第9話 材質のルートと、組版符の角度

「……ここ、“補修”じゃありません。“解除”です」


 ユミナの指先が止まったのは、たった一文字だった。

 それだけで、胃の奥がひゅっと冷える。


 補修は、直す。

 解除は、ほどく。


 封印輪の更新手順――文献魔法は、文章の順番が命だ。

 そこに「解除」と書かれていたら。


 手順は“直す”じゃなく、“ほどく”ほうへ転ぶ。


 俺の世界でも、マニュアルの誤記で人は死ぬ。

 この世界じゃ――街ごと、だ。


「誤植にしては、致命的すぎる……」


 声にすると、喉が乾いていた。


 ユミナは頷かない。

 頷いた瞬間、これが「確定」になる。


 確定すれば、次の紙が生まれる。

 次の権限と、次の責任を引き寄せる。


「整理します」


 短く告げて、ユミナが続ける。


「まず、“紙の正体”を掴む必要があります」

「配布範囲と、刷った場所」


 それから、俺のほうを見る。


「黒い釘の刻印。点と点を繋げます」

「うん。紙と釘。両方の“ルート”を辿る」


 机の上には紙束が山になっていた。

 学院の書式、ギルドの報告書、巡察の控え。


 全部が「順番」を要求してくる。

 なのに、積まれるほど落ち着く自分が腹立たしい。


 ……段取りが組めるからだ。


「その釘の“印”、見せろ」


 冷えた声が割り込んだ。


 灰色のコート。

 学院監査官――ルドヴィク・グレイ。


 丁寧で冷たい目が、紙束じゃなく、俺の手を見ている。

 紙を持つ手。持てるかどうかを量る視線だ。


「証拠は学院で保全する」

「だが外部鑑定の必要性は認める。条件がある」


 条件。

 反射で背筋が伸びた。嫌な単語だ。


 ルドヴィクは淡々と指を折る。


「封緘のまま運ぶ。開封は鑑定師の前で」

「立会いは私がする」

「報告は当日中に提出。口頭ではなく、紙で」


 紙で。


 その一言だけは、少し救われた。


 口頭は曖昧に逃げる。

 紙は逃がさない。


「……了解です」


 頷くと、ルドヴィクの表情がわずかに緩んだ――ように見えた。

 見えただけかもしれない。


「判断が早い。余計な交渉を増やさないのは良い」


 褒め言葉が合理の顔をしている。

 それでも、少しだけ息がしやすくなった。


 ユミナがペンを取る。

 項目線を引いて、空欄を埋めていく。


 署名欄で、指が止まった。


 この世界で、俺の署名に何の価値がある?

