第12話 瘴気の予兆と、釘は線になる
下水の封印輪を見に行く。
ただの点検――のはずだった。
入口に立った時点で、空気がもう変だ。
下水の匂いが、やけに冷たい。
いつもの腐った水と油の混ざった臭いじゃない。
鼻の奥が薄く痺れて、喉が先に乾く。
しかも、風がない。
「マスク。布は二重。結び目は触るな。戻りはロープで引く。……いいね」
ミラが俺たちを順番に見て、短く言った。
今日は冗談がない。
そういう日は、現場が本気で危ない。
俺は頷き、腰のロープを指で弾く。
結び目は二重。引けば解ける形。
……のはずだったが。
「恒一さん。固定します」
ユミナの手が、俺の頬の横へ降ってくる。
マスク紐を、きゅっと――容赦なく。
背の差を、こんなところで実感させるな。
「……ユミナ、固結びだ。ほどけない」
「安全ですか?」
「安全だけど、外せないのも困る」
俺はユミナの手を取って、結び目を一緒にほどいた。
引けば解ける形に直し、指で確認してから戻す。
ユミナが小さく頷く。
「ほどける安全。採用します」
「その言い方、妙に好きだな……」
昨日まで握ってたのはペンと判子だったのに、いま握ってるのは命綱だ。
キャリアチェンジが急すぎる。
ヴァルトが紙束を差し出してきた。
入坑届、封鎖申請の控え、事故時の責任範囲。
段取りが紙になってるのは、妙に落ち着く。
ただし、間違えたら紙が即・牙を剥く。
「署名はここ。巡察殿の印が押されてから、学院側の封蝋札を添付します」
「分かってる」
羽ペンを受け取り、所定欄へ書き込む。
俺は“協力者”扱いだ。
勝手に動けば、全部ひっくり返る。
ミラが鼻で笑った。
「分かってるなら、余計な正義感で突っ込むなよ」
刺さる。
突っ込みそうになる自覚があるから、笑えない。
「……善処する」
ユミナが隣で小さく息を吸った。
喉元の赤い宝石――アンカーが灯りを返す。
曇らせたら戻らない。
だからこそ、危険であっても“あてにしない”運用でいく。
*
「降りるぞ」
巡察の男が先に言って、格子の鎖を引いた。
金具が鳴る。音がやたら大きい。
学院の男は無言で封蝋の札を俺へ見せる。
入坑許可証。番号。担当印。俺のサイン欄。
紙一枚で、穴の底まで行ける。
逆に言えば、紙がなければ一歩も進めない。
サインを終え、導魔器の留め具に触れた。
雷術の許可札もぶら下がっている。
でも、ここは水と金具だらけだ。
放電は跳ねる。最悪、味方を焼く。
「雷撃は?」
巡察の男が俺の腕を見た。
「封じます」
短く言って、導魔器に封緘札を貼る。
上から油布を巻いた。
――雷は強い。
だがこんな現場じゃ、撃てない場所の方が多い。
なら、撃てなくても届くような火力が今後は要るかもしれない。
使えない必殺技とか漫画やラノベだと格好いいけど、実際には不便なだけだ。
「使うなら地上で、空間を取ってからだ」
学院の男が淡々と付け足す。
「記録にもそのように」
――監査。
汗より張り付く言葉だ。
梯子を下りると、空気が一段重くなった。
石壁が汗をかき、靴底がぬめる。
灯りは三つ。
学院の術式灯、巡察の携行灯、俺の腰の小さなランタン。
数歩で喉が乾く。
水があるのに乾く。嫌な乾き方だ。
*
曲がり角を二つ。
古い水路の段差を越えたところで、視界の縁が揺れた。
水面の波紋じゃない。
空気が、薄い膜みたいに震えている。
ユミナが足を止める。
鼻先を僅かに上げ、喉元に手をやりかけて――止めた。アンカーには触れない。
「……
淡紫の霧が足首にまとわりついた。
霧というより、湿った布を巻かれた感覚。
呼吸はできる。
