摂氏35度の生存権

@k7654321

第一章:数字の死臭

2031年3月15日。  三十七歳。私は元公認会計士としての冷徹な眼を持ちながら、現在は複数の事業を動かす経営者、そして個人投資家として資産を運用している。  深夜、書斎のモニターに映し出されていたのは、私が主力銘柄として保有している外資系製薬大手、パナケイア・ファーマの最新の有価証券報告書だった。


 投資家としての私の指先が、ある一箇所で止まった。  研究開発費が、前年同期比で四百パーセントという異常な跳ね上がりを見せていた。名目は「新規広域抗ウイルス剤の開発」。だが、有価証券報告書の注記を読み込むほどに、嫌な汗が背中を伝う。  通常の創薬、つまり化学合成で薬を作るプロセスでは、これほどの予算はかからない。これは「製造」ではない。もっと生々しい、何かを「培養」し、「維持」し続けるための、桁外れの維持費だ。


 私は、シナゴーグ(会堂)で知り合った、貿易会社を経営する古くからの知人に連絡を取った。彼もまた私と同じく、ユダヤ・コミュニティに身を置く選民の一人だ。彼を介して、パナケイア社の研究開発担当役員、ハンス・ウェーバーが極秘で来日しているという情報を得た。


 西麻布、地下の会員制バー。  ハンスは、スイス製の上質なスーツに身を包み、知的な、しかしどこか深い倦怠を湛えた瞳で私を迎え入れた。


「玉城 賢さん。投資家としてのあなたの嗅覚は、すでに半分以上の正解を言い当てています。財務諸表の行間から我々の『準備』を嗅ぎつけたのは、私の知る限りあなたくらいだ」


 ハンスは、テーブルに置かれた小さな耐熱ガラスの小瓶――**「アンプル」**を指先で弄んだ。


「ネクロウイルス亜種。南極の永久凍土から見つかった古代の微生物が、現代の環境下で変異したものです。これは宿主である人間の細胞に寄生し、自分の住み心地がいいように人間の代謝システムを勝手に作り変えてしまう。結果として、人の体温は三十五度付近まで下がり、免疫機能がパニックを起こす。変わり果てた自分自身の細胞を『敵』と見なして、全身を自分自身で焼き尽くすまで攻撃を止まなくなるのです」


 ハンスは、その銀色の液体が揺れる小瓶を私の方へ押し出した。


「この薬は、微生物が細胞内で分泌する特殊なタンパク質を取り出したものです。いわば、免疫系に『これは敵ではない、攻撃するな』という偽の信号を送るための**『盾』**だ。この微生物は人間の生きた細胞の中でしか生きられず、外に出せば数秒で崩壊する。ゆえに、この薬も工場で大量生産はできません。生きたヒト細胞を苗床にして、一点一点、植物を育てるようにして抽出するしかない。だからこそ、これほどのコストがかかり、数も限られる」


 私は、そのアンプルを見つめたまま動けなかった。  一本一億円。十本で十億円。私が築き上げてきた資産の大部分だ。  怪しい投資話なら、笑って席を立っただろう。だが、死んでしまえば元も子もない。目の前にあるのは、私が有価証券報告書の数字から読み取った「異常な支出」と、完全に一致する物理的な答えだった。


「なぜ、私なんですか。もっと大富豪は他にいくらでもいる」


「富豪は他にもいるが、我々のコミュニティの矜持を理解し、その上で数字の歪みに気づいたのはあなただ。これはビジネスではない。この洪水から生き残るべき種を、我々が選別しているのです」


 ハンスは、懐中時計を取り出し、テーブルに置いた。秒針が、カチ、カチ、と冷酷に響く。


「あと三時間で、パナケイアは世界に向けて『開発の断念』を発表します。臨床試験に失敗し、巨額の損失を出したと嘘をつくのです。そうすれば、この薬の存在を知り、直接アクセスできる外部の人間は極めて限定されることになる。今、この瞬間に決断しなければ、あなたは二度とこの『ノアの方舟の乗船券』を手に入れることはできない」


 心臓が、喉元までせり上がってくるような圧迫感があった。  今、ここで決断しなければ、私はただの「数字を知る者」として、一般大衆とともに冷えゆく世界で朽ち果てる。だが、この十本があれば、自分と、そして自分の愛する人々を、この理不尽な絶滅から切り離すことができる。


 私は、渇いた喉を鳴らした。


「……十本、買います。全額、即座に指定の口座へ」


 ハンスは頷き、冷たい指先で私の手を握った。握手は、古い契約の儀式のようだった。


「賢明です。玉城さん。ただし、忘れないでください。この船に乗れるのは、選ばれた者だけだ。この名簿にない人間に打てば――あるいは、事後の報告を怠れば、あなたは闇の中で処理される。同胞であっても、秩序を乱す者は許されない」


 西麻布の静かな夜が、どこか遠く感じられた。  私の掌には、十億円の重みを持つ、冷たく輝く生存権があった。

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