第10話 印刷ギルドの顔と、外注の影
「学院の名を盾にすれば、扉は開く。――でも同時に、敵も増える」
ヴァルトの言葉が、まだ耳の奥で転がっていた。
冒険者ギルドの小部屋で、ミラが紙束を机に落とす。
許認可の控え。報告書の写し。
そして――印刷ギルド宛の紹介状。
「これが“入口”だよ。言い方を間違えると、向こうは『監査』だと思う」
「監査、ね……」
胃が勝手に縮んだ。
会社の空気が濃すぎる単語だ。
ヴァルトが短く釘を刺す。
「事故防止。現場の擦り合わせ。そこに落として話せ」
「アルヴェリア魔法学院の封緘は、最後まで出すな。出した瞬間、相手は“権益”で殴られると思う」
頷きながら、胸の奥がざわつく。
証拠の黒い釘は学院の手にある。
俺たちの手元に残っているのは、刻印の写しと、誤植の手順書――つまり紙だけ。
紙で戦うのに、学院の印は隠す。
矛盾してる。
でも、現場の段取りなんて大抵そうだ。
矛盾のまま動ける手順が要る。
*
学術区へ向かう道は、紙の匂いがした。
壁の布告。
講義の告知。
新刊の目録。
刷り物が風にばさばさ揺れている。
紙は軽い。
軽いのに、人の足を動かす。
一行で群れが曲がる。
署名ひとつで剣が抜ける。
だからこの街は強い。
……そして、強い街ほど、紙で刺される。
*
印刷ギルドの建物は、外からでも分かった。
壁際に積まれた紙束、乾きかけのインクの匂い。窓から漏れる熱気。
入口で止められる。
守衛というより、現場の目だ。
「用件は?」
「誤植の件です。封印更新手順書の刷りについて確認したい」
ユミナが落ち着いた声で言う。
相手の眉が動く。「誤植」と「封印」が同じ口に乗った瞬間の警戒だ。
ここで“学院”を出したら終わる。
ヴァルトの忠告が脳裏で鳴る。
俺は一歩前に出て、先に結論だけ置いた。
「犯人探しじゃない。事故防止だ」
手順書の写しを差し出す。
例の一文字が違う紙。
「刷った紙が原因で事故が起きるなら、“刷っただけ”じゃ済まない。被害が出たら、ギルドの信用も燃える」
「俺たちは、その前に止めたい。必要なのは“どこで刷られたか”だけだ」
相手の目が細くなる。
「……脅し?」
「現場の予測です」
俺は両手を机に置き、指を揃える。
見える形で線を引く。
「ここで誰かを吊し上げるなら、最初から巡察に持っていく。そうじゃない。原因を特定して、事故の芽を摘む」
ユミナが淡い声で補足した。
「当該文言の差異は、封印輪の回転方向に影響します。誤作動が起きれば、都市インフラに連鎖します」
「必要な範囲で。開示範囲は限定します」
女は俺とユミナを交互に見て、迷う目をした。
やがて奥へ顎をしゃくる。
「オルガに通す。ただし条件。ここで見聞きしたことは外へ漏らさない。誓約が要る」
「受ける」
即答した。
誓約は鎖じゃない。
線だ。
線が引けるなら、むしろ助かる。
*
工房の中は熱かった。
炉の熱じゃない。人と機械の熱だ。
木枠の圧搾機がぎしりと鳴って紙を噛む。
金属の活字が箱に整列し、職人の指がそれを拾って並べ、叩く。
インクが乗って、紙が通って、文字が生まれる。
乾燥ラックの列を抜けるだけで、街の血管を歩いてる気分になる。
太い腕の女が立っていた。
腕の筋に墨の染み。髪を布でまとめ、目だけがやたら鋭い。
「オルガ。印刷ギルドの工房主だ」
俺が名乗る前に、オルガは俺の鞄――いや、封筒の位置を見て言った。
「学院の封緘、持ってきたな」
やっぱりそこか。
俺は封筒を机に置いた。
押し付けない距離で。見せられるが、振り回さない距離。
「必要なら見せる。でも先に言う。学院の権益を広げに来たんじゃない」
「封印更新手順書に、改竄の疑いがある」
「改竄?」
オルガの眉がぴくりと動く。
「“うち”の刷りだと言いたいのか」
「言いたくないから来た」
手順書の写しを広げ、ユミナが一文字を指で押さえる。
「ここ。『補修』じゃなく『解除』になってる」
空気がじわりと立った。
紙の上の一文字が、職人の誇りに針みたいに刺さる。
オルガが低く言う。
「その一字で、封印が逆に回るって?」
「可能性がある」
答えたのはユミナだった。
「封印輪は手順に従って結合をほどき、補修し、再結合します。解除は、ほどいたままにする指示です」
オルガが吐き捨てる。
「……馬鹿げてる。そんな紙を出したら、街が沈む」
「だから来た。沈む前に、刷り元を確かめたい」
オルガは写しを一瞥しただけで、周囲へ声を飛ばした。
「ラズ! 刷り番と組版札を見ろ。これ、うちの癖か!」
組版札――活字を並べる時の“合図札”だ。
紙の端に残る、工程の足跡。
呼ばれた若い職人が紙の端を指でなぞる。
点と線。角度。手つきが迷わない。
ラズが舌打ちした。
「……似てる。だが、違う」
「違う?」
「うちは角を寝かせる。こいつは立ってる」
「刷りの圧が浅い。急ぎで回したか、機械が違う。インクも油が軽い」
背中に冷たい汗が走った。
小さな違いが、線になる。
そこで、ユミナの鼻先に白いものが付いているのが見えた。
紙粉だ。
工房の熱と粉で、気づかないんだろう。
俺はポケットからハンカチを出して――迷わず、そっと拭う。
一回だけ。
ユミナが目を丸くした。
「……っ」
「鼻」
「確認しました」
言いながら、ユミナは小さく口を尖らせる。
それから小声で言った。
「……顔面、更新されました」
言ってから、自分で照れたみたいに視線を逸らす。
……だめだ。
守る理由が、また増える。
オルガが鼻で笑った。
「役所言葉で殴ってこねえ。……その線引き、現場のやつだな」
「で、続きだ。ラズ。違うならどこだ」
ラズが肩をすくめる。
「“うち”じゃない。少なくとも、仕上げは違う」
ユミナが静かに言う。
「外注の可能性が高いです」
「……当たり前に言うな」オルガが吐く。「うちだって全部は抱えられねえ」
俺は言葉を整理して、三行で押さえた。
「学院が版下を出す」
「印刷ギルドが校正と最終責任を取る」
「でも量が多いと、刷りは外へ流れる。――外注がある」
オルガが顎を引く。
「外注。下請け。呼び方は何でもいい」
「エリンの腹の外側で回して、間に合わせる」
腹の外側。
中心が綺麗ごとを言うほど、外側に負荷が押し出される。
嫌に現実的で、胸の奥が重くなった。
その時、ガントレットの留め具がわずかに緩んだ。
動きにくい。締め直さないとまずい。
俺は一拍迷って、ユミナへ腕を差し出す。
「……見て。どこ、締めればいい?」
「右。二穴戻して。革を捻らないで」
ユミナは触れずに、指先で空中に形を示す。
言われた通りに締め直すと、ユミナが小さく頷いた。
「良いです。事故が減ります」
その言い方が、妙に嬉しい。
……頼るのも、手順だ。
「外へ出すとき、版はどうする?」
「版は渡さない。渡せば偽造ができる」
オルガは即座に返した。
「渡すのは活字箱か、刷り上げ前の束だけだ。戻しも確認する。帳簿も残す」
「残さなきゃ、うちが死ぬ」
「その帳簿を見せてほしい」
言った瞬間、空気が硬くなる。
職人の目が刺さった。
学院の匂いのする言い方だった。
だから、俺はすぐ続ける。
「犯人探しじゃない。事故の芽を摘む」
「印刷ギルドの信用を守るために、情報が要る」
オルガは少しだけ目を細めた。
「……条件。うちの帳簿を見たことは、巡察にも学院にも勝手に漏らすな」
「必要なら誓約を取れ」
「取る」
頷く。
「文言はこっちで案を作る。あなたの確認を入れる。署名は双方。証人もつける」
ユミナが紙を一枚差し出した。
「文言案です。『閲覧内容は事故防止目的に限り、第三者開示は当事者同意を要する』」
オルガが鼻で笑う。
「……あんたら、ほんと紙で殴るのが好きだな」
「殴りたくて殴ってるんじゃない」
「殴られる前に、殴り返せる紙を持ちたいだけだ」
オルガが短く笑って、顎で奥を示した。
「来い」
*
帳簿室は、工房の熱が嘘みたいに冷えていた。
紙が湿気を嫌うからだろう。乾いた空気が喉に刺さる。
棚に並ぶのは、刷り番の台帳、納品札の控え、外注先の一覧。
人と紙が運ばれる“線”が、全部ここにある。
オルガが指で一冊を叩いた。
「手順書関連の刷り。学院発行、封印更新、版番号……」
ユミナの目が文字を掬う速度に、内心で舌を巻いた。
AIだった頃の処理を、いまは“人の目”でやっている。
無茶に見えて、限界は守ってる。
そこが怖いし、頼もしい。
「……これ」
ユミナが一枚の控えを抜いた。
紙の角に赤い“急”の印。納期が短い案件。
しかも“差し替え”指定。
オルガが唇を噛む。
「急ぎ再版。そんなの普通はやらない。やるなら回収とセットだ」
「回収は?」
俺が問うと、オルガは首を横に振った。
「書いてない。……つまり、ばら撒く気だ」
背筋が冷えた。
正しい手順も、間違った手順も、街に混ざる。
事故は「誰のせいか分からない形」で起きる。
責任追及が、一番やりやすい形で起きる。
俺は声を落とす。
「誰の指示だ」
「学院名義。だが、署名が変だ」
オルガは控えの末尾を指で押さえた。
「うちの窓口を通ってない。夜に版下が持ち込まれて、外へ回せってだけ」
「……その時、うちの若いのが一人、抱えさせられた」
ラズが顔を背ける。
「俺じゃないっす」
ユミナが小さく頷いて、真顔で言った。
「俺じゃないっす」
「やめろ、うつる」
「……了解っす」
「増やすな」
オルガが「黙れ」と一言で切って、俺を見た。
「外へ回した先の名を聞く気か」
頷くしかない。
ここまで来て引けない。
ただし、押し付けない。
線は守る。
――その上で。
紙で戦う。
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