なのに胸の奥が焼けるみたいに乾く。
金属味が舌に乗り、唾が粘った。
学院の男が問う。
「段階は」
「低位から中位へ移行中」
ユミナの即答が早い。
「長居は推奨しません。感知も乱れます」
瘴気。
地下に溜まる、戻り道を削る霧だ。
俺は息を吐く。
「つまり、濃くなるほど“戻れない”ってことか」
「要するに、そうです」
巡察の男が舌打ちした。
「封鎖だ。戻る」
「待て」
学院の男が視線を巡らせる。
「封印輪の位置までは近い。状態確認が要る」
その言い方が、嫌だった。
“要る”で現場を押す。責任を現場へ落とすときの言葉だ。
一歩だけ前に出て――霧が膝へ上がりかけ、慌てて戻った。
濃度が上がってる。足元の靄が灰に寄り、泥みたいな重さを帯びてきた。
「折衷案だ」
声を落として言う。
「封印輪まで行く。確認して、戻る。……ただし条件がある」
巡察の男が睨み、学院の男は眉一つ動かさない。
「一、換気を作る。風上を確保」
「二、撤退線を固定。ロープを張って迷わない」
「三、誰かが咳をしたら即戻る。根性で続けない」
自分で言ってて、少し笑いそうになる。
俺が“根性”で仕事を回した側だったのに。
ここじゃ根性が人を殺す。
巡察の男が短く吐き捨てた。
「……指示が分かりやすいのが一番ムカつくな。だが、従う」
ユミナが小さく頷く。
「合理的です」
学院の男が言う。
「記録に残す。巡察殿、封鎖線は上で引けるか」
「……上は任せろ。だが下で死人が出たら、お前らを許さん」
俺は頷いた。
「出さない」
言い切るのは怖い。
でも、言い切らなきゃ境界が引けない。
*
換気は魔法じゃなく、“穴”だった。
来た道の途中にあった古い格子を二つ開け、地上の空気が落ちてくる通り道を作る。
学院の男が
強い風じゃない。
煙を払うほどでもない。
それでも、霧が同じ場所に溜まり続けるのを嫌がる程度の“揺れ”ができる。
俺はロープを腰に巻き、巡察の槍持ちと結び直した。
「合図は?」
「三回引いたら撤退。一回だけなら足場注意」
槍持ちが頷く。
霧が濃くなる。
淡紫が灰に寄り、足元の靄が泥みたいに絡みつく。
喉の金属味が強くなった。
頭の奥で、短く「最短」と囁く気配がする。
……違う。
ここで欲しいのは速さじゃない。戻れる形だ。
そのとき、槍持ちが一度だけ咳き込み、足を滑らせた。
泥の靄に足首を取られ、水路へ落ちかける。
「掴め!」
ロープを引き、肩を掴んで引き戻した。
重い。いつもの重さじゃない。空気が体を押してくる。
ユミナが袋から小さな白い粉を撒いた。
神殿から回ってきた簡易の
白が石の上で細い筋になり、紫の霧が一瞬だけ薄くなる。
浄化線は、霧を薄める“安全装置”だ。
でも維持が要る。要するに、ここじゃ贅沢。
だから俺たちに必要なのは、白い線じゃなく――戻り縄だ。
「大丈夫ですか」
ユミナが槍持ちに言う。
槍持ちは頷きながら、苦しそうに笑った。
「……すまん。喉が、焼ける」
「焼けるのは中位の兆候。これ以上は危険です」
学院の術式灯が明滅した。
魔力が乱れている。感知も詠唱も、信用しすぎるな。
「行く」
槍持ちが言った。
列を作り、ロープを辿って進む。
俺は最後尾に回った。倒れたときに引きずる役が要る。
――そういう役を取る癖が、まだ抜けない。
でも今日は、ユミナにだけは背負わせない。
*
封印輪は、石の床に埋め込まれた円だった。
溝に沿って文字みたいな刻みが走り、ところどころが黒く擦れている。
焦げたような、侵食されたような嫌な熱。
学院の男が膝をついた。
白手袋の指が溝をなぞり、目が細くなる。
「……ここにも」
黒い釘が一本。
溝の内側へ、斜めに打ち込まれていた。
槍先が震える。
「嘘だろ。前の場所だけじゃ――」
「触るな」
先に声が出た。
「抜くなら、段取りで」
学院の男が頷き、封蝋札を取り出す。
まず記録。位置、角度、刻印の写し。
ユミナが炭を渡し、拓本を取る。
黒い刻みが紙に浮かぶ。
――手が慣れてる。
打ったやつも、迷ってない。
紙に浮かんだ数字の並びが、学院で聞いた封印更新の桁と合う。
番号があるなら、手口がある。
誰かが“手口”で街を壊しに来ている。
学院の男が釘に工具を当てた。
「抜く。……最低限だ」
「待て」
即座に止める。
「一本抜けば輪の負荷が変わる。ここで段階が上がったら終わりだ」
「じゃあどうする」
槍持ちが低く言う。
「封蝋して固定。抜くのは上で工程を決めてから」
現場で“決めてから”は嫌われる。
でも嫌われても、ここは止める。
学院の男は一拍置いて頷いた。
「……合理的だ」
封蝋札が釘の頭を覆い、仮封が作られる。
赤い紐が泥の霧に濡れて黒ずんだ。
完全な停止じゃない。ただの先送り。
それでも、いまは先送りが命になる。
「もう一箇所、見ます」
ユミナが言った。
「線を確認するには、点が足りません」
「これ以上は――」
槍持ちが反射で拒む。
「五分だ」
俺が先に切った。
「五分で戻る。咳が出たら即戻る」
槍持ちが歯を噛み、頷く。
「……五分だ」
五分。
現場で一番信用できない約束だ。
でも、約束がなければ誰も止まらない。
ロープを一度引く。
合図じゃない。自分への確認だ。
戻る縄は、ここにある。
*
次の分岐へ。
靄が足首から脛へ上がり、灰黒が泥になりかける。
足が遅くなる。
視界が、またほんの少しだけ揺れた。
足が勝手に前へ出かける。
――最短、じゃない。
俺は一呼吸置いて、踵を地面へ押しつける。
「戻る準備」
声を落とす。
「確認はここで切る」
分岐の壁。
そこにも黒があった。
釘じゃない。
釘を抜いた跡。溝が削られ、刻印の角度だけが残っている。
隣の溝にも浅い傷。
――一本じゃない。
ユミナが壁に指を当て、そっとなぞった。
「……同じ角度です」
背筋がぞくりとする。
印刷の
それが、地下にも残っている。
学院の男が低く言った。
「複数地点。意図的だ」
槍持ちは言葉を失う。
俺も同じだった。
頭の中で地図の導線が勝手に引かれていく。
旧水路から幹線へ。封印輪から封印輪へ。
点じゃない。
「撤退!」
槍持ちが叫ぶ。
俺たちはロープへ戻り、来た道を引き返した。
泥の靄が足を引く。喉が乾く。灯りが揺れる。
それでも――縄は切れない。
切れたら、終わりだ。
*
地上の空気は、生ぬるくて、やけにうまかった。
格子の上でマスクを外し、咳を飲み込む。
ユミナが俺を見上げ――いや、見下ろし気味に見て、真面目な顔のまま言う。
「水分補給を推奨します」
「推奨って言うな。……ほら」
俺は水筒を投げ渡す。
ユミナは受け取って、少しだけ目を丸くした。
「温いです」
「この状況で冷えてたら奇跡だろ」
横でミラが、いつもの棘のない声で言った。
「……よく戻った。顔色、悪いぞ」
その一行だけで、肩の力が一段落ちた。
学院の男が拓本と記録を並べる。
ユミナが炭で、紙の上に点を打っていく。角度。位置。番号。
そして、点と点を結んだ。
ユミナの指が線をなぞり、声が落ちる。
「……一本じゃない。これ、線です」
線――ということは、次の点がある。
次はどこだ。どこへ伸びる。
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