 結局押すのは、仮札の番号とギルド印――「手順に紐づく身分」だ。


 ルドヴィクはそれを見ても何も言わなかった。

 肯定でも否定でもない。監査官の顔。


 *


 詰所を出るとき、封緘箱は俺の手に渡らなかった。

 ルドヴィクが自分で抱え、「歩幅を揃えろ」とだけ言う。


 信用されてない。


 ……でも、証拠保全としては正しい。

 ここで意地を張っても得るものはない。


 ギルドへ戻り、ヴァルトに告げた。


「外部鑑定の段取りが要る」

 ヴァルトは眉ひとつ動かさず、頷く。


 ミラが紙片を投げて寄越した。

 工房の場所と、相場。


「鑑定料は銀貨。領収の控え、必ず取れ」

「……書類いるやつですって顔だな」

「当たり前だろ」


 紙が回る。金が回る。許可が回る。

 そうやって街は動く。


 焦るな。

 焦った瞬間、誤差が滑り込む。


 *


 鑑定師の工房は、街の裏手にあった。


 表通りの“看板”じゃない。

 裏口の“匂い”で分かる場所だ。


 油と金属、酸っぱい薬品の気配。

 壁に干された防毒布。角に積まれた木箱。

 封緘用の蝋と布が、同じ棚に並んでいる。


 ここは、“危ない物”を当たり前に扱う場所だった。


 道中、壁に貼られた布告が目に入る。

 細かな活字。均一な行。


 印刷の都らしい整い方なのに――今は、その整いが怖い。


 同じ仕組みで、人は簡単に間違った手順を信じる。

 さっきの「解除」みたいに。


「……印刷って、強いな」


 ぽろっと漏れた俺の呟きに、ユミナが小さく答える。


「だから、攻撃にもなります」


 真顔で言い切ってから、一拍遅れて視線が泳いだ。


「……言い方が、強すぎました」

「いや、合ってる。紙で街が死ぬなら、紙は武器だ」


 ユミナが小さく頷いた。

 その頷きが妙に嬉しそうで――すぐ、真顔に戻る。


「武器の取り扱いは、慎重にします」


 可愛い。可愛いけど、今は笑えない。


 路地の冷気に肩をすくめた、その瞬間。

 ユミナがためらいなく外套をずらし、俺の肩を半分だけ包んだ。


 布の温度が伝わって、背中の冷えが一瞬で引く。


「……寒いなら言ってください」

「言う前にやるな」

「手順の短縮です」


 堂々と言うな。

 でも――助かった。


 *


 工房の机に、ルドヴィクが封緘箱を置いた。


 学院の蝋印を、鑑定師が無言で確かめる。

 指先で割れ目の有無を撫で――頷いた。


「開けるぞ」


 職人の声は低い。

 乾いた音で封が割れる。


 中から出てきたのは、封印布に包まれた細い鉄片――黒い釘だった。


 近づいた瞬間、鼻の奥が冷える。


 瘴気しょうきだ。

 下水の奥で嗅いだ、あの冷たい匂いが、薄く残っている。


 視界の縁が、ほんの少し波紋みたいに揺れた……気がした。

 気のせいと言い切れないのが、いちばん嫌だ。


 鑑定師が小さな箱を開ける。

 針と目盛りの付いた金属板――携行式の魔力計測器。


 裏面に薄い刻印があった。注意書きだ。


『瘴気環境では誤表示の恐れ。封印布と併用せよ』


 この世界にも、ちゃんと「注意書き」がある。

 少し安心して――同時に、背筋が冷えた。


 注意書きが必要な事故が、もう起きているって意味だからだ。


「これで“気配”を見る。だが先に言っておく」


 鑑定師が俺を見据える。


「この手の遺物は、瘴気を吸う。吸ったら計測は跳ねる。表示は嘘をつく」


 ルドヴィクが淡々と補足した。


「記録上もそうだ。校正済みでも例外はある」


 万能じゃない。

 便利な数字ほど、信用できない。


 ……俺の世界でも、そうだった。


 鑑定師は布の端を少しだけめくり、釘に計測器を近づけた。


 針が、ふっと上がる。

 次の瞬間、跳ねた。


 上がりすぎて、カチンと当たって止まる。


「ほらな」


 鑑定師が鼻で笑う。


「濃いわけじゃない。霧の段だ。だが吸着してる」


「……浄化は」


 ユミナが小さく口にした。


 ルドヴィクの目が一瞬だけ動く。

 禁忌じゃない。けど、監査の場で軽く出す言葉でもない。


 俺が先に言った。


「必要なら手順をくれ。勝手にはやらない」


 ユミナがこちらを見る。

 ほんの一拍、視線が落ちた。


 先走りかけた自分を、飲み込んだ顔だった。


 鑑定師は肩をすくめる。


「ここで浄化ラインを張ると、今度は“元の反応”が見えなくなる。今日はやらん」

「段階を上げないよう、隔離で済ます」


 隔離。

 俺たちの立場にも、どこか似ている。


 鑑定師は釘を別の鉢に移した。

 塩と灰を混ぜた粉が敷かれている。


 触れない。覆う。風を切る。

“押し下げる”じゃなく、“押さえる”。


「で」


 鑑定師が言う。


「これは鍛冶屋の釘じゃない」


 *


 鑑定師は釘の頭を指先で示した。

 そこにある刻み――刻印。


 拓本で見た線は、現物だともっと浅い。

 なのに角度が、妙に揃っている。


「鍛冶の印なら、頭に打つ。深く、太く、見せるためにな」

「これは違う。見せるためじゃない。読むための刻みだ」


 読む。


 その一言で、頭の中に帳簿の感触が戻ってきた。

 数字と印影と訂正線。汗が紙に吸われる感覚。


「材質も普通じゃない」


 鑑定師が続ける。


「地の鉄が違う。混ざり物が多い……回収材だ。溶かして、まとめて、また打った鉄」


「ダンジョンか?」

「可能性が高い。だが“どこの”は言えん。上流の話だ。言えば揉める」


 揉める。政治が燃える。

 ルドヴィクが黙って聞いているのが、その証拠だった。


 鑑定師は刻印の線を爪でなぞる。


「そして、これは“流通”の印に近い。倉に入る前の印」

「帳面に写すための印だ」


「帳面……」


 物が動くとき、必ず紙が付く。

 紙が付かない物は、動かせない。


 黒い釘は、隠したいはずの物だ。

 なのに刻印がある。読むための印が。


「おかしいだろ……」

「同意します」


 ユミナが小さく頷く。


「目的が“運用”側に寄っています」


 運用。


 封印輪を削るだけの道具じゃない。

 封印輪を、手順通りに――“動かす”ための鍵だ。


 そして、手順を動かすのは紙。


「……物を動かすには紙が要る」

「紙を動かすには、刷りが要る」


 言った瞬間、言葉の端に引っかかりが走った。

 俺、こんな言い方、普段してたか?


 誤差が、言葉の端に爪を立てる。


 息を吐いて、言い直す。


「印刷だ。刷り物。あの手順書みたいな」


 ルドヴィクが静かに言う。


「学院は手順を作る。だが、配るのは街だ。配るには――」


「紙の工房」

 俺が呟くと、ユミナが即答した。


「印刷ギルドです」


 *


 鑑定師が棚の引き出しを開けた。

 小さな金属片が並ぶ木箱。


 鉛色の、同じ大きさの欠片。

 角に小さな刻み。文字じゃない。記号だ。


「それは?」

「印刷の“組み”の部品だ。組版札ってやつがある」


 組版札――文字を並べる向きや段組を示す札。

 職人が迷わず“正しい形”を組むための、合図だ。


「向き、段、欄外。そういう合図が要る」

「合図がずれりゃ――紙は平気で嘘をつく」


 鑑定師は一つを摘まみ、机に置いた。


 L字の角。

 そこに斜めの切れ込み。


 その角度が、妙に見覚えがある。


 鑑定師が黒い釘の拓本を横に並べ、同じ角度で金属片を置く。


 ――合った。


 刻印の一部と、ぴたりと重なる。


「……同じだ」


 鑑定師が頷いた。


「この角度は、組版の“上”を示す」

「逆に組めば、字が逆になる。行がずれる」

「校正で拾えなきゃ、誤植が出る」


 誤植。

“補修”が“解除”になるほどの、致命的な誤植。


 背中が冷えた。


 偶然じゃ済まない。

 少なくとも、偶然にしては条件が揃いすぎている。


 鑑定師は釘を封印布に戻し、封緘箱へ納め直す。

 蝋を溶かし、新しい封を押した。


 職人の手は迷わない。

 迷わないからこそ、怖い。


 封緘箱を抱え直しながら、鑑定師が断言する。


「この刻印、鍛冶の印じゃない」

「――紙の印だ」


 紙が、釘を動かした。


 なら次は、紙のルートを潰す。

 ――紙で戦うしかない。

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