第三章⑤ 様々なお経に「仏を見る」とありますが、それは「坐禅(道元禅)が宇宙と続きの自己の現成である」ことを言っている。(見=現成)


 道元禅では、神秘体験(光が見えるなど)を求めて坐禅をするのではありません。


正法眼蔵しょうぼうげんぞう光明こうみょう」には、

仏祖ぶっそ光明こうみょうじん十方界じっぽうかいなり。」

【現代語訳】

仏祖の光明⦅真実の自己の耀き⦆はすべてのもの⦅自己を含む⦆が真実の存在として現成する事である


「この光明こうみょう修証しゅしょうして、作仏さぶつし、坐仏ざぶつし、証仏しょうぶつす。」

【現代語訳】

この元々もともと天地一杯てんちいっぱいである自己の光明こうみょう、耀きを修行し、実証して、仏とり⦅仏を現成し⦆、坐禅仏ざぜんぶつとなり、仏を修証し、現成する。

とあって、

仏祖の光明は、必ずしも光が見える事ではありません。見る自己と、見られる光と二つに分かれているのではなく、修行している自己が、「じん十方界じっぽうかい真実しんじつ人体じんたい」二つに分かれる以前の天地一杯の光明の存在なのです。

世間でも「あの人はキラッと光るものを持っている」とか、「幼い子の笑顔は輝いている。」とか言いますが、これは実際に光っているのではなく、生き生きと素晴らしい事を光りや輝きでたとえているのです。


光明こうみょう」には、

仏光ぶっこう青黄せいおう赤白せきびゃくにあらず。」(梵網ぼんもう戒経かいきょうにある言葉)

【現代語訳】

仏の光は青色黄色赤色白色などの眼に見える光や色ではない


とあって、

道元禅師の坐禅は、光が見えたりするような神秘体験を目指すものでなく、普通の当たり前の坐禅です。

 この普通の当たり前の、ただする坐禅が、そのまま宇宙と続きの坐禅であり、仏祖の光明なのです。


坐禅箴ざぜんしん」には、

仏祖ぶっそ光明こうみょう照臨しょうりんせらるるといふは、この坐禅を功夫くふう参究さんきゅうするなり。おろかなるともがらは、仏光明ぶっこうみょうをあやまりて、日月の光明のごとく、珠火しゅか光輝こうようのごとくあらんずるとおもふ。日月の光輝こうようは、わづかにこれ六道ろくぼう輪廻りんね業相ごっそうなり、さらに仏光明にすべからず。」

【現代語訳】

仏祖の光明⦅天地一杯の光明⦆に親しく照らされるということは、坐禅を修行し究め尽くしていくことである。愚か者たち達は、仏の光明⦅人間の感覚では捕え切れないもの⦆を間違って、日月の光りのように、珠や火から出る光りの耀きのようなものであるだろうと思ってしまう。日月の光り耀きは、わずかに迷いの世界の行為の結果による様相であり、決して仏光明にくらべてはいけない。


と、かなり厳しい口調でいましめられています。


また「光明こうみょう」には、

雲門山うんもんざい大慈雲だいじうん匡真きょうしん大師だいし・・・ほう雪峰せんっぽう真覚しんがく大師にす。・・・

上堂じょうどう示衆じしゅに云く、

人々にんにんことごとく光明の在る有り、る時見ずあん昏々こんこんなり。作麼生そもさんならんか諸人しょじんの光明の在ること。』

 しゅこたふること無し。

 自代じだいして云く、

『僧堂・仏殿・厨庫ずく・山門』

 いま大師道だいしどうの『人々にんにん尽有じんう光明在こうみょうざい』は、のちに出現すべしとはず、・・・

人々にんにん尽有じんう光明こうみょう』とは、渾人こんじん自是じぜ光明在こうみょうざいなり。『光明』といふは「人々にんにん」なり。」

【現代語訳】

雲門うんもん大師が法堂はっとうあがって衆僧しゅそうに言った。

「みんな、それぞれ、すべて光明を持っている。しかし、それを眼でようとすると見えなくて、まっくらがりだ。じゃあ、一体どのようなのがみんなに光明があるということなんだ。」

 大衆だいしゅ⦅大勢の修行僧⦆は誰も答えることがなかった。

 そこで雲門大師はみずかわって言った。

「僧堂・仏殿・厨庫ずく庫院くいん、寺の台所⦆・山門」

三界唯心さんがいゆいしん、出会う所、我が生命として、眼前の僧堂、仏殿・・・も、そして私もみんなも名々めいめい光明の存在である。⦆

今、ここで雲門うんもん大師のっている「人々にんにん尽有じんう光明在こうみょうざい」は、長い修行ののちに光明が出現するはずだ、と言っているのではない。・・・

「人々尽有光明」というのは、「渾人こんじん自是じぜ光明在こうみょうざい」「渾人こんじん」その人全体が「自是じぜ」⦅おのずから真実の存在、元々、宇宙と続きの自己⦆であり、「光明在こうみょうざい」⦅光明の存在である⦆ということである。「光明」というのは、「人々にんにん」修行している、君達ひとり一人一人のことである。


とあって、

修行している自己も、また周囲の環境も、出会う所、我が生命として光明(生き生きとした耀き)を放っているのです。


また、永平寺二代目の懐奘えじょう禅師は、

その著「光明蔵こうみょうぞう三昧ざんまい」で、


如来智にょらいちは光明なり。凡聖真俗ぼんしょうしんぞく二辺にへん離却りきゃくする、不動智ふどうちの光明三昧なり。」

(原文 片仮名)

【現代語訳】

如来にょらい⦅来たるが如し、としか言いようのない天地一杯の仏様⦆の智慧は⦅天地一杯の自己が現成している処に現れる、⦆光明である。⦅その光明は、⦆凡聖ぼんしょう真俗しんぞく、見る見られるといった二つに分かれる以前の不動智ふどうちが働いている処に現れる光明の三昧⦅つまり、人間的なものがない、無所得むしょとくの坐禅のこと⦆である。


と言われています。

 つまり、無所得むしょとくの坐禅のことを、そして天地一杯の自己の働きを「光明」と表現されているのです。

 そして「光明蔵こうみょうぞう三昧ざんまい」では、さらに、


今時こんじ参学さんがくの人を見るに、痴暗ちあん因地いんちしょして、朝夕に摩磋まさして、而後じごに光明は、見徹けんてつするならんと待ちくらす・・・愚なるかな、二乗にじょうの坐、および、凡夫ぼんぷの趣向をしゅうして、無上の大道たいどうを、悟らんとようす、痴鈍ちどん邪行じゃぎょうの、れよりもすぎたるなし。」(原文カタカナ) 

【現代語訳】                  

今時いまどきの修行者を見ると、愚かで仏道に暗く、わけもわからず修行の地に身をおいて、朝夕に切磋琢磨して、長い修行の後に光明⦅悟り⦆を徹見てっけんしてやろうと待ち暮らしている・・・馬鹿げたことだ。二乗⦅声聞しょうもん緑覚えんがく⦆の坐禅、及び凡夫の考えに執着したままで、無上の仏道を悟ろうと求めるのは、愚かで頭が鈍い者がする誤った修行で、これよりもひどいものはない。


と、さらに厳しく誤った修行を戒められています。

 光明蔵こうみょうぞう三昧ざんまいが書かれて七百四十年近くになりますが、自分だけ特別な悟りを開いて楽になりたいという、人間の根本的なものは、あまり変わっていないんだなあと思います。

 自分の中に仏道を取り入れるのではなく、仏道の方へ自分を投げ入れるのが正しい修行なのですが、「俺が、俺が」という固まりが邪魔して、中々うまく行きません。これはひとごと人事ではなく、自分の事として受け止めなければと思っています。


 趙州録じょうしゅうには、

 問う、「昼はれ日光、夜は火光かこう如何いかなるか神光じんこう。」

【現代語訳】

昼は日の光があり、夜は火の光があります。それでは神光(特別な光、不可思議な光)とは何でしょうか。


 師云く、「日光にっこう火光かこう。」(日光火光がそれじゃ。)

とあって、

「『神光じんこう』何か特別な光、不可思議な光とは何でしょうか。」と問うてきた僧に対し、趙州和尚は、「何も特別な物はなく、日の光、火の光といった当たり前の事実が、そのまま天地一杯の事実、自己本来の光明なんだよ。」と示されました


 金剛経こんごうきょうには、

若以にゃくい色見我しきけんが以音声いおんじょう求我ぐが

 是人ぜにんぎょう邪道じゃどう不能見ふのうけん如来にょらい

【本文書き下し文】

しきってわれ音声おんじょうってわれを求めば、ひと邪道じゃどうぎょうず、如来にょらいることあたわず。

【現代語訳】

もし、いろかたちひかりなど眼に見えるものでわれ如来にょらい、宇宙と続きの自己)を、音や声など耳に聞こえるもので、われを求めるならば、その人は間違った道をぎょうじていることになる。如来にょらいを見ることはできない。(真実の仏道を行じ、宇宙と続きの自己を現成げんじょう(見成)することはできない。)


とあり、


また、法華経ほけきょうけん宝塔品ほうとうぼん」には、

若説にゃくせつ此経しきょう、(もしの経をく人は)

 則為そくい見我けんが」(すなわわれ釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ⦆をるとす)

【現代語訳】

の経、⦅この天地一杯の自己⦆を説く⦅修行する⦆人は、そのままただちに釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ⦅修行している処に現れる天地一杯の自己⦆を見る。⦅現成する⦆)


とあります。

 

法華経ほけきょう安楽あんらく行品ぎょうぼん」には、

深入じんにゅう禅定ぜんじょうけん十方仏じっぽうぶつ

【現代語訳】

深く禅定ぜんじょうに入って、十方じっぽうほとけを見る


とありますが、これは坐禅がそのまま「十方仏じっぽうぶつ」天地一杯の姿である事を言っているのであって、実際に仏が見えるのではありません。深く禅定ぜんじょうに入っているという事は、何かを見る、見られるという主客しゅかくに分かれた関係にあるのではありません。(坐禅中は、半眼はんがんと言って、少し眼を開いていますが、どこにも焦点を置いていません。)


 正法眼蔵「梅花ばいか」には、

見仏けんぶつといふは作仏さぶつなり。」

【現代語訳】

仏を見ると言うのは、仏と(成)ること⦅宇宙と続きの自己を現成すること⦆である


「このけん釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ見仏けんぶつにあらず、釈迦牟尼仏しゃかむにぶつのごとくけん釈迦牟尼仏しゃかむにぶつなるを見仏けんぶつ参学さんがくしきたれり。」

【現代語訳】

ここで言うけん釈迦牟尼仏しゃかむにぶつとは、⦅普通で言う⦆仏を見ると言うことではない。釈迦牟尼仏しゃかむにぶつのように、けん釈迦牟尼仏しゃかむにぶつする⦅宇宙と続きの自己を現成する⦆のを、見仏けんぶつ参学さんがくしてきているのだ。


とあり、


正法眼蔵「十方じっぽう」には、

自己現成じこげんじょうして現成公案げんじょうこうあんなり。開殿見仏かいでんけんぶつなり。」

【現代語訳】

⦅坐禅修行している処に⦆宇宙と続きの自己が現成して、そこに絶対の真実が、ありのままに現れている。自己が元々持っている宝殿ほうでんを開いて、⦅見仏けんぶつ⦆宇宙と続きの自己を現成げんじょうするのである。


 正法眼蔵「眼晴がんぜい」には、

恁麼いんも見成けんじょう活計かっけい眼晴がんぜいなり」

【現代語訳】

このような真実が具体的に現れる生き生きとした働きは、仏祖の眼晴がんぜい、宇宙と続きの自己の現成しているところに現れる。


とあって、

この「けん」は「見成けんじょう」つまり「現成げんじょう」ありのままに現れているということです。また、現成げんじょう現生げんなまという事で、その時その時、一瞬一瞬で固定したものはないのです。


 釈尊しゃくそん成道じょうどうことば

(この時、菩提樹下ぼだいじゅげで坐禅しておられた。⦅深入じんにゅう禅定ぜんじょう⦆)

われ大地だいち有情うじょう同時どうじ成道じょうどうす。」

【現代語訳】

われ⦅天地一杯の自己⦆の成道じょうどう⦅現成⦆と同時に、⦅出会う所、我が生命(三界唯心さんがいゆいしん)だから⦆大地自然も生きとし生けるものも成道じょうどう⦅現成⦆している。⦅けん十方仏じっぽうぶつ⦆)

つまり、「けん明星みょうじょう」とは「現成げんじょう明星みょうじょう

坐禅している処に、天地一杯の自己が現成していること、自己と明星が一体である事を言っています。

南泉なんせん和尚(趙州和尚の師匠)のことば

昨夜さくや三更さんこうつきまどいたる。」

【現代語訳】

昨日の真夜中、すべてが全く静まり返っていて、人間的なものがなく、⦅深入じんにゅう禅定ぜんじょう⦆ただ月が窓にいたっていた。⦅けん十方仏じっぽうぶつ⦆)

いずれも同じ事を別の表現で表しています。


 正法眼蔵「仏性ぶっしょう」には、

真箇しんこの『用弁ようべん』は『声色しょうしき』の即現そくげんにあらず。真箇しんこの『説法せっぽう』は『無其形むごぎょう』なり。」

【現代語訳】

本当のほう、天地一杯の真実を説く言葉は、⦅自己の外にある対象としての⦆声や形として現れているものではない。本当の説法は「無」⦅趙州じょうしゅう、言葉では完全に表現できない天地一杯の真実を表す無⦆の「かたち」⦅具体的な形⦆、つまり、「坐禅」⦅宇宙と続きの自己⦆の姿、形である。


とあって、

仏道の真実(天地一杯の自己、仏の光明)は、見る見られるの関係で、とらえられるものではないのです。


 マイスター・エックハルトも説教七十一で、

「天の光とは、神である光のことであるが、その光は人間のどんな感覚でもとらえることができない光なのである。」

と言っています。神や宇宙と続きの自己は、人間の頭で理解したり、感覚でとらえたりできるものではありません。

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仏様と同じ坐禅をしてみませんか(道元禅) @usagiosho

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