでした。


私の部屋のドアの前に、うずくまる不審な「物体」でした。


いえ、物体ではありませんね。


人間です。  


それも、やけに小さく、華奢な若い女性です。


(事件でしょうか。それとも、新手の訪問販売でしょうか)


関わりたくない。


それが45年生きてきた私の、最大の処世術です。  


見て見ぬふりをして鍵を開けようとした瞬間、彼女が「うぅ……」と小さな声を漏らし、力のない指先で床をカリカリと引っ掻きました。


その弱々しい仕草が、施設のベッドで脱水を訴える入居者様の姿と重なってしまったのです。


私はため息をつき、足を止めました。  


そして、20年染みついた哀しき「職業病」が、勝手に脳内で彼女のスペック解析を始めてしまいました。


――皮膚のツルゴール(張り)低下を確認。脱水症状の疑いあり。  


――爪に顕著な縦割れ。重度の亜鉛欠乏、および鉄欠乏性貧血ですね。  


――上腕三頭筋皮下脂肪厚(TSF)を目測するに、BMIは十七以下。低栄養状態(PEM)のリスク大。


「あの、もし」


気づけば、私は声をかけていました。  


これは決して下心からではありません。


管理栄養士としての義務感、いわばトリアージです。


ええ、そういうことにしておきましょう。


彼女が、ゆっくりと顔を上げました。  


チカチカと点滅しかけた廊下の蛍光灯に照らされたその顔を見て、私は言葉を失いました。


テレビで見ない日はありません。


今、日本で一番CMに出ている顔。  


国民的アイドルグループ『ベイサイド・エンジェルズ』の絶対的センター、浦安舞(うらやすまい)さん、その人だったのです。


しかし、今の彼女にブラウン管の向こうの輝きはありません。  


目の下には濃いクマがあり、唇はカサカサに乾いています。


まるで魂の抜けたフランス人形のようです。


「お水……」


彼女の乾いた唇が動きました。


「お水、飲みますか?」


私が、利用者に接するいつものトーンで尋ねると、彼女はコクコクと頷こうとして――そのまま糸が切れたように、私の足元へ倒れ込んできたのです。


とっさに抱き留めました。  


軽い。


恐ろしいほどに軽いですね。


まるで羽毛布団を持っているかのようです。  


そして、鼻腔をくすぐる甘い匂い。  


高価なシャンプーの香りと、若い女性特有の体臭が混じり合った、中年の脳髄をダイレクトに痺れさせるような香りです。


(おっと、これは……柔らかいですね。非常に、柔らかい)


薄手のルームウェア越しに伝わる体温と、柔らかい感触。  


視線を少し下げると、ショートパンツから伸びた太ももが無防備に晒されています。


白く、滑らかで、あまりにも無防備な肉体。


内腿のラインが、目に毒すぎます。


(いけません。見てはいけませんよ、我孫子旭。私は医療従事者です。これは肉塊ではない、患者様です。しかし、この至近距離での太ももは……いけません、眼圧が上がってしまいそうだ)


私は煩悩を振り払うように、奥歯を噛み締めました。


冷静になれ、私。  


これは低血糖発作の可能性が高いですね。


速やかに糖分を補給しなければ、意識レベルが低下します。


それに、このまま廊下に放置すれば、彼女は死ぬか、あるいは週刊誌の餌食になるかのどちらかでしょう。


どちらにせよ、私の平穏な生活は終わりです。


「部屋に入りますよ。歩けますか?」


返事はありません。


彼女は私のシャツを弱々しく掴んだまま、荒い息を吐いています。  


やれやれ。


今日は厄日でしょうか、それとも人生最後の幸運でしょうか。


私は覚悟を決めました。  


独身中年男性の殺風景な城へ、日本一のアイドルを運び込む。  


それが、私の平穏で退屈な日常の終わりであり、奇妙な「餌付け生活」の始まりだったというわけです。

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