第5話

 あれから一睡もできなかった。


 ――って言いたいけど、実はあの後すぐ寝てしまった。はっはっは。


 俺、結構図太い神経してるのかも……


 でも一ノ瀬さんは、俺よりも先に起きたみたいでベッドはもぬけの殻だった。


 人の家で家主より寝てしまうなんて……あ、でもこれからは俺の家でもあるんだっけ?


 寝室を後にしてリビングに向かうと香ばしい匂いが……これはトーストか?


「おはよう、和真くん」


「お、おはよう。一ノ瀬さん」


 彼女はもうきちんと着替えていて、髪も軽くまとめてある。


 エプロンが妙に様になっていて。まるで一ノ瀬さんが自分の彼女みたいな錯覚に陥ってしまう。


「朝ごはん、できてるよ。起こそうか迷ったんだけど、寝顔が――」


「寝顔が?」


「……ううん、なんでもない」


 いや、気になるじゃん。視線を逸らさないで教えてよ。


 もしかして俺の寝顔、そんなに酷かった?


 ダイニングに行くと、テーブルの上にはトースト、スクランブルエッグ、サラダとスープが2人分用意してあった。


「おお!? こ、これ一ノ瀬さんが……俺のために?」


「う、うん。簡単なものだけど、勘弁してくれる?」


「いやこれ……すごいよ、一ノ瀬さん。最高じゃん!」


 俺のいつもの朝飯っていったら、食パンをそのまま食うか、まったく食べないかだ。


 ……それに比べたらとんでもない豪華な食事だ。しかもかわいい子が作ってくれている。もう、それだけでポイント高い。


「そ……そう? 良かった、じゃあ食べよっか」

 

 朝から美女と向かい合って座るなんて……どんな夢だよこれ。

 

「……いただきます」


「いただきます」


 しかもこの『いただきます』を一緒に言うシチュエーションとか、破壊力高すぎだって。


 このトーストも美味いな~。


 外がカリッとしていて、中はふわっとモッチリしている。


 俺が普段買ってるロープライスなパンとは天と地ほどの差がある。


「すげー美味しい……」


「……でしょ?」


 俺がボソッと言った本音に、彼女は目を細めて嬉しそうに笑ってくれる。


「和真くん、スクランブルエッグは醤油派だったよね。はい、どうぞ」


 さりげなく醤油を取ってくれたりして……ってあれ?


「俺、そんなこと言ったっけ?」


「ふふっ」


 いや、間違ってないんだけど、醤油派の話なんかしたかな?

 

 でも……この感じってさ。


 住む場所も、仕送りも、バイトも、親の仕事にすら手を回されて……とんでもないことに巻き込まれたと思っていたけど。

 

 ひょっとしたら、一ノ瀬さんとの同棲生活……悪くないんじゃないか?


 むしろ……好きな女子と同棲できるこの状態って最高なんじゃ?


「和真くん。昨日は、ちゃんと我慢できたね。えらいね」


「一ノ瀬さんが言ったんだろ? 同棲ルールだってさ」


 いや、危なかったよ……実際。


 でも、我慢するしかないじゃん?


「うん、これはプラス評価だね」


「その……基準ってなんなの?」


 俺が尋ねると、一ノ瀬さんは少しだけ身を乗り出して悪戯っぽく微笑む。


「……内緒」


 朝っぱらから美女の笑顔は、心臓に悪い……早死にしそうだ。


 俺の反応を楽しそうに眺めると一ノ瀬さんはコーヒーを飲んだ。

 

 俺、マジでこの人と同棲してるんだ……

 

「あ、そうだ。和真くんのお父さんのことだけど」


「ああ……うん。一ノ瀬さんのお父さん。俺の父さんが勤める会社の会長なんだろ?」


 俗に言う『家族の運命は俺に懸かってる』ってやつだ。


「私、そんなに悪い子じゃないから……安心してね」


「そうか。てっきり、俺も父さんもハメられたのかと思ったぜ」

 

「私……和真くんのことハメてないんだけど。その言い方、失礼じゃない?」


 一ノ瀬さん……その目つき怖いですって!


 特に……あなたの権力とか財力とか権力とか。

 

「あ、はい……すみませんでした」

 

「わかってくれたら良いの。そうだ和真くん。大学は一緒に歩いて行こうね。帰りも一緒がいい?」


 そこは歩いていくんだ。てっきり、黒塗りの車で行くのかと思った。

 

「えっと……その」


「ふふっ、なに困ってんの? 冗談だから」


「そ、そっか……」


 なんだか、昨日から一ノ瀬さんにハラハラさせられっぱなしだな。


「でも、一緒に行くのは本当だから」


 ◆

 

 マンションを出ると、朝の空気がいつもより澄んでいる気がした。


「ねえ、和真くん」


「ん、なに?」


「こないだのこと……まだ勘違いしてるでしょ?」

 

「あの飲み会の……こ、告白未遂のとき?」


「うん」


 彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、楽しそうに答えた。


「私が『今はちょっと……』って言ったの、断ったわけじゃないんだよ?」


「じゃあ……なんだったんだよ?」


「あ……あれは、トイレ我慢してただけなの!」


「えっ! それじゃ……」


 俺の人生、一ノ瀬さんの尿意のせいで買収されたってこと?

 

「そのあとちゃんと話そうと思ったのに、和真くんいなくてっ!」


「そっか俺……あの時、家に帰ったから」


「なんで逃げるのよ。和真くんのヘタレ!」


「いやっ! 俺、断られたと思ったんだって!」


「でも……今度は、逃がさないからね?」


 いや、怖い! その笑顔が怖いっす!


「そろそろ大学ね……みんなの前では、今まで通りでお願いね?」


「お、おう。わかった。えっと……俺たちは友達で、同じサークルの気の合う仲間……だな?」


「うん、よく出来ました。でも。忘れないでね?」


 一ノ瀬さんが急に俺に近づいてきて、耳元で囁いた。


「和真くんは……家では恋人候補なんだからね」


 そう言って、何事もなかったかのように歩き出す。


「でも、お触り禁止だからね~!」


「ちょっと、そんなこと、大きな声で言うなって!」

 

 誰かに聞かれたらどうするんだよ!? 変態だと思われるだろ!


 ……ん? この場合、俺が変態で一ノ瀬さんが被害者って思われるんじゃ?

 

 おいおい……誰も聞いてないよな?


 俺はしばらく、その背中を見送ってから深く息を吐いた。


「わかったよ。一ノ瀬さんを惚れさせればいいんだろ?」


 朝ごはんの味と、並んで歩いた感覚が蘇ってくる。


 ――悪くない、どころか。良い。


 たぶん、この同棲生活は俺に残された最後のチャンス。

 

 ――次こそ一ノ瀬さんにOKと言わせて見せる。


 俺の新生活は、始まったばかりだ。

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俺をフッた女子に拉致されて、逃げ場のない同棲生活が始まりました ちくわ食べます @chichichikuu